日々雑感

心に浮かんだこと何でも書いていく。

生け捕りは時間の無駄

2008年06月08日 | Weblog
生け捕りは時間の無駄

白昼 人通りで賑わう東京・秋葉原で、無差別殺人事件が起こった。テレビでは速報として7人目の死亡が伝えられている。

テレビを見ていて、いらいらした。どの画面を見ても、いらいらが募るだけで、スカッとするような事は何もない。警官には、場合によっては犯人を射殺しても良い権限を託しているわけだから、思い切って射殺してくれれば、これほどまでにいらいらが昂じることは無いだろうに。
識者は言う。徹底的に動機や原因を追及して調査する必要があると。
僕は言いたい。動機や原因を調査分析して何が出てくるのか。再発防止にどれだけ役立つというのだ。時間と手間を掛けて、なんの効果があるというのだ。忘れた頃に判決が出て。その頃はこちらは気が抜けている。鉄は熱いうちに打てと言うじゃないか。

昨日は飼育員がトラにかまれて命を落とした。このトラの思いが何であったのか知るよしもないが、これ以上に凶悪である。トラは1人を殺した。今日の通り魔は7人の命を奪った。野獣よりも凶悪だ。即座に射殺されてしかるべきものだ。

このような通り魔無差別殺人は、記憶しているだけでも3つも、4つもある。
殺人を目的にして行う、こういう通り魔事件の犯人に、何の容赦が必要か。人権という次元を飛び越えている。容赦なく撃ち殺せ。あるいは殴り殺せ。私刑と言われようと、犯人を殺すことは、社会正義にかなっている。社会的報復として犯人をこの地上から即座に抹殺することこそ、社会正義の実現である。

江戸時代の岡っ引きよろしく、「ご用だ」は、いい加減にやめてもらいたい。恣意的に殺人をするものに、何の容赦が居るものか。即座に殺してしまえ。見せしめのためにもこういうアラ治療をしないと、正当な裁判の手続きを踏んでなんて、生やさしいことを言っている日には、こういう事件はまた起こるだろう。勿論即座に撃ち殺しても、この種の事件は起こることだろう。しかし国民のいらいらが少なくてすむ分だけでも、いい。
この種の事件に対しては、手をこまねいていてはいけない。現状だと善良な市民は守られていない。生命の安全は確実に脅かされている。どのようにして身の安全を図るのか。命を守るのか。現状では犠牲者が出るばかりで、犠牲者の霊も浮かばれない。何とかしてくれ。公安委員諸君。法務大臣よ。

2008年06月07日 | Weblog

 
母。 自らの生命をかけて私を産み育てた女性。
母性本能とはいへ、ずいぶんつらい想いがあったにちがいない。あらゆる困難を乗り越えて生命を守ってくれ、時には己の生命を的にかけて。  そんな母の想いがわかる年項になった。
母がどんな想いで生きてきたのか、どんな想いをしているのか、それとは別に私には私なりの母への想いがある。
一般化して言うならば、人類の究極の憧れとして母性があり、母性こそがあらゆるものを生み、育くみ、そだてる唯一のもの。それ故に、感謝の対象に収れんしていくのである。それははるかかなたの宇宙からやってくるノス夕ルジァであり、すべてを包みこむ大海であり、ホワ一ッ と包みこむ暖かさである。そして、そこには羊水に包まれたあの安心がある。  

リニアモーターカーの足音8-14

2008年06月06日 | Weblog
リニアモーターカーの足音


昭和39年10月の新幹線は、東京大阪間を旧東海道線の特急の半分以下の時間で走った。初めて乗ったときは、東海道線に乗り慣れた僕には驚異的な速さだった。

今日は最新鋭の、のぞみに乗った。新大阪を出発すると、13分で京都につく。
大阪の地下鉄で言うならば、梅田から難波、約4キロに要する時間だ。
新大阪、東京間500kmをたった2時間半ちょっとで走る。
車窓から見える風景は、遠くを見ると、ゆっくり。近くを見ると、目まぐるしく、とてもみれたものではない。

