日々雑感

心に浮かんだこと何でも書いていく。

徒然に思うこと

2009年11月06日 | Weblog
徒然に思うこと

最近の統計では毎年3万人以上の人が自殺している。1日で約100人の人が自ら自分の命を絶っている計算になる。

平和な風景の中で、それほどの人が日常的に自ら死を選ぶという。この世界は一体どんな世界なのか。日本という国は一体どういう国なのか。

悲惨なニュースも、今は、あまりにありふれてしまい、ニュース価値もへりつつある。どんな悲惨なニュースに触れても、その上をツルツルと意識がすべって行く。

今の時代に、心が鬱になるのを感じ、何とも言えないような感覚を覚えるのは、その人の気持ちがとりわけ人間的であり、繊細であり、やさしいからだ。
菩薩の心に近い心の持ち主ほど、今の時代には、心がなえてしまう感覚を味わう。

不公平 不条理 理不尽
もし、神というものがあるとしたら、神はなぜ自分だけに、こんな苦しみを与えるのか、どうして自分だけはそうなのか、その理由をどうしても知りたい。
そこには理不尽さだけではなく、目に見えない運命に対する大きな怒りの感情がある。

宗教の論理からすれば、苦しみは、天が与えた試練なのだろう。
聖書にある、狭き門からは入れ、という言葉は、多くの苦しみを経験しながら苦しい道を生きるということである。

人間が生きているということは、そもそも大変な矛盾をはらんでいて、その矛盾をはらんでいるという事実を合理的にただそうとしてもただせるものではない。

宗教は人間に必要なものだ。
不公平で残酷であることに人は耐えられない。だから、人間は自分の生きていく不安や恐怖から救ってくれる力を必要とする。
不公平で、理不尽だからこそ人は、もう一つの世界がなければ救われない。
神がいれば、人生ももっと公平のはずだ。不公平は、神がいないということではないか。そうした考え方は、実は神の存在を前提に考えている人の発想である。

世の中は本来、不公平なものだ。しかも残酷である。それが正常である。
先日ベトナム・ホーチミン市のペンタイン市場で生きた鳩に、熱湯を掛けて殺すのを見て人間の持つ残酷さをまざまざと見せつけられた。
気がついたこの残酷さが、人が生きていくための生存欲即ち命の中に有ると思うとぞっとする。

自分の死は不公平な死ではなく、それは神から愛されての死なのだ。と考え納得できるとすれば、確かに救われる。
本当に神のような社会が存在するかどうかは、二義的な問題だ。ただ痛みは少ない方が良い。

信仰を持ったからと言って、暮らしが楽になったり、病気が治ったりすることもないだろう。でも痛みや苦しみを抱えながらも、生きていく力が与えられるとしたら、それは、価値のあるものではないか。やがては苦痛を感じなくなるときが来るかも知れない。その時は現実には救われているのだ。神の恩寵を受けているのだ。

他人の痛みを自分の痛みのように感じる。というが、その人の痛みは、その人当人だけのものであって、どんなに他人が同情し、慰めても、軽くなりはしない。
人は皆独りで生まれてきて、独りでこの世を去っていく宿命を背負っている。そういう厳然たる事実を前提にして我々は共生きの思想をもって暮らしている。