コギト エルゴ スム 2009年02月20日 | Weblog コギト エルゴ スム 我思うゆえに我あり この響きは 人間がいるから神がいる,仏がいる。 と言う響きに共通したものを感じるのは,自分独りであろうかと先生は思う。 仏教の経典を読んでみるとそんな気がしてならないと先生は言う。
瞬間芸術 2009年02月18日 | Weblog 瞬間芸術 瞬間芸術、その中に永遠性がある。というが、瞬間の中に永遠性があるという言葉自体には、矛盾そのものがあるように思える。 しかるに、音楽は時間芸術である。 時間と共に生まれ、時間と共に去って行く。 にもかかわらず、瞬間的に去ったはずの音楽の美しさが、20年も30年も、いや、一生涯、心の中で、輝き、心の奥深く、私にとって永遠性を持つことができるのである。 先生はいまそう考えている
童謡 2009年02月18日 | Weblog 童謡 私の感覚で判断すると、以前うたわれていたような場、幼稚園では、価値の高い童謡が歌われなくなった。したがって、幼児は、芸術的童謡に、触れることがなくなった。 そして、それは無理もない話である。 近ごろの幼稚園の先生は、芸術的童謡、を知らないからである。加えて、先生に、音楽性がない。 そこで私は、ひとこと言いたい。 教師となって、いろんな子供の心に、音楽いう色を塗るのなら、何色が、この子の生涯にとって良いものか研究してほしい。 つまり、童謡の研究をしてほしい。そして自分が、芸術的な質の高さを持つ童謡と、流行歌、童謡との、差をはっきり認識して、価値の高い唄を会得して欲しい
砲弾列車 2009年02月17日 | Weblog 砲弾列車 東海道線は昔から,走るのが速かった。ローカルの汽車ぽっぽしか見ていないハチ公は東海道線の列車がこんなに早く走るのが,夢のようで勇ましい感じがした。 今日は新快速電車に乗った。揺れないし,早いし実に快適だ。乗っていると,偉くなったような気分になるから不思議だ。幼い頃のあこがれの何かをなお引きずっている部分があるだろう。 概して子供は自動車派か列車派に分かれる。それは大人になっても変わらないようだ。たぶん幼い頃の夢を引きずるのであろう。それは何も乗り物だけではなく,何事も幼いときのあらゆる記憶がずっと死ぬまで記憶として残るのだろう。幼いときの体験がどれほど大切かわかる。日頃ちょっと抜けたところのあるハチ公も色々考える年頃になったのか。人生が判りだしたのか。まっとうなことを時々口にするようになった。
登場人物紹介 2009年02月16日 | Weblog 登場人物紹介 ハチ公 昭和1ケタ生まれ。戦争に巻き込まれたが、命あって今日まで元気で熱弁をふるうが、おつむの方は抜けていることも多く、弱いみたい。 クマさん ハチ公と同年代。大の親友。苦労人、二人は性格は違うし、おつむの方はこちらさんのほうが、発達している。斜めからみると、世にたけているともいえる。 先生 大学卒 3人の中では顧問役を演じる。机上の勉強はよくしているが世事に疎く、理屈を通す。頑固で妙な正義感にあふれ、世間では通用しない理屈をこねる。ハチ公、やクマさんからは表向き教養があるとして尊敬されているが、いわゆる評論家的存在である。正論も吐くが焦点がずれていることも多い。
一心同体 2009年02月16日 | Weblog 一心同体 口で言うのは,簡単だが,百人百様という個人が2にして1になるということは至難のことである。 男と女の場合,お互いに引き合うものを持っていても,最終的には 1と1であって,二人で1とは滅多にならない。体をつなぐことはまだやさしいが,心をつなぐということは,非常に難しい。瞬間的にと言うならばともかくも,長い間というのは,不可能に近い。なぜが? 心はころころ変わるからだ。なぜ変わるのか?状況の変化に対応して,細胞の働きまでが,変わるからだ。やはり人間は究極においては一人で生まれてきて,一人でこの世を去っていく定めを背負っているのだ。それはひとり人間だけでなく,命のあるのもはすべてそうなんだ。 先生は時々哲学者気分になっている。
冬の高野山は 2009年02月16日 | Weblog 冬の高野山は 心の芯まで凍らせる。いっぱいの熱いお茶がどんなにご馳走か 落葉樹は黄茶色をして山の斜面をまだら模様に変えて行く 枯葉の寂しさは冬のオーケストラ、チラチラ降る雪は冬のトレモロ 里に立つ煙はみえず、軒先のつるし柿はどんどん甘くなる 荒野の冬空は空気澄み、落ち忘れた枯葉が一つポツン 赤白黄色の寒椿、今が盛りと声出して道行く人に呼びかける 去り行くもの、散り行くものよりも、生まれてくるもの、芽吹くものの方が頼もしい 去りゆくものや散り行くものに誘われて、涙を流す。日頃ノータリンを演じているハチ公もクマさんも時々詩人になる。
