日々雑感

心に浮かんだこと何でも書いていく。

さらばインド旅

2019年04月22日 | Weblog
さらばインド旅


 1999年4月9日。いよいよ旅も終わりも近づいた。
 今日深夜・1時25分にバンコクを出発して、明日の朝8時にソウル、11時半には関西空港につく。

3月12日に大阪を出て、約一カ月間のインドの旅だった。
美しい景色を見て、おいしいものを食べて、涼しいところでいう、という
いわゆる観光旅行ではなくて、まったくこの逆の旅が、インドの旅だった。

暑い、汚い、強烈な売り込みをかけるリキシャマン、タクシー、代理店、ダメモト丸出しで押し寄せるてくる小商人、それにうるさく付きまとう乞食。
言葉が通じないだけでも、イライラが募るのに、こんな連中と付き合うのは、ほとほと疲れる。
 それに比べてバンコクにつくと、ホッとする。インドにいるのとはまるで違う。東京や大阪の感覚で暮らせるからだ。日本に着いたような気分になる。
もうインドにくることはあるまい。

心残りはクシナガラとルンビニを訪ねなかったこと。今の気持ちではもうインドは十分だ。インド旅はもういいというところだ。前回5年前もそうだった。
 この前もバンコク空港ロビーで、これに似たようなインド旅の感想を書いていた。
 
しかし時が移り、時間がたてば、また私も変わる。この嫌な思いが残るインドに、また引きつけられている。インドは僕の心の奥に、スポットライトを当てて、生きることの意味を照らしてくれるので、一方ではいやな思いを残しながらも、また出かけたくなる、じつに不思議な国である。
 
精神的なものを求めず、ただ物見遊山だけなら、インドへ来るべきではない。そう思った。おそらくある種の嫌悪感を抱いて、この国を離れることになるだろう。しかし人によっては、それも時間がたてば、思い出や笑い話になるかもしれない。
 
中国文化圏に進む我々東洋人と、中近東に起源をもつアーリヤ人とは、
ものの考え方、顔つき、体格などに、埋めることのできない相違点が多すぎる。何をどのように補えれば、共通点が見いだせるのか、ただ通りすがりの旅人には難しい問題である。
 日本人とタイ人とは人情や気質が似ているものを感じるが、インド人
(といっても接するごく限られたわずかな人たちだが)には根底に違和感をもつ。それがよいが悪いかは別にしても、僕にとっては、決して好感のもてるものではない。

そうとは想いながらも、時には親切に寝台車の番号のところまで案内してくれた、名も知らない紳士、ハウラーからボンベイまで同行、指定席手配の外人専用窓口まで同行してくれて、何くれと世話を焼いてくれたMr.ソーハ。
(彼は船員で、よく日本にくる)。数えればいくつもあり、その行為、親切は今も決して忘れてはいない。普通のインド人はみなこうなんだと思いたい。

ところが私が日々相手にしたのは、インドでも余りたちの良くない平均以下?の人たちだから、除外すべしと思わないこともないが、第一次的に接触するのは、だます、脅す、平気でうそをつく、しつこいなど、この連中だから、どうも印象が悪い。
 そのどれもが旅の神経を逆なでし、緊張を要するものばかりであり、それらが日常的に行われれば、悪い印象を持つのは当たり前だ。
 
「インド人の心は村にある」とガンジーはいう。僕はまだインドの村について何も知らない。村にはいっていく前の段階で、僕は毎日接触する連中に嫌気がさしている。そこを乗り越え飛び込んでいかないから、本当のインド人なんて知るよしもない。たぶんガンジーの言うように村にはいれば、魂のふれあいに伴う共感、共鳴に加えて感動もあるだろう。しかし僕はまだその世界を知らないから、自分がふれあっただけのわずかなインド人から受けた印象で、ものを言うことになる。だから僕のインド人観なんて全く表面的で的を得ていないと思う。ただ重ねていえることは、僕が接触した範囲のインド人について言うならば、印象は確かに悪い。
話を旅に戻そう。
 
インド旅の移動は列車・鉄道の旅であった。そこでインドの鉄道で思ったことを書いてみよう。
窓に鉄の柵が入っている。まるで列車に乗せられて囚人が、送られていく。そんな感じのするのがインドの列車である。中に入っている僕も、昔の日本のように、窓をあけて風に当たり、ゆっくりと景色を眺めるというようなことはできないで、鉄格子の入った牢獄といった感じを受けながら、長時間乗っている。それもこれしかないのだから仕方が無い。
 景色を楽しむというよりも、人や物を 「運ぶ」 のに重点が置かれている。そう思えるのが、インドの列車なのだ。日本の列車に慣らされた僕はそう思った。

