日々雑感

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東洋のモナリザ

2019年04月25日 | Weblog

       東洋のモナリザ


  ガイドブックに紹介された東洋のモナリザといわれる、デバターはシエムリアプの市街地から北東の方に向かって、40キロくらいの所にある、バンデアイ・スレイ寺院にあるという。

僕はバイタクの後ろにまたがって悪路をひた走りに走った。
 普通なら時間と時速を掛け合わせて、大体の距離を出すのだが、なにせこの道は、土の上ににぎりこぶしの5倍はあろうかと思われる石を、敷き詰めてというより、土の上に幾重にも転がして、今からブルドウザーで平らな道にしようという工事を始めたばかりの道である。

たいていのことは我慢するが、がたがたと揺れる後ろの座席に2時間もすわってると、もういい加減にしてくれと悲鳴を上げたくなった。それは僕だけではない。ここ2,3日バンデアイ・スレイの遺跡を訪れる人はみな同じ思いをするはずだ。バイクだけにとどまらず車とて、条件は同じである。時速10キロで走れないから、途中でオーバーヒートして、立ち往生している車を何台も追い越した。

ブルドーザーで整地されて、まともな道路として使えるのは1ヶ月先のことだろう。
 此の悪路に耐えかねて、バンデアイ・スレイってそんなに値打ちのあるところかと、何回も疑問に思った。これ以上此の石道を走れというなら、見ないで引き返してもよいとさえ思った。
 
そのころになってようやく、つまり走るのも限界に来て、やっとバンデアイ・スレイ遺跡は姿を現した。
ちょっと見は赤色砂岩で作られた、こじんまりしたチンケイな寺院である。それは今まで見た、どの遺跡よりも貧弱に見えた。確かに規模は小さいが、保存はましな方である。
 東塔門を一歩入ると屋根近く、ひさしの辺りに彫られた浮き彫り彫刻が目に飛び込んでくるが、確かに見事なものばかりである。

完全にヒンズー教寺院である。こういうタイプの寺院はインドではよく見かけた。紅砂岩で作られているので、建物も彫刻も皆赤灰色である。楼門をくぐると、主祠堂の両側に経蔵があり、中央にはシバ神殿、左側にはブラウマン神殿、右側にはビシュヌ神殿があり、どの建物にも浮き彫り彫刻があった。

その一つひとつに意味があるのだろうが、僕の頭の中は 東洋のモナリザ でいっぱいだったから何を考える余裕もなかった。

ただ全体的に見ると、これがシバ寺院であることはすぐ判った。というのはバンコクのメインストリート・シーロム通りにも同じ形式の寺院がある。僕はその寺院の前を毎日のように通っているからだ。バンコクにあるワット・00は大抵は仏教寺院でこのような赤れんが色ではなくて、白壁と金ピカ仏である。そのバンコックに在ってこのシーロム通りのシバ寺院は孤立して何か異様な雰囲気を辺りに醸し出している。

バンコクのヤワラ通りの中華街を通りすぎると、次はインド人街があるからヒンズー教寺院が在ってもおかしくはない。
正面向かって右側の神殿、即ちビシュヌ神殿の正面から見て左側に 東洋のモナリザは在った。

フランスの有名な作家・アンドレ・マルローがそのあまりの美しい魅力にとりつかれて、これを国外(多分フランスだろう)に持ち出そうとして逮捕され、それが「王道」という小説に書かれたと言う。そのことが頭に在って、そんなデバターって一体どんなものだろうという思いが強いために、胃腸がでんぐり変える思いをこらえて、ここまでやって来たのだ。そのモナリザと今出会ったのである。

 彼女は背丈が1メーターに満たないデバターで、顔はふっくらと丸みをおび、謎の微笑を秘めている。胸は豊満で全体的にふわっとした感じで、つられて心がふわっとなった。緊張がほぐれる一瞬だ。1人の彫刻家の魂にふれて、僕の心は緊張感から解放された。

