遠藤実先生をしのんで
たった1回だけ逢った081208
大理(ダーリー)は、雲南省・省都昆明から、高速バスで、8時間程かかる。大理は、昔、城郭都市であった。四方に高い塀を巡らせて、入り口には、大きな城門がある。
この地方の中心都市らしく、本通りは大勢の人で賑わっていた。僕はこの大理を楊君に案内してもらった。彼は鹿児島大学の農学部に留学して、日本語が堪能であった。
夜には、お礼の意味を込めて、カラオケで、歌を歌うことにした。中国のカラオケと言うのは、ここ大理では日本で言うところのキャバレーである。
歌う番が回ってきて僕は「北国の春、」をオーダーした。
北国の春、の映像は、熱帯のヤシの葉が茂っている海岸風景で、思わず笑ってしまった。日本でいう北国も、春も、全然感じられない。
熱帯のヤシの葉がそよぐ海岸とは、歌詞の意味と、似ても似つかぬものである。違和感を感じながら、僕は全曲を歌い上げた。
偉大なる作曲家、遠藤実先生は、逝った。先生ほど、心にしみる名曲を遺した作曲家も又数少ない。
今すぐ鼻歌で歌える先生の名曲といえば、「北国の春」を筆頭に、
「せんせい からたち日記 お暇ならきてね。高校3年生
星影のワルツ 、クチナシの花 隙間風 道連れ、、、、、」
演歌に疎いぼくでさえも10曲以上は口ずさんでいる。
先生が生涯に作られた歌は、5000曲を超えるそうだ。
その中でも名曲と言われるという曲は、五分で、できると先生はおっしゃる。さっと浮かんできて、サッと消えて行く。それが名曲だそうな。これは自分でも体験することだから、実感を伴ってよく理解できる。
先生は、独学で作曲をされたそうだ。その勉強の仕方は、やはりなんといっても、演歌であったろう。お客さんのいかなる注文にもこたえなければならない演歌の流しは、ギターの練習と、演歌の真髄を教えてくれたことだろう。
楽器はギター1本で十分だ。和声学はコード進行を繰り返すうちに、血肉化されてしまっている。おそらく、メロディーも、リズムも、イントロも、エンディングも皆、流しをすることによって意識的に学ばれたことであろう。
これだけ勉強できるのであれば、独学であろうと、師匠につこうと、全く問題はない。
作曲の要蹄は、すべてこの中に含まれているからだ。もし困ることがあるとすれば合唱曲のアレンジくらい、つまりパート譜を作るときくらいだろう。
「困っちゃうなぁ」「高校3年生」「クチナシの花」「道連れ」なんでも作れる作曲家だ。
奈良の薬師寺の売店には、先生が作曲された
「般若心経」つまりお経にメロディーをつけて、歌詞を合唱にした作品が、売られている。
そんな先生に、僕はたった1回だけお出会いしたことがある。
ぼくが日本作曲家協会の会員であったとき、先生は理事をされていた。会長は吉田正せんせいだったと記憶している。
何かの用事でジャスラックの会館を、訪ねた時、偶然に、廊下で出会った。僕は高名な遠藤先生を知っていたが、先生は僕が誰だか知らなかったはずである。僕が立って挨拶をすると先生は、合掌されて、僕にお辞儀された。
僕が手を合わせて、先生に向かってお辞儀をするのは分かるけれども、先生が僕に手を合わせられお辞儀をされたのには、僕は恥ずかしい思いをした。この構図は逆だからである。
大成される今日まで、先生は悠々と生きてこられたわけでは決してない。東京から新潟へ疎開されて、筆舌にに尽くしがたい苦労をしながら、ご自身で音楽を、作曲を勉強されたわけである。
しかも先生は、片腕と頼んだ奥様を15年も前に、なくしておられる。どれほどの苦労があったか。想像に難くない。
苦労人で、優しくて、暖かいお人柄から生まれた名曲の数々は、これからもますます輝きを増して行くことだろう。