日本では、窓をいかに大きくして、乗客に景色を楽しんでもらうか、そういうサービスが重視されているのに比べると、なんとに大きな差であろう。
なぜインドでは、鉄柵が窓にはめられているのか、おそらく薩摩の守を防ぐ為だと思われる。まさか鉄柵が無かったら、窓から飛び降り自殺する人も多くて、それを防ぐために、鉄格子を入れたとは思えない。列車は利用者に、不信感を突きつけて、乗り心地を悪くしている。

国民も国民だ。文句を言わない。ということは、鉄柵がなかったら、ただ乗りという、もっと不都合なことが起きることを知っているので、これが当然の策だと、心得ているのだろう。だとすれば、国民は自分たちの首を自らの手で絞め、その人品は、こんな程度だと認めていることになる。
列車のみならずバスだって、窓に鉄柵が入っている。これだっておそらく列車と同じ理由から、こうなっているのだろう。
 
窓から顔を出して風にあたりながら、素晴らしい景色に向かって、ヤッホーと叫びたくなるようなことは、インドでは列車でもバスでも、とにかく味わえないことで、このために車窓から、外の景色を楽しむということは半減する。

インドでは、乗り物は、「人や物を運ぶためのもの」で、旅を楽しむためのものであるとは思えない。この面ではずいぶん遅れた国だなぁ。というのが実感である。
 さて体験したいくつかの感動的な場面を思い出しながら旅を締めくくり総括してみよう。

サイババの「プラサード」=(神様の食べ物)の話は、そのストーリーと共に一生涯忘れることはないだろう。旅をしてこういうチャンスに巡り会い、触れることは、まずないだろうから。 

エローラの石窟寺院には文句なしに感動した。この壮大で緻密な設定図は、一体誰が書いたのであろうか。またこの遺跡を作った目的は何だったのか。当時の人たちは誰一人として残っているものはなく、想像の域を出ないが、これこそ世界遺産であり、人類遺産だとつくづく思った。

カルカッタにあるマザーテレサの墓参ができたこと。僕は彼女の生前に、
彼女の汚れたサンダルで僕の頭をふんでもらいたいと願っていた。釈迦やキリストと同じく、貴い聖人(神といってもいいだろう)に触れてみたかったのだ。それは今となっては不可能な夢になってしまった。
夕暮れに、不思議な力に導かれるようにして、彼女の墓前で読経をあげ、言いしれぬ涙をハラハラとこぼしたことは、生涯僕の脳裡から消え去ることはないだろう。いやなことが多かったインド旅での強烈な思い出だ。

前回のインド旅に懲りて、今回はすべてにおいて、ナマスを吹いておいたから、前回のようなドジは踏まなかった。その代わり緊張が過ぎて、また注意し過ぎたおかげで、カルカッタ・ダムダム空港では23時間待った。

国内空港で、それがルールだから、リタイアリングルームを使用させないと片方がいい、相棒がよいゲストハウスを紹介するという猿芝居に、完全に抵抗して、23時間頑張った自分をほめてやりたい。それはそれは退屈で長い時間だった。文章に書くことが、どんなにたくさんあり、また文章を書くことが好きだとしても、限度というものがある。やはり23時間という時間は消化しきれないものであり、もてあました。その退屈は相当きついものであり、精神修養だった。時間による風化で、今も思い出として残っているが、苦みがつきまとう。
いろいろあっだが、思い出は家に帰ってコンピューターで整理しよう。
心の中にあるもの、すべてを吐き出して文章にすると同時に、人に言いしれぬ秘密は秘密として、心の奥底に仕舞い込んでおこう。

さらばインドの旅。そして不思議な大地インド。
あと一回はどうしても来るよ。クシナガラとルンビニを訪問するために。
(タイ・バンコク空港内のターミナルに腰をおろして書く。)

アジャンタ 

2019年04月22日 | Weblog

       アジャンタ   
 
 エローラを見学した翌日、バスを利用してアジャンタに行った。
アジャンタはデカン高原の北西、アウランガバードから北へ100キロほどのところにある、仏教の石窟寺院である。
 
馬蹄形をえがいて流れるワゴーラー川に沿って、600メートルにわたる岩の断崖をくりぬいて、塔院窟5つと25の僧院・ビハーラからなっている。サルナートの根本香積寺の壁画を描いた野生司香雪も、大正時代にここを見学したとか、日本とは、古くから付き合いの有る遺跡だなと感慨深かった。