対抗列車とすれ違うときは、おそらく500キロのスピードだ。
バンコクへ行く途中、北へ向かって飛ぶ飛行機を見た。こちらは1000キロの速さで飛んでいるから、おそらく相手の飛行機も時速1000キロで飛んでいたであろう。
小指ほどの大きさの飛行機があっという間に視界から消えた。だが、幸運にも僕はそれをビデオで撮影して今持っている。

時代は確実に進む。今僕が驚いている新幹線よりも速い、リニア新幹線の出現によって大きく、交通事情は変わるだろう。その時代はもうすぐ、そこまでやってきている。子供の時代には、リニア新幹線に乗って東京、大阪を往復する日が確実にやってくる。



滋賀県の新しい知事が誕生したのを機会に、栗東新駅の計画がとん挫している。その後の駅周辺はどのように整理されたのかを、みようと目を凝らしたが、遂に見ることはできないままに米原を通過した。

新駅周辺がどのようになってきたかは見逃したが、現状がすべての結果である。ここまで来るのにどれほど多くの人間の欲が渦巻いたことか。
笑った人、怒った人、悩んで苦しんだ人、などすべて人間の欲模様だ。目に見えるのは草原にすぎないが、そこは人間の悲喜こもごも、欲望の坩堝である。

最近、滋賀県知事は記者会見を開いて、離婚を発表した。僕はなんとなく残念な気がしたが、学者の夫は政治に手を出さないという信念があり、政治家になった妻とは、折り合いが付かなかったらしい。

公の立場の人であれば、私人でありながら、公人である。その両者を使い分けるなんて、夜寝ているときぐらいしかない。
この離婚によって知事の決意の程を、見ることができる。おそらくつらい思いをしたことだろう。

しかし考えてみれば、私人でありながら、公人と言うのは政治家ばかりではない。
いずれの道にせよ、その道を突き進む時には、公人になる覚悟が必要だ。

例えば、芸術家が芸術の追求する場合に、真、善、美を追求するところに家庭のなごみは少ない。芸術家は家庭の安寧よりは芸術の追求や、作品の制作に己を捧げるからである
あるいは事業家が事業を立ち上げて、それを軌道に乗せるまでおそらく、家庭を顧りみている暇はないだろう。
これには、よほどの夫婦の意思疎通や、共通理解や、連携が必要である。


小早川秀秋が天下分け目の関ヶ原の戦いの勝敗に大きな役割を果たした。東軍西軍どちらにも、組するようで、組しないで、様子見を決めこみ、勝ち軍を家康側つまり東軍に見て、松尾山に無傷で蓄えた兵力が、一気に山を駆け下り、伯仲していた両軍の形勢を決めたと史実は語っている。もし逆に西軍に加勢していたら、おそらく徳川の天下はあるまい。天下分け目の大決戦に大きく影響を与えた軍勢がこの山に陣取っていたなんて。この地は歴史の分水嶺だ。その布陣が線路わきの松尾山だと言うのに、時速250キロ以上のスピードは文字通り、飛ぶがごときで、あっという間に通過した。新幹線の車窓からは、歴史遺跡の取材なんてできたものではない。

今は山中 今は浜 今は鉄橋渡るぞと 思うまもなくトンネルを
変わる景色の面白さ。

こういうのんびりした旅をしようとすれば、ローカル線に乗るに限る
旧東海道線を走るとき、大阪発23時過ぎの東京品川行きに乗ると、豊橋あたりで、夜が明けて来る。普通列車だから、地元の人が方言を背負って乗ってくる。その訛りを聞いていると、このあたりを境にして、関西圈と関東圏か入れ替わる。
今思うに、懐かしい。悪名高い犯罪多発列車だったが、もう一度同じ状態の列車に乗りこみ、あの何とも言えない旅情を楽しみたいものである。しかし残念なことに、今はもう大阪発の東京行き深夜列車はない。