僕はいろいろ角度を変えて、出来るだけ多くの方向から眺めるように努めた。彼女は正面を向いているのではなく、首を少しだけ右に振って、物静かに何かを考え事でもしているかのようであった。聡明そうな上品な顔立ちと、高貴な姿態が僕を魅了した。このとき僕はこの世から離れた別の世界の住人だった。忘我、そう、忘我の世界にいたのだ。
よかった。あの悪路を乗り越えて、ここまでやって来た甲斐があるというものだ。僕はつくづくそう思った。

この芸術作品にはきっと1人の彫刻家の思いが込められているのだろう。どう考えても、共同作業とは思えない。もし何人かの彫刻家が集まって、共同作業の結果、此の神像を作ったとすれば、どこかに作家の顔の端くれが見えるはずである。
 
我々の知るモナリザは絵画であるのに対し、東洋のモナリザは浮き彫りの彫刻である。立体感がある分素人に対しては迫力が在る。彼女は1000年の間微笑み続けた。これからもこの遺跡がこの地上から消えてなくならない限り、ここにこうして鎮座して、訪問する人に微笑みかけることだろう。

こんなすばらしい作品が、ポルポト一派の破壊の手を免れて、ようこそ昔のままの姿で、ここにこうして在ったものだと安堵の息がもれた。
審美に関しては東洋、西洋の別なく、人間であれば美しいものはあくまで美しいのであって理屈はいらない。

ところで此のモデルは一体誰だったんだろう。きっとなにがしかのモデルがあったはずである。これだけの顔つきからすると、そこらそんじょの女性ではあるまい。王妃か、王女か、位の高い女官か、いや作者の永遠の恋人か、作者が祈る女神像だったのか、僕には全くの架空の人物とはおもえない。

西洋人のマルローも東洋人の僕も共にこの像が放つ魅惑の虜になっている。この虜の思いが強すぎて、マルローは国外持ち出しを決意した。それに対して僕は此の神像だけを切り離すよりは、此の壁全体を構成する1つの部分として保存した方がより高い価値を生み出すように思える。

余計な事ながら、顔に注目した人は顔だけを切り離して、持っていこうとするのだろうか。顔の部分だけが無くなっているデバター像はたくさんある。もし今完全な形で保存されていたら、ひょっとしたら僕の目の前に在る此の像よりも、もっと優れた芸術作品が在ったかも知れない。

もしそうだとすれば、盗難や破壊から此の遺産を守るために、遺跡保存係の警官を配置する必要がある。此の像や装飾品の価値が判らず削ったり、切り取ったりして持ち帰ろうとする連中や、価値が判りすぎて、我がものにしたいというつよい欲望を持つ両極端の人間の思いから、此の人類共通の芸術作品遺産を守らなくてはならないと思った。 

 恥も外聞も気にしないで、僕はこの東洋のモナリザの横に顔をよせて記念撮影した。僕と同じような思いの人だろうか、僕と同じような事をする外人がいた。写真のシャッターを押してあげると、メルシボクーという謝辞が返ってきた。

そう言えば、ここはフランスが植民地にしていたところだ。この寺院を丸ごと本国に持って帰ったところで、大した金はかからなかった筈である。でもフランスは大して保存もしなかった代わりに、持ち出しもしなかった。文化遺産というものは、そこの場所にあって初めて真の値打ちをだすものだと考えたのであろうか。その辺がイギリスのやり方と違う。ロゼッタストーンだってイギリスはエジプトからちゃんと持ち返っている。

それは外国の宝物をうばって持ち帰るという考えのほかに、世界人類の遺産として王者イギリスが完璧な保存をして、人類遺産を守るという決意としての行動だったのだろうか。

確かにアンコールワットという壮大な建造物には、発見以後手を加えているが、このような小さなデバターに目をくれたという話は聞かない。マルローがいうまで、気が付かなかったのか、それとも価値を見いだせなかったのか、はたまたこの程度のものは無視したのか。
 
