聖書主義
僕の信仰は聖書主義だ。間違っていれば、それは自分の誤りだから誤りをたたし自己訂正すればよい。神との直接対話によって自分の考えを実行するわけだから、その間によい意味でも悪い意味でも聖職者やそれに類する人の考えは入り込まない。信仰は何が起ころうとも、すべては自己責任である。
どうしても腑に落ちなくて、納得できないことがあれば、神に直接対話を試み、時によっては神を罵倒するのもよいだろう。
かんかんになって怒るというのは、それだけに神と真剣に取り組んだ証明にもなる。
基本的にこの世で苦しんでいるまじめな人を救わずして何が宗教だという冷静な考えは持ち続けて、いつの場合もこれを物差しにして信仰を眺めてみるのもいい。
信仰するにも中心は常識である。
健全な常識を持つことが健全な信仰をすることにつながる。言い換えれば健全な常識の範囲を超えた宗教には危険が潜んでいる。疑ってみるべきだ。
たとえば霊視や予知能力、超常現象など、超能力を身につけたなどということを公言する宗教はまず疑ってみて近寄らないことである。
確かに科学が万能でないことは誰でも知っている。だからといって、科学以上に宗教が力を発揮して人類の幸福に寄与したかというと必ずしもそうはいえない。
宗教戦争などという現実を見ると、宗教などない方がよほど平和に暮らせると思うのは僕一人だろうか。
人類始まって以来、どれほど多くの人が宗教の名の下に倒れていったか、
歴史を見るとよくわかる。キリスト教でも、イスラム教でもユダヤ教でも、我の信仰する神しか認めない宗教は必ず他の宗教とぶっつかり、人命が損なわれるのを見ると、宗教そのものが存在しない方が良いとさえ思う
僕の信仰は聖書主義だ。間違っていれば、それは自分の誤りだから誤りをたたし自己訂正すればよい。神との直接対話によって自分の考えを実行するわけだから、その間によい意味でも悪い意味でも聖職者やそれに類する人の考えは入り込まない。信仰は何が起ころうとも、すべては自己責任である。
どうしても腑に落ちなくて、納得できないことがあれば、神に直接対話を試み、時によっては神を罵倒するのもよいだろう。
かんかんになって怒るというのは、それだけに神と真剣に取り組んだ証明にもなる。
基本的にこの世で苦しんでいるまじめな人を救わずして何が宗教だという冷静な考えは持ち続けて、いつの場合もこれを物差しにして信仰を眺めてみるのもいい。
信仰するにも中心は常識である。
健全な常識を持つことが健全な信仰をすることにつながる。言い換えれば健全な常識の範囲を超えた宗教には危険が潜んでいる。疑ってみるべきだ。
たとえば霊視や予知能力、超常現象など、超能力を身につけたなどということを公言する宗教はまず疑ってみて近寄らないことである。
確かに科学が万能でないことは誰でも知っている。だからといって、科学以上に宗教が力を発揮して人類の幸福に寄与したかというと必ずしもそうはいえない。
宗教戦争などという現実を見ると、宗教などない方がよほど平和に暮らせると思うのは僕一人だろうか。
人類始まって以来、どれほど多くの人が宗教の名の下に倒れていったか、
歴史を見るとよくわかる。キリスト教でも、イスラム教でもユダヤ教でも、我の信仰する神しか認めない宗教は必ず他の宗教とぶっつかり、人命が損なわれるのを見ると、宗教そのものが存在しない方が良いとさえ思う