大阪という大都会の真ん中に住んでいながら、新幹線に乗るのに、係員に道案内を乞うブザマである。まごまごして、目当ての列車にのりおくれるということは無かったが。
ホームに着いた列車の座席に座るまで、なんとなく不安である。大阪という都会に住む、ぼくという都会人は、おのぼりさんになった。


考えてみると、ビジネスには都合がよいかもしれないが、僕のように、鉄道の旅を楽しむ人間にとっては、味気のない鉄道の旅になってしまった。旅が無機質になった。愛想がない。人はただ黙々と時速250kmのベルトコンベヤーで運ばれて行き来する。
その上リニアー新幹線の出現によって、スピードは格段にアップされ、旅情の世界は遙か彼方へ遠のいていく。













リニアモーターカーの足音


昭和39年10月の新幹線は、東京大阪間を旧東海道線の特急の半分以下の時間で走った。初めて乗ったときは、東海道線に乗り慣れた僕には驚異的な速さだった。

今日は最新鋭の、のぞみに乗った。新大阪を出発すると、13分で京都につく。
大阪の地下鉄で言うならば、梅田から難波、約4キロに要する時間だ。
新大阪、東京間500kmをたった2時間半ちょっとで走る。
車窓から見える風景は、遠くを見ると、ゆっくり。近くを見ると、目まぐるしく、とてもみれたものではない。

対抗列車とすれ違うときは、おそらく500キロのスピードだ。
バンコクへ行く途中、北へ向かって飛ぶ飛行機を見た。こちらは1000キロの速さで飛んでいるから、おそらく相手の飛行機も時速1000キロで飛んでいたであろう。
小指ほどの大きさの飛行機があっという間に視界から消えた。だが、幸運にも僕はそれをビデオで撮影して今持っている。

時代は確実に進む。今僕が驚いている新幹線よりも速い、リニア新幹線の出現によって大きく、交通事情は変わるだろう。その時代はもうすぐ、そこまでやってきている。子供の時代には、リニア新幹線に乗って東京、大阪を往復する日が確実にやってくる。



滋賀県の新しい知事が誕生したのを機会に、栗東新駅の計画がとん挫している。その後の駅周辺はどのように整理されたのかを、みようと目を凝らしたが、遂に見ることはできないままに米原を通過した。

新駅周辺がどのようになってきたかは見逃したが、現状がすべての結果である。ここまで来るのにどれほど多くの人間の欲が渦巻いたことか。
笑った人、怒った人、悩んで苦しんだ人、などすべて人間の欲模様だ。目に見えるのは草原にすぎないが、そこは人間の悲喜こもごも、欲望の坩堝である。

最近、滋賀県知事は記者会見を開いて、離婚を発表した。僕はなんとなく残念な気がしたが、学者の夫は政治に手を出さないという信念があり、政治家になった妻とは、折り合いが付かなかったらしい。

公の立場の人であれば、私人でありながら、公人である。その両者を使い分けるなんて、夜寝ているときぐらいしかない。
この離婚によって知事の決意の程を、見ることができる。おそらくつらい思いをしたことだろう。

しかし考えてみれば、私人でありながら、公人と言うのは政治家ばかりではない。
いずれの道にせよ、その道を突き進む時には、公人になる覚悟が必要だ。

例えば、芸術家が芸術の追求する場合に、真、善、美を追求するところに家庭のなごみは少ない。芸術家は家庭の安寧よりは芸術の追求や、作品の制作に己を捧げるからである
あるいは事業家が事業を立ち上げて、それを軌道に乗せるまでおそらく、家庭を顧りみている暇はないだろう。
これには、よほどの夫婦の意思疎通や、共通理解や、連携が必要である。


小早川秀秋が天下分け目の関ヶ原の戦いの勝敗に大きな役割を果たした。東軍西軍どちらにも、組するようで、組しないで、様子見を決めこみ、勝ち軍を家康側つまり東軍に見て、松尾山に無傷で蓄えた兵力が、一気に山を駆け下り、伯仲していた両軍の形勢を決めたと史実は語っている。もし逆に西軍に加勢していたら、おそらく徳川の天下はあるまい。天下分け目の大決戦に大きく影響を与えた軍勢がこの山に陣取っていたなんて。この地は歴史の分水嶺だ。その布陣が線路わきの松尾山だと言うのに、時速250キロ以上のスピードは文字通り、飛ぶがごときで、あっという間に通過した。新幹線の車窓からは、歴史遺跡の取材なんてできたものではない。