誰か物の値打ちの判る有名人がそれについて何かをかいてくれれば、それが人目を引くことになり、より多くの人が関心を持つようになる。現に僕だってマルロー逮捕という話は決して見逃すわけには行かない。逮捕という犯罪を犯してまで、この著名な作家が手に入れたかった神像彫刻作品とはどんなものかと関心が集まるのは当然である。見方を変えれば偉大なる宣伝だ。

もし彼のこの事件がなかって、ここに黙ってそのまま鎮座していたら、このように有名にはならなかった筈だ。なぜならアンコールワットを初め、カンボジャの遺跡群には数え切れないほどのデバターが在るからである。一つひとつ丁寧に踏査する専門家がいてもいいくらいだ。

しかし今のカンボジャは往年の王国とは比べものにならないほど落ちぶれて国力はなく、往時との国力の差があり過ぎる。現在のカンボジャの国力では、現状保存さえままならない。精々破壊や汚損を防いだり、自然崩壊を防ぐ手当が出来るくらいのことである。この地方に在る膨大な石像遺跡群を守ることは負担が大きすぎるだろう。世界遺産だというなら、世界がまもる手立てを講じる必要があると思った。

カンボジャはさしたる工業がなく、特産もなく、今まで通り当面は農業を続けるしかあるまい。それはそうとして、偉大な先祖がのこしてくれた、これらの遺跡を観光資源として活用して観光立国を目指したらどうか。僕はこんな余計なことまで考えた。

ところで、もし僕に東洋のモナリザを選べと、お声がかかったら僕は自分の美的感覚で、今目の前にある物とは違ったデバターを選んだだろう。僕には心に決めた楚々とした僕好みの美人デバターがある。

それはちゃんとカメラに収めて自宅で焼き増しが出来るようにしてある。今後はアンコール遺跡群を自分なりの東洋のモナリザ探しに歩いてみるのも面白いと思った。



清水観音とバイヨン8-58

2019年04月25日 | Weblog
         清水観音とバイヨン


 2000年10月15日。三十三年に一度の、清水寺観音のご開帳に合わせて、京都・清水寺の、国宝のヒノキ舞台で、自作の4曲を奉納演奏した。
そういえば、今回だけでなく、以前にも観音様には自作の曲を、よくお供えして、聴いてもらっている。

壷阪観音、中宮寺の国宝、半加思惟像の観音様、泉光寺の慈母観音、
東大寺二月堂の十一面観音、京都三十三間堂の千一体の観音様などに曲を聞いて頂いた。そしてその折々に、観音様のご利益をちょうだいした。ところが今回は又観音様から、特別のご利益をいただいた。それは大きな大きなご褒美だった。
 
 演奏舞台が第一級の人しか使えない、国宝の舞台であると言うこと、
関係ない人にとっては、何の意味もないが、作曲家としてあの場所で演奏できたことは、作曲家としての自信をつけるには十分であった。
 
何故ならば、いくら巷の高名な作曲家といえども、そう簡単に使える舞台ではないからである。僕の知る限りでは、日本の音楽界の大家、山田耕作も服部良一も、吉田正も、中田喜直も、武満徹も生涯、あの舞台を使って自作曲を演奏することはなかったのではないか。 第一級の国宝の大舞台では、第一級の作品が要求される。果たして、自分の曲がそれにふさわしいかどうか、考えないわけではなかったが、もしふさわしくないとすれば、
観音様が当然、ここでの演奏を許されなかったことだろう。

つまり清水のヒノキ舞台て、演奏が許されたということは、この舞台にふさわしい、作品であったということを物語る。ぼくはそう思った。
それにしても、大きなことを、やらせてもらった。あの有名な、山田耕作先生においてさえ、できなかったことを、僕がしたのだ。人の世で認められないとしても、神や仏に、受け入れられたとするならば、それこそ最高の音楽家だと、ぼくは自分の事を思う。

