ありがとう
歩き遍路であれ車遍路であれ,遍路をされた人びとの体験談を読んでみると必ずと言って良い程,御礼とか感謝とかいう言葉が出てくる.
普通の観光 旅とは違ってこれは物見遊山気分ではできない旅である
ある人は1200キロを歩き通し,またある人は例えマイカーで巡拝すれにしても、山門や本堂の軒下で野宿をするようなきつい旅行をしている人たちが多い.
その人たちが御礼とか感謝とかいう言葉を口にするのだから、我々が日常会話で使っている言葉の意味とは少し違うように思う..
普通の観光旅行と違ってかなり厳しい条件の旅をしつつも、どうして御礼とか感謝という言葉が出るのであろうか.。
普通の常識からいうとそこに何か違和感がある。.
しかし私が違和感を抱こうと、そういう遍路をされている人は心の底から
気持ちを込めて、それらの言葉を口にされるから、それは真実の言葉なのである.
四国88カ所遍路して回る旅は、ひとつには自然とのふれあいであり
また四国の人々の暖かい人情に触れることでもある。
それによって、普段は心のをそこに閉じこめられでしまって、心のそこで眠ってしまっている感謝という言葉や気持ちを思いだしたりして、人間本来の素直な気持ちになることから、いう言葉が出てくるのであろう
いずれの年からか、私もまた菅笠や2白装束の遍路姿ににあこがれを抱きバイク遍路を始めるようになった。
確かに肉体的には楽な旅ではないが、精神的には今まで経験したことがないような、すがすがしいさを感じる。
もちろんお大師さまには心を寄せて同行二人という安心はあるものの
初めての遍路の旅ということもあって心細い感じもした
私が四国遍路を思いたった理由のひとつに先祖供養ということがある
今は亡き父母や父方や母方の祖父母の菩提を弔うために写経をしてそれを本堂と大師堂に納経するために遍路したいのである
簡単なことではあるが、写経100枚はそれなりに我慢のいることであった。100枚目が終わったときに、私はまずありがとう、という言葉が口から出た、さあ出来た。やれやれ。これでいけるという前に、ありがとうが出たのだ。何故だかわからないが、ごく自然に腹の底から出た言葉であった。
ひょっとしたら お遍路さんは今の私のような状態でごく自然に御礼の言葉が出たり感謝の言葉が出たりするのではなかろうか。
意図していう言葉ではない。自然に口をついて出る言葉である
もちろん遍路には、人それぞれの目標がある。それが成就されたときには、感謝の気持ちが湧いてきて当然だ。
そして目的成就を考えてみると、そこには同行二人つまりいつもお大師さまが側にいて、付き添ってくださり、そのおかげで満願成就したという実感もある。
理由はなんであれ、物欲に振り回されいつも飢餓状態に置かれている現代人が幸せのもとである感謝の気持ちを、取り戻した、あるいは自覚したというのなら現代人にとって、遍路することこそ幸せへの近道ではないか、そんなことも考える。
それにしても、長いあいだ忘れかけていた感謝の心を教えて、とりもどさせてくれた四国遍路には感謝したい気持ちでいっぱいである。
お大師様ありがとう。四国遍路ありがとう。
歩き遍路であれ車遍路であれ,遍路をされた人びとの体験談を読んでみると必ずと言って良い程,御礼とか感謝とかいう言葉が出てくる.
普通の観光 旅とは違ってこれは物見遊山気分ではできない旅である
ある人は1200キロを歩き通し,またある人は例えマイカーで巡拝すれにしても、山門や本堂の軒下で野宿をするようなきつい旅行をしている人たちが多い.
その人たちが御礼とか感謝とかいう言葉を口にするのだから、我々が日常会話で使っている言葉の意味とは少し違うように思う..
普通の観光旅行と違ってかなり厳しい条件の旅をしつつも、どうして御礼とか感謝という言葉が出るのであろうか.。
普通の常識からいうとそこに何か違和感がある。.
しかし私が違和感を抱こうと、そういう遍路をされている人は心の底から
気持ちを込めて、それらの言葉を口にされるから、それは真実の言葉なのである.
四国88カ所遍路して回る旅は、ひとつには自然とのふれあいであり
また四国の人々の暖かい人情に触れることでもある。
それによって、普段は心のをそこに閉じこめられでしまって、心のそこで眠ってしまっている感謝という言葉や気持ちを思いだしたりして、人間本来の素直な気持ちになることから、いう言葉が出てくるのであろう
いずれの年からか、私もまた菅笠や2白装束の遍路姿ににあこがれを抱きバイク遍路を始めるようになった。
確かに肉体的には楽な旅ではないが、精神的には今まで経験したことがないような、すがすがしいさを感じる。
もちろんお大師さまには心を寄せて同行二人という安心はあるものの
初めての遍路の旅ということもあって心細い感じもした
私が四国遍路を思いたった理由のひとつに先祖供養ということがある
今は亡き父母や父方や母方の祖父母の菩提を弔うために写経をしてそれを本堂と大師堂に納経するために遍路したいのである
簡単なことではあるが、写経100枚はそれなりに我慢のいることであった。100枚目が終わったときに、私はまずありがとう、という言葉が口から出た、さあ出来た。やれやれ。これでいけるという前に、ありがとうが出たのだ。何故だかわからないが、ごく自然に腹の底から出た言葉であった。
ひょっとしたら お遍路さんは今の私のような状態でごく自然に御礼の言葉が出たり感謝の言葉が出たりするのではなかろうか。
意図していう言葉ではない。自然に口をついて出る言葉である
もちろん遍路には、人それぞれの目標がある。それが成就されたときには、感謝の気持ちが湧いてきて当然だ。
そして目的成就を考えてみると、そこには同行二人つまりいつもお大師さまが側にいて、付き添ってくださり、そのおかげで満願成就したという実感もある。
理由はなんであれ、物欲に振り回されいつも飢餓状態に置かれている現代人が幸せのもとである感謝の気持ちを、取り戻した、あるいは自覚したというのなら現代人にとって、遍路することこそ幸せへの近道ではないか、そんなことも考える。
それにしても、長いあいだ忘れかけていた感謝の心を教えて、とりもどさせてくれた四国遍路には感謝したい気持ちでいっぱいである。
お大師様ありがとう。四国遍路ありがとう。