こだわり
これは、僕が、アメリカ人のクラブで、ドアーボーイとして働いていたときに体験した話である。
いきなり 「ヘイ、ジャブ、、、中略、、、、ゲラル ヒア」という声がした。
アメリカ人のボスは、雷のような声でどなった。それは当たり前だった。
ドアの開閉をして、金をもらっている人間が、真冬の夜に、ドアを開け、友人とぺちゃくちゃお喋りを楽しんでいれば、雷が落ちるのも、当然だ。
早口で、顔を真っ赤にして、怒っているこのアメリカ人が、まくし立てた怒りの言葉の中では、最初の
ヘイ、ジャブという言葉と、最後のゲラル ヒアという言葉の意味しかわからなかった。
急に大声で、となられて、びっくりしていたから、うろたえるのは、無理のないことである。その中で、僕は、彼の怒りの言葉を自分なりにこう解釈した。
「コラ 日本人の間抜けめ 、、、 、中略、、、出ていて、バカ。」怒られるのは、もちろんこちらの落ち度だから、無理は無い。
怒りすなわち感情が爆発して、理性が効かなくなると本音が出てしまう。
このアメリカ人のボスも思わず本音で物をいったのだろう。今にして思えばジャブ・日本人野郎は無いだろう。
でもそのときは何も気にならなかった。
一般論として、人間社会というものは差別、区別で成り立っているところがある。それは、各人が心の奥底に秘めている劣等感や優越感に根ざしているようだ。
人間は悲しいもので、自分で、自分のいる位置が分からないから、不安になる。すべて比較によって、決めようとするから、となりの車が、大きいと、気になるという、妙なところがある。
となりの車が大きかろうか、小さかろうが、我が家の車がいちばん自分たちにとってふさわしい車だと割り切れば良いのに。となりの車を羨望の念と、同時に、妬みの気持ちを持って眺め、そしてそれにこだわる。そのあたりから、優越感や劣等感が出て、他を優劣で差別するという差別感が生まれてくる。
個々人に置いても、人間は、こういう状態だから、その集団である人種、とりわけ、見た目ではっきりと区別できる、皮膚の色や髪の毛の色では差別が生じやすい。
一般には、白人が、最上位で、それに続いて、黄色人種、最下位が、黒人の順位となっているが、これは暗黙のうちに了解されている。
先程の白人のボスも、この了解のもとに黄色の僕を一段見下げてジャブを使った。人権感覚からすると、問題のある
この発言も、つまるところ、白人が、黄色人種に対してもつ、差別感の端的な表れであると僕は見た。
考えてみると、黄色であるアジア人種でも、日本人は他のアジア人に対して、差別意識を持っている。
たとえば中国人のことをチャンコロと称して、軽蔑した時代があった。
軽蔑した、かの国はその昔、先進国で、我が国の文物は、ほとんど大陸、その国からもたらされ、それをベースに我が国の文化が生まれたと言うのに、
基本的なことはすかり忘れて、ただ見てくれだけで、たちのよくない差別意識を持つ。だから、チャンコロが出るのである。
差別ということに、こだわることは、地獄行きの切符を手に入れるようなものである。差別用語を使って一時的に優越感を持ったとしても、それでいったい何がどれだけ得をしたというのだ。少なくとも現代教育を受けた人間にとっては、大筋では、恥ずかしい思いがするはずである。また、むなしい思いがするはずである。
先程の体験談を持ち出して考えてみると分かるように、差別意識を持つか持たないかは、天と地
ほどの違いがある。差別を意識した途端に、地獄の住人になる。その意味するところが分かれば
ジャブと言われると腹が立つ。だけど、あの時は、僕はジャブの意味がわからなかったから、まるで何も感じなかった。怒った彼が僕の心の中を知ることができたら、むなしい思いをしたことだろう。どんなに軽蔑的な言葉を使って、感情をぶっつけてみても、相手にその意味が分かっていないと「、蛙の面に小便」で、全く無意味であるからだ。s
自分の感情を暴発させて、自分はすっきりしたかもしれないが、心の中は虚しいものが、残りはしないだろうか
人間を肌の色や髪の毛の色で、優劣を感じるようでは気の毒そのもので、真の意味での人間はわかるまい。人間として生まれてきて、このようなこだわりを持ったがために、楽しいかるべき人生をくらいものにしている。ここらでしっかり考えなおしてみるのもいいことだ。