15日のあの演奏が終わって、大役を果たし、肩の荷を降ろした気分になったぼくは、3日後の18日、骨休めのつもりで、カンボジアの、アンコール・ワットを訪れた。
訪れるまでは、アンコールワットしか、眼中になかった。というよりアンコールワット以外の事は知らなかった。ところが、訪れてみて、僕は特にバイヨンには、心ひかれた 。
 

バイヨン。

それはアンコールトムの中にある、大きな石造寺院である。
アンコールワットの西正門から車で走って、5,6分のところにある、古ぼけた石造寺院である。今は崩れかけて、くすんだ石積み寺院だが、創建当時には金泥で表面は装飾され、どれほど立派な物だったことか。
 
多分僕の想像を超えて、思わず地に伏して、ぬかずきたくなるような黄金寺院であったに違いない。12世紀後半、ジャヤバルマン7世が作ったもので、アンコール朝の勢力が最高潮に達した時の創建らしい。
 
周達観のチエンラ風土記にも、アンコール朝の豊かさが書かれている。
バイヨンの建築様式は、建っている石塔に、巨大な仏の顔が、東西南北4面に彫りつけているのが特徴だ。4面仏即ち観音菩薩の顔が彫られていて、静かに微笑む巨大な、仏の尊顔が、東西南北・四方八方を見つめているし、その慈愛の眼差しは、人々に暖かく注がれている。

構造は2重の回廊と、16の小堂からなり、中央祠堂の塔の高さは45m、第一、第二の二つの回廊を持っている。
第一回廊はたてよこ 160m x140m の大きさで、そこには人々の生活ぶりが生き生きと彫ってあり、又 第二回廊は70m x 80mの大きさで、壁には 宮廷内部の様子や、ヒンズ教ー神話などが彫られている。

初めてこのバイヨン寺院に来て、この回廊の中を歩き回った時に、あたりを見回すと、四面仏のあの優しいほほえみを含んだ顔があちらから、こちらから、慈眼の光を放っているのだった。そしてその顔の数があまりに多かったので、あたかも、僕は舞台中央で、スポットライトを浴びているような感じがした。それは観音様が放つ優しさに、全身が包まれているような感じであった。そう思うと胸の辺りが、もわーっと暖かくなってくる。

臓は早鐘のように打つ。いったいこれは何なのだ?

僕は不思議な体験をした。しかもいつもバイヨンを通るたびに、僕は不思議なパワーを感じていたのだ。しかしそれが何であるのか、気にも留めないで遺跡見学に、毎日この前を通った。
 
 アンコール遺跡群を見て回るには、このバイヨンのすぐ近くを通ることになる。
死者の門を通って、タ・プロムやバンデアイ・クデイへ行くときも、勝利の門をとおって、トマノンやタケオの遺跡を見学するときも、必ずバイヨンの前を通ることになる。
 
不思議なことであるが、アンコールワットの西正門前を通る時には、別段何も感じなのに、バイヨンを通る時には、何か不思議な物を感じた。上手く言い表せないが、背中に人の眼が注がれているような気がしてならないのである。異様な光?いやエネルギー?何かを揺り動かすような、心臓がドキドキするような得体の知れないパワー?そう言ったたぐいの物を感じた。不思議やな、不思議やな、そんな思いがずっと残った。

 四面仏

ところが、こういう形で清水観音と、結びつくとは夢にも思わなかった。
今僕はバイヨン寺院の第二回廊に立っている。辺りを見回すと観音様のあの優しい眼から放たれる温かい光が、まるで太陽の光のように自分に降り注がれている。

その光を意識すると体全体が、もわーっと暖かくなる。石に彫られた観音様の慈眼放光が、このようなパワーを持つ物だとは、今の今まで知らなかった。このとき初めて、実感したのである。
 