たった1回だけ逢った081208
大理(ダーリー)は、雲南省・省都昆明から、高速バスで、8時間程かかる。大理は、昔、城郭都市であった。四方に高い塀を巡らせて、入り口には、大きな城門がある。
この地方の中心都市らしく、本通りは大勢の人で賑わっていた。僕はこの大理を楊君に案内してもらった。彼は鹿児島大学の農学部に留学して、日本語が堪能であった。
夜には、お礼の意味を込めて、カラオケで、歌を歌うことにした。中国のカラオケと言うのは、ここ大理では日本で言うところのキャバレーである。
歌う番が回ってきて僕は「北国の春、」をオーダーした。
北国の春、の映像は、熱帯のヤシの葉が茂っている海岸風景で、思わず笑ってしまった。日本でいう北国も、春も、全然感じられない。
熱帯のヤシの葉がそよぐ海岸とは、歌詞の意味と、似ても似つかぬものである。違和感を感じながら、僕は全曲を歌い上げた。
偉大なる作曲家、遠藤実先生は、逝った。先生ほど、心にしみる名曲を遺した作曲家も又数少ない。
今すぐ鼻歌で歌える先生の名曲といえば、「北国の春」を筆頭に、
「せんせい からたち日記 お暇ならきてね。高校3年生
星影のワルツ 、クチナシの花 隙間風 道連れ、、、、、」
演歌に疎いぼくでさえも10曲以上は口ずさんでいる。
先生が生涯に作られた歌は、5000曲を超えるそうだ。
その中でも名曲と言われるという曲は、五分で、できると先生はおっしゃる。さっと浮かんできて、サッと消えて行く。それが名曲だそうな。これは自分でも体験することだから、実感を伴ってよく理解できる。
先生は、独学で作曲をされたそうだ。その勉強の仕方は、やはりなんといっても、演歌であったろう。お客さんのいかなる注文にもこたえなければならない演歌の流しは、ギターの練習と、演歌の真髄を教えてくれたことだろう。
楽器はギター1本で十分だ。和声学はコード進行を繰り返すうちに、血肉化されてしまっている。おそらく、メロディーも、リズムも、イントロも、エンディングも皆、流しをすることによって意識的に学ばれたことであろう。
これだけ勉強できるのであれば、独学であろうと、師匠につこうと、全く問題はない。
作曲の要蹄は、すべてこの中に含まれているからだ。もし困ることがあるとすれば合唱曲のアレンジくらい、つまりパート譜を作るときくらいだろう。
「困っちゃうなぁ」「高校3年生」「クチナシの花」「道連れ」なんでも作れる作曲家だ。
奈良の薬師寺の売店には、先生が作曲された
「般若心経」つまりお経にメロディーをつけて、歌詞を合唱にした作品が、売られている。
そんな先生に、僕はたった1回だけお出会いしたことがある。
ぼくが日本作曲家協会の会員であったとき、先生は理事をされていた。会長は吉田正せんせいだったと記憶している。
何かの用事でジャスラックの会館を、訪ねた時、偶然に、廊下で出会った。僕は高名な遠藤先生を知っていたが、先生は僕が誰だか知らなかったはずである。僕が立って挨拶をすると先生は、合掌されて、僕にお辞儀された。
僕が手を合わせて、先生に向かってお辞儀をするのは分かるけれども、先生が僕に手を合わせられお辞儀をされたのには、僕は恥ずかしい思いをした。この構図は逆だからである。
大成される今日まで、先生は悠々と生きてこられたわけでは決してない。東京から新潟へ疎開されて、筆舌にに尽くしがたい苦労をしながら、ご自身で音楽を、作曲を勉強されたわけである。
しかも先生は、片腕と頼んだ奥様を15年も前に、なくしておられる。どれほどの苦労があったか。想像に難くない。
苦労人で、優しくて、暖かいお人柄から生まれた名曲の数々は、これからもますます輝きを増して行くことだろう。