今は山中 今は浜 今は鉄橋渡るぞと 思うまもなくトンネルを
変わる景色の面白さ。

こういうのんびりした旅をしようとすれば、ローカル線に乗るに限る
旧東海道線を走るとき、大阪発23時過ぎの東京品川行きに乗ると、豊橋あたりで、夜が明けて来る。普通列車だから、地元の人が方言を背負って乗ってくる。その訛りを聞いていると、このあたりを境にして、関西圈と関東圏か入れ替わる。
今思うに、懐かしい。悪名高い犯罪多発列車だったが、もう一度同じ状態の列車に乗りこみ、あの何とも言えない旅情を楽しみたいものである。しかし残念なことに、今はもう大阪発の東京行き深夜列車はない。

大阪という大都会の真ん中に住んでいながら、新幹線に乗るのに、係員に道案内を乞うブザマである。まごまごして、目当ての列車にのりおくれるということは無かったが。
ホームに着いた列車の座席に座るまで、なんとなく不安である。大阪という都会に住む、ぼくという都会人は、おのぼりさんになった。


考えてみると、ビジネスには都合がよいかもしれないが、僕のように、鉄道の旅を楽しむ人間にとっては、味気のない鉄道の旅になってしまった。旅が無機質になった。愛想がない。人はただ黙々と時速250kmのベルトコンベヤーで運ばれて行き来する。
その上リニアー新幹線の出現によって、スピードは格段にアップされ、旅情の世界は遙か彼方へ遠のいていく。




































男女陰陽

2008年06月06日 | Weblog
男女陰陽
 
男は男になくて、しかもそれに憧れている何かを、女にもとめている。もし女が男と同じもの、もしくはごく似たものしか持ち合せていないとするなら、男は女を求めないであろう。女だって同じことである。
法的な面で男女平等は大いに結構な話だが、生活していくうえでは役割分担(得意な分野〉がある程度分かれてくるのは仕方がないことだ。、
 男が女に求める究極のものは母性であろう。その母性を女が失ったら、あるいは持ち合せていないとすれば、その女は男にとっては必要ではないのであろう。それは女が男に求める父性だって同じことがいえる。
男と女は陰陽の関係であってどちらか一方だけでは、人間として存立し得ないのである。

異邦人

2008年06月03日 | Weblog
異邦人

20年前は四十六才、今は六十六才を通り過ぎた。
気がついたことがある。
目の前に広がる風景が全く変ってしまった。特に人間関係が変った。 今は行き交う人は皆異邦人に見える。また自分が(何物かによって)大衆から 疎外され、切り離された存在であるような気がしてならない。
こういう感覚は今迄にはなかったものである。というよりは序々に進行して 今みたいなものになった。.これは老化現象か、退化現象か、それとも現在の自分がそう見ようとしているのか。、いずれにせよ、過去の像とはちがい違和感が目立ち、異邦人という感覚から解放されずに困っている


平行線

  基本的に女と男の関係は平行線である。不思議にもその平行線が交わる時がある 。だから矛盾が露呈する。男と女の間に在るドロドロした汚いものが噴出する。
平行線が交わる時、 それは女にとっても、男にとっても恋の高まりの
 時である。
夫婦関係 一男一一一一一
女一一一一一

恋愛関係 男一一\/一一一
女一一/\一一一

小指をたてた

2008年06月02日 | Weblog
小指をたてた

朝七時にシエムリアプを出たエクスプレスボートは、僕の計算より30分も早くプノンペンに着いた
。行くときにバイタクの運ちゃんはこの船なら、3時間程でシエイムリアプに着くと教えてくれたが、
プノンペンからシエムリアプ迄は六時間かかり、今日はシエムリアプからプノンペン迄は五時間半だった。流れを上るのか、それとも下るのかそれによって多少はぶれるのだろう。

