日々雑感

心に浮かんだこと何でも書いていく。

小林亜星その2

2010年03月05日 | Weblog
小林亜星その2

服部正先生の教えの中で、今でも印象に中でいることは三つある。

1、俺はアーティストが、と自ら言ってはいけない。まず職人になれ、
最高の職人になって、その人が精神の領域まで表現できるようになったときに初めて人が、あの人はアーティストだと言ってくれるのだ。
実にそう思う。職人と言えば宮大工西岡常一氏の言葉を思い出す。彼は法隆寺の宮大工だったが、法隆寺建立に使われた木材と工法を基本にそのまま受けついている。
宮大工といっても室町時代以降の宮大工と、法隆寺宮大工とはかなり異なり、ようするに白鳳の建築とは山を買ってその樹木をすべて無駄なく作るという点で、山の命そのものが移し替えられたものだ。そしてその建築技術というのは古代だから劣っているということではなく、中世以降とは思想が異なるということなのだ。このあたりは、私にはちょっと唖然とするものがあった。私は日本の古代とはそれほど大したもんじゃないという歴史の感覚を持っているのだが、山そのものが白鳳の建築の命となれば、山そのものをはぐくむ生活の感性がそのまま仏教に移されることになるし、山の樹木と共生する感性はおそらく千年のスパンがあるだろう。
 西岡常一にとって寺院建築とは千年近い山の命の形を変えたものだ。
こういう哲学を持った人こそ真の職人だ。


2自分が音楽の神様だと思うこと。だから自分の才能を行うに広めないということは犯罪行為である。
自分が神様だとは思えないが、音楽を神様からいただくことはある。
職人と反対に僕はそれにほとんど手を加えることなく、ウタに仕上げる。
取り組み方があまりにも軽いと思いながら、作曲は続ける。

3,その時の感動が大きければ大きいほど良い曲が生まれる。紙を見た瞬間の感動が鈍いと、なかなかメロディーのリードができない。 と彼は説く。


あらゆることに感動する鋭敏な神経と感受性がないと創作家にはなれない。神が降臨する音楽に鈍感だったら、まず作曲家はつとまらない。

ついでに書くと彼はこうもいった。メロデイが美しく確かなものでないと人間の叙情性は薄れる。つまり心はやせ細るということだ。こういう観点からすると現代の若者のウタはウタに値しないと僕は思っている。。はやりの歌は肉体に働きかけてエネルギーの発散やストレスの解消呼び起こす単なるBGMにすぎないと僕は思う。ウタが生涯のものでなくて、一過性の慰みものでいいのだろうか。今の若もは40代に成ったときにどんなウタを歌うのだろうか。