バスの発着所前から少し階段を上って入り口に到着。入り口には、入場料のオフィスがあって、ビデオカメラの使用料は大した額ではないが、また別に徴収される。

 エローラに比べると、穏やかで静的である。最初から最後まで、すべて仏教に関するものであった。 
 作りは大きく分けて前期、紀元前1世紀から1世紀にかけて、と後期5世紀中頃から7世紀にかけての、2つに分かれる。おとなしい感じがしたが、その中に秘められた力強さは不気味なほどであった。
 
到着したのが11時過ぎで,ものすごく日差しが強く、暑い。ところが窟院の中に入ると極暑を忘れる。これは極楽と地獄じゃないか。
大袈裟だが、僕は本気でそう思った。ここにいて仏道に励んだ修行者達も、きっとそう思ったことだろう。たしかに酷暑を避ける人間の知恵には、
違いないが、これを作る段階では、どれほどの苦労があっただろうか。
その大変さが偲ばれた。
 
前期には仏陀の姿を表すものはなく、卒塔婆や舎利などが、仏陀のシンボルとされていた。
後期になると、仏像が刻まれて鎮座している。特に第1窟のライトに浮かび上がる壁画は、これが日本の法隆寺壁画の原画かと感動した。
この遺跡の壁画は日本に直結している。

第1号窟と第二号窟の壁画をみて、法隆寺の金堂に描かれた壁画そのものが、ここにあるとも思った。こちらのものは法隆寺のそれに比べると、
かなり大きい。しかし実に良く似ている。
それに何番か忘れたが、大きな釈迦の涅槃像がある。僕はこの前に立って、こっそり写真を写してもらった。そしてこれがアジャンタの唯一の記念になった。
この当時の仏教芸術は、ここからはるばる、日本までやってきて、日本で止まった。太平洋は渡らなかった。

ブッダン サラナン ガッチャミー   (仏に帰依したてまつる)
ダンマン サラナン ガッチャミー   (法に帰依したてまつる)
サンガン サラナン ガッチャミー   (僧に帰依したてまつる)

 断崖にほられた洞窟の奥に、祭られた釈迦像の番をし、説明していた中年の女性は、この三宝に帰依し奉るという経文を、ソプラノの美しい声で唱えた。それは洞窟の中で反響し合い、神秘で荘厳さを増した。よく問題にする仏の世界の音楽とはこのことか。
それだけではない。疲れた僕の心に甘露の雨を降らせた。聞きほれるというわけでは無いのに、疲れた体はくぎ付けになった。 
 
外は猛烈に暑い。しかし今の僕には暑さも、小商人がまつわりつく、
あのうるささも何も無かった。
あるのは耳の奥でわーん、わーんと響くこの経文の響きだけだった。
 
僕は三帰三きょうを唱えてみた。
でし、むこうじんみらいさい 帰依仏 帰依法 帰依僧
でしむこう じんみらいさい 帰依ふっきょう 帰依ほうきょう 帰依そうきょう
意味は同じだが、響きの美しさには雲泥の差があった。
女性は続けて三回歌った。いや唱えた。

 お釈迦さんの説かれたお経には、なん曲か、メロデイをつけて合唱曲を作曲した経験のある僕だが、これほど単純な節が、これほどまでに心に染みるとは思ってもみなかった。きっと今後作曲する際に1つのクライテリオンになるだろう、そんな気がして、そこを立ち去るのは勿体無いような気がした。

もし僕が現地の言葉に堪能なら、心からお礼をいったことだろう。しかし僕はお礼の言葉もかけずに、そして僕の感動を伝えることも無く、またドネーションもせずに、そのままそこを立ち去った。沈黙を保ち、感動を逃がさないように、他の事に気を奪われないように、自分を覆い囲んだのだが、あの女性に感動を伝えなかったのは、返す返すも残念なことだった。

 アジャンターの見学は3時間ほとで終わった。
エローラのカイラーサナータ寺院が持つ、男性的で迫力のある作りには、否応無く圧倒されて感動した。それは心臓が波打ち、呼吸が荒くなるような激しいものだった。それに比べてアジャンタの石窟で受けた感動は、低周波の振動のように、大きなうねりであった。波長が長いために深い海の底から伝わってくる、あの大きなうねりで、感動が体全体を包んでしまうようなものであった。動的と静的、と対照的に表現しても、その感動の大きさは優劣の差がでるものではない。

ブッダン  サラナン  ガッチャミー  (仏に帰依したてまつる)

ダンマン  サラナン ガッチャミー   (法に帰依したてまつる)

サンガン  サラナン ガッチャミー   (僧に帰依したてまつる)