 幅30センチぐらいの板を2枚渡しただけの桟橋をやっとの思いで渡り終えると、バイタクの運ちゃんがウンカのように押し寄せてきた。その中の1人 が半端な日本語で乗れと半ば強制的、威圧的に言う。むっと来た。
「うるさい。」かなり怒気を含んでいた。

気がついたら、お兄ちゃんたちが回りを取り囲むように僕を取り巻いている。

対立関係が生まれ緊張が走った。 にらみ合いが続く。辺りは険しい雰囲気に包まれた。

これはまずい。ぼくはとっさに小指を立てた。

まわりの運ちゃんも一瞬のことでわからない奴もいたが、わかるやつはにやにやしている。彼は、とみると表情は、和らいでいる。
「おおう、レデイー。OK」 彼にも即座に通じたのだ。ニヤニヤしている。

ぼくもニヤニヤした。破顔一笑。意味は直通した。場面は急転直下、転換。
そこで僕は再び人さし指と中指の間に、親指をはさんで 上下、させたら爆笑が起こった。そしてこれが極めつけだった。ハッハッハー 。

お互いに握手。そこへ迎えのバスが来た。先日ゲストハウスから船着き場まで送ってもらった例の運転手が やあやあといって手を振って握手を求めてきた。僕たちは友達のように親しそうに会話した。ムチャクチャな英会話だ。文法も単語も、へったくれもあったもんじゃない。なにか言ってりゃ気持は通じた。

この場で割を食ったのはバイタクの運ちゃん。レデイーの紹介料もドライバー料も吹っ飛んだ。迎えが後5分遅かったら、僕は仕方なしにバイタク運ちゃんに レデイ料とドライバー料を支払うところだった。

今朝はピックアップトラックが来るのが5時45分だから、すべて用意しておいてほしいと、ゲストハウスのボスが言った。

それが気になって、睡眠薬を飲んだにもかかわらず2時に目が覚めて、また4時に目が覚めてしまった。この間、うとうとだった 。それ以後は、身支度をするために、起きてしまった。だから、寝たのは3時間ほどで頭がぼーっとしているというよりは痛い。
加えて、早朝だったから、食料品の調達もできなかった。文字通りのまず喰わずだった。体に疲労感が漂っている。「何が、レデイか」そんなコンディションであった。
 

それにしても面白い。小指一本を立てるか否かで、雰囲気がガラリと変わる。意が通じるのだ。ただそれだけで、男同士では意味するところがわかるので便利なものだ。

多分、男の世界では、世界共通だと思うが、小指と、親指の上下は完全に通じた。
何とかは身を救うと言うが、なるほどと感心した。

言葉はいらない。というより、カンボジアでは、おはようも、サヨナラも、ありがとうも知らないし、知ろうともしない僕だったけれども、何とか窮地を脱することが出来た。


生命を持つもの

2008年06月02日 | Weblog

生命を持つもの

生命を持つものは生物だけだはない。人間が生み出した芸術作品だって世代から世代へと受け継がれて、人の心に生き続ける。、つまり生命をもつ場合がある。人為的に押し付けられて生き続けるのではなくて、ごく自然に人々の心に宿りーそれはその人に深い感動を与えるから人の心に宿るのだがー人の心から心へと伝わって拡がっていくのである

1、現在に残る文化遺産の大半は搾取され、犠牲になった人々の血の跡がにじんでいる。
2庶民から搾取した金で権力者は文化遺産のパトロンとなった。だが文化遺産は1人権力者の者だけではなくその世代に生きていた人々全員のちからの賜物である。
文化遺産は人類の財産と言うのは、こう言う意味で正しい。
3、庶民の犠牲なくして、立派な文化遺産が残せたら、それは最高だ。作る側も支える側もこう言う事実に目を向けるべきだ。
4、いつも思う。文化遺産は人間の命を食うが、それでもやはり値打ちのあるものだ。ただ命の犠牲はできる限り少なくする。それが英知と言うもんである。