これは、僕が、アメリカ人のクラブで、ドアーボーイとして働いていたときに体験した話である。
いきなり 「ヘイ、ジャブ、、、中略、、、、ゲラル ヒア」という声がした。
アメリカ人のボスは、雷のような声でどなった。それは当たり前だった。
ドアの開閉をして、金をもらっている人間が、真冬の夜に、ドアを開け、友人とぺちゃくちゃお喋りを楽しんでいれば、雷が落ちるのも、当然だ。
早口で、顔を真っ赤にして、怒っているこのアメリカ人が、まくし立てた怒りの言葉の中では、最初の
ヘイ、ジャブという言葉と、最後のゲラル ヒアという言葉の意味しかわからなかった。
急に大声で、となられて、びっくりしていたから、うろたえるのは、無理のないことである。その中で、僕は、彼の怒りの言葉を自分なりにこう解釈した。
「コラ 日本人の間抜けめ 、、、 、中略、、、出ていて、バカ。」怒られるのは、もちろんこちらの落ち度だから、無理は無い。
怒りすなわち感情が爆発して、理性が効かなくなると本音が出てしまう。
このアメリカ人のボスも思わず本音で物をいったのだろう。今にして思えばジャブ・日本人野郎は無いだろう。
でもそのときは何も気にならなかった。
一般論として、人間社会というものは差別、区別で成り立っているところがある。それは、各人が心の奥底に秘めている劣等感や優越感に根ざしているようだ。
人間は悲しいもので、自分で、自分のいる位置が分からないから、不安になる。すべて比較によって、決めようとするから、となりの車が、大きいと、気になるという、妙なところがある。
となりの車が大きかろうか、小さかろうが、我が家の車がいちばん自分たちにとってふさわしい車だと割り切れば良いのに。となりの車を羨望の念と、同時に、妬みの気持ちを持って眺め、そしてそれにこだわる。そのあたりから、優越感や劣等感が出て、他を優劣で差別するという差別感が生まれてくる。
個々人に置いても、人間は、こういう状態だから、その集団である人種、とりわけ、見た目ではっきりと区別できる、皮膚の色や髪の毛の色では差別が生じやすい。
一般には、白人が、最上位で、それに続いて、黄色人種、最下位が、黒人の順位となっているが、これは暗黙のうちに了解されている。
先程の白人のボスも、この了解のもとに黄色の僕を一段見下げてジャブを使った。人権感覚からすると、問題のある
この発言も、つまるところ、白人が、黄色人種に対してもつ、差別感の端的な表れであると僕は見た。
考えてみると、黄色であるアジア人種でも、日本人は他のアジア人に対して、差別意識を持っている。
たとえば中国人のことをチャンコロと称して、軽蔑した時代があった。
軽蔑した、かの国はその昔、先進国で、我が国の文物は、ほとんど大陸、その国からもたらされ、それをベースに我が国の文化が生まれたと言うのに、
基本的なことはすかり忘れて、ただ見てくれだけで、たちのよくない差別意識を持つ。だから、チャンコロが出るのである。
差別ということに、こだわることは、地獄行きの切符を手に入れるようなものである。差別用語を使って一時的に優越感を持ったとしても、それでいったい何がどれだけ得をしたというのだ。少なくとも現代教育を受けた人間にとっては、大筋では、恥ずかしい思いがするはずである。また、むなしい思いがするはずである。
先程の体験談を持ち出して考えてみると分かるように、差別意識を持つか持たないかは、天と地
ほどの違いがある。差別を意識した途端に、地獄の住人になる。その意味するところが分かれば
ジャブと言われると腹が立つ。だけど、あの時は、僕はジャブの意味がわからなかったから、まるで何も感じなかった。怒った彼が僕の心の中を知ることができたら、むなしい思いをしたことだろう。どんなに軽蔑的な言葉を使って、感情をぶっつけてみても、相手にその意味が分かっていないと「、蛙の面に小便」で、全く無意味であるからだ。s
自分の感情を暴発させて、自分はすっきりしたかもしれないが、心の中は虚しいものが、残りはしないだろうか
人間を肌の色や髪の毛の色で、優劣を感じるようでは気の毒そのもので、真の意味での人間はわかるまい。人間として生まれてきて、このようなこだわりを持ったがために、楽しいかるべき人生をくらいものにしている。ここらでしっかり考えなおしてみるのもいいことだ。