守られている。確かに守られている。そう思うだけで、胸が熱くなった。
ここでこのような四面仏、つまり観音様に巡りあうなんて、全く考えてもいなかったのに。

少なくとも、日本を出るときはそうだった。ただ頭の中には10月15日に
京都の名刹清水寺の観音様に、自作の曲を4曲も奉納演奏させていただいた時の興奮は、未だ残っていた。それとこのバイヨンの観音様との結びつきなんて、及びもしないことである。第一ガイドブックさえ、まともに読んでいなかったのだ。
 

行けば分かる、これが僕には海外に出かける際の決まり文句になっていて、帰国してから後で、旅の復習をするのが、ここ数年の習わしになっている。
そう言う意味で、ここは初めから見落としていた。無視したわけではないのだが、意識の上には載っていなかった。

カンボジャと言えば、アンコールワット以外には、何も知らなかった。今回初めて、バイヨンだの、バンデアイ・スレイだの、大小さまざまの遺跡が80ばかりあるというのを、ここに来て、ガイドの説明を聞いて、初めて知ったことなのだ。

 先ほどから僕の体は、辺りに偏在する観音様の顔から発せられる
慈眼放光を感じ取っている。そして頭では、この不思議な縁に、想いを巡らせている。
夕方と言うこともあって、人影がないばかりか、鳥の鳴き声さへもない。辺りはかげり始めた太陽の静けさに、あわせたように深閑としている。

大勢の前で読経すると、気が散って気持が集中できないが、1人になると集中して、お経をあげることも出来る。今は回りに誰もいないばかりか、物音Ⅰつしない。
この瞬間を捕らえて感謝の誠を捧げるべし。よし、お礼参りの読経だ。
考えてみればこれは当然の成り行きであった。

 誰がどのように、僕の音楽才能を見つけだし、高く評価してくれようとも、国宝である清水寺のあの舞台で、奉納演奏が出来るなんて、夢の様な話である。だが僕は間違いなく奉納演奏をした。

そして肩の荷を降ろしたところで、18日に出発して二日後ここに、即ちバイヨン寺院の第二回廊にやって来て、今こうやって立っているのである。今の自分は自分ではあるが、なんか自分ではないような気もする。そんな精神状況である。

観音様、観音様は清水寺の観音様とは同じお方ですか。補陀洛山におわす観音様は、日本にもカンボジャにも、いや世界中、いや宇宙に偏在しておられ、特定の場所や、寺院や、彫像にのみ存在すると考えるのは間違いでしょうか。
 
わざと関係付けたり、強引に結びつけたり、しようとは思わないのですが、
15日の興奮が冷めやらない僕には、20日はあまりにも近すぎます。
だから結びついたというようには、考えたくはないのですが、このバイヨンの前を通るたびに、何か異様な胸騒ぎがしてなりませんでした。

観音様、ひょっとして、ここまでお招き下さったのですか。もしそうだとしたら僕は、そのご好意に全く気が付いていなかったので、お詫びを申さねばなりません。これほどのご利益を頂きながら、その事実を知らない、気が付かない、従ってお礼の言葉も、感謝の気持ちも伝えることをしないなんて、最低です。

気が付いていて、これを忘れてり、無視したりだと言うのであれば、問答無用、処置なしのたわけです。僕はそんなこと考えたこともありません。自分にとってプラスの感情を使い、又現実にプラスのことが起こっている以上、僕は感謝の誠を捧げなくてはならないのです。

これが出来ないと、自分で自分のことを、まともな人間としては扱えません。というのは僕は常識のない、そしてルールをわきまえていないか、守らない、いわゆる欠陥人間になるからです。
 そんな人間が、これほどまでに、大きい慈愛あふれるご利益をいただける筈がないと思うのです。
話はちょっと脱線気味ですが、今回の件で観音様は宇宙に偏在しておられる事がよく分かりました。

そしてこの事は、前回印度へ行って、聖者・サイババに出会った時に、アシュラムで、
サイババは「このアシュラムにいるだけではなく、この宇宙に偏在しているのだ」と聞かされたが、それと符合します。

それをもって、確認したと言うわけではないのですが、自分なりに観音様の宇宙偏在を確信するようになりました。私はこれからどこででも、いつでも観音様の御名を唱えることでしょう。そしてこの事は観音経にはちゃんと書かれています。その中身を、体験的に知ったと言うことです。

観音様、ホントにありがたいことです。ここまで来て身にしみました。ありがとうございます。

 夕方に近いということもあり、またバイヨンはアンコールワットほど知名度もないからか、おとずれる人の数は比べようもなく少ない。外国からやってくる観光客は、ここが大乗仏教の一つの中心、となっていることなど、恐らく知るまい。我々の常識は、まずカンボジャは、小乗仏教だと思うところから始まる。アンコールワットがそうであったように。
 この寺もヒンドウ教の神を祀った寺、もしくは小乗仏教で、お釈迦様を祀った寺だと思うだろうが、菩薩がある以上、僕は大乗仏教だと思った。

とりわけ、ここの祭神や佛を調査したわけではないのだが、またそれを調べようというつもりで、ここまでやってきたわけではないのだが、ここが観音寺と、自分で命名してからというものは、何を見ても観音菩薩に結びつけてしまうので、カンボジャが小乗仏教の国だと言うことを、忘れかけている。

小乗仏教と大乗仏教とでは、同じく仏教と名前は付くが、中身はかなり違うようだ。
それは羅漢さんと、菩薩さんに象徴される。まず己の人格の完成を目指すのか、それとも己をむなしうして、他に尽くすのか、わかりやすく言えば、
こういうことになろうが、これによって心構えも、修行の方法も違ってくる。

いずれにせよ、ここカンボジャと日本とでは、小乗・大乗の違いが在る。
けれども僕の常識を破って、バイヨンは大乗仏教の寺である。僕は勿論のこと、日本でも
バイヨンが観音寺であることを知る人は少ないはずだ。

ヒンズー教、小乗仏教、大乗仏教、それらが混在しているのは分かるが、
僕はあえて堂守りに、この寺にはシバが祀られているかと尋ねた。

彼女は第二回廊の北側に案内して、回廊がへこんでいるところを指さした。
そこは畳10畳ほどの大きさで、下を覗くと壁面に像が彫られている。
そしてそれがシバ神だという。
 
これは見るところを間違えた。今僕はシバ神を見下ろす所にいる。
シバを拝むなら第一回廊に降りて、下から拝むべきだった。

こうしてシバ神像は、それが嘘物か、本物か確かめは出来なかったが、
シバと観音菩薩、釈迦の像を確認した。
 
歴史的経緯からすると、どうしても混在させない訳にはいかなかったんだろう。それでもここを見れば、誰でもここが観音寺だと思うに違いない。

釈迦像もシバ神も探さなければ、目に付かない存在であるのに対し、観音像は沢山あって誰でも目に付くからである。

 大体カンボジャと言う国は、まだ日本にとって遙か彼方の、見知らぬ国だ。知っているのはアンコールワットくらいのもの。それに悪名高いポルポト。精々その程度。

アンコールトムも、バイヨンも来てみて初めて、知るような知名度の低さだ。バイヨン・四面佛の寺だと分かっても、それが当時大乗佛教が存在した寺だとは、ほとんどの人は知らない。日本人が来ないのも、無理はない。が、その内にきっと知れ渡ることだろう。

そうなったら、またわんさと押し寄せるに違いない。ひょっとしたら、ここの人はもう、その足音をきいているのかも知れない。
なぜなら、今この町は西洋風の豪華ホテルの建設ラッシュだからだ。