良慶はん 2009年02月15日 | Weblog 良慶はん 2月15日は大西良慶はんの遷化された涅槃の日である。 京都の人は前清水寺貫主 大西良慶師のことを親しみを込めてこう呼ぶらしい。 生前 暁天講座を開かれていたから、人生の大先輩だが、はん付けで呼ばれるところからすると、地元では、親しみをもって、慕われ愛されていたのだろう。 清水寺が有名な名刹であることは、誰もが知っていることだが、貫主の良慶はんが清水寺の顔になったのは、彼の高齢と7つ子ちゃんのなつけ親になったことではないだろうか。 107才を1期として遷化されたが、写真で見る限り、普通の人の60才の風貌は師の40才の風貌より遙かに老けて見える。体内から出るパワーあふれる気力とその風貌は男のたくましさを表して余りある。 師の90歳代に詠んだ短歌にも、気力元気がみなぎり、師が尋常な人でないことは裏付けされている。とはいえさすが107歳になると言葉の発音も一般人には聞き取れず、通訳?が必要だったそうな。 遷化 2月15日。これは釈迦入滅の日。なにか因縁めいたものを感じるのは私だけだろうか。 出会い 1周忌を目前にした ある日のこと。偶然寺を訪問。 新聞報道で寺の講堂に仏足石が設置されたと言うことを知ってから。 仏足跡と言えば、僕には仏足石歌に興味があり、薬師寺に現存する仏足石歌に曲をつけて奉納したこともある。 これが記憶にあるので、清水寺の仏足石には興味を持ったのだ。 成就院を訪問した時、師の1周忌を控えて90歳代に読まれた短歌にメロデイをつけて歌いながら、師を偲ぶ計画がされていた。そこへ割って入った形で、僕も短歌を見せて貰えることになった。約1000首ある中から僕は次の詠歌を選んだ 「思えども、言わぬは人の道にして、思わざるこそ仏なりけり」 悲しいかな、普通の凡人は思うことどころか、思わないことまでも口走ってしまう。あれやこれや悪口ばかり並べ立てる。そこの所に良慶はんは気付いてこの句を詠まれたのだろう。つまりそこには体験上も、常識的にも、生活経験と修行の中から自然に生まれた句だろうが、凡人にははっと何かを気づかせる短歌である。
ネオン街 2009年02月14日 | Weblog ネオン街 私は、色と、音の喧噪の満ち溢れる、ネオン街を歩くのが好きだ。 なぜならそこには、私の体内に眠る生命に、共振を与える何ものかがあるからだ。 他人の命、そこから発するパワーやオーラ、それを私の命が受け止めたり、連鎖反応を起こしたりする。それが何とも言えないのだ。ぞくぞくする。命の躍動感、それがたまらないのだ。 私は、命の探求を求めて、ネオン街をよくうろつく。
1月3日護摩木 2009年02月14日 | Weblog 1月3日護摩木 初詣で。護摩木にもいろいろのランクがある。特別ご祈祷五千円也を見ると考え込んでしまった。 宗教改革の、発端となった免罪符を連想したからだ。祈祷僧が、秘術の限りを尽くして心願成就を願うならば、それは、僧にたいするご苦労料であって神仏の守護、に、大小があるとは思えない。 5,000円払おうが、1万円はらおうがそれで御利益があると、納得するならば、あるいはそれで気持ちが済むならば、それはそれでよい。
車いす遍路 2009年02月13日 | Weblog 車いす遍路 何事であれはじめて出会うものは新鮮で、興味をそそるものである。 観光バスに乗ってやってくる人たち、マイカーでやってくる人たち、数こそ少ないが歩き遍路。そのどれもが新鮮に見えたし、私の興味を誘った。 どういう目的で、人々は遍路するのか、それが知りたかった。 病気を治すのには、本人を連れて遍路するのが、いちばん効果的とものの本には書いてある。 そうだ。脳こうそくで倒れた母を連れて、四国巡礼をすれば悔いは、残らなかったのかもしれないと後悔したが、次の瞬間、母には特に迷惑をかけたという自覚がないと言い訳をした。が、それは、僕自身の思いで母はどう思っていたか分からない。 このことに関しては、母は何も言わなかった。いつも黙っていた。本心どう思っていたのだろう。今となっては自分が推測する以外に、方法は無い。 母が倒れた時、車いす遍路はまったく思いつかなかった。医学的治療法が完璧だとは、思っていなかったから、神仏の加護を求めて、車いす遍路をすべきだったかもしれない。 僕は今日遍路姿で、車いすを使って巡礼している人に出会った。年のころは50歳前後で、男は車いすを押し、女性は車いすに乗っていた。たぶん、二人は夫婦じゃないか。いや、夫婦に違いないと勝手に決めた。 それにしても身軽な一人遍路でも大変なことを、身障者を車いすにのせ、巡拝することは、大変な作業と、大変な思いが付きまとう。 外面的なことを言えば、僕は明らかに楽で遊びのようなお参りをしている。僕は今回の遍路の目的が、たった一つの目的「お礼参り」ということで来ていることを強く意識していた。 巡礼する寺は平地に多いということは無い。どちらかといえば、階段のある山際などに多い。石段の多い本堂まで、どのようにして登ろうというのか、僕は興味を持った。気の毒だとは思うが、それは僕の責任でしたことではないと割り切っているので、気持ちはかるい。 山の中腹にあるあの第10番。切幡寺の境内で、ちらっと姿を見た。この寺も石段で333段あると石柱に書いてある。 大変な思いをしてここまで登ってきたことだろう。 第十一番藤井寺では挨拶を交わして行き違った。 車いすに乗っている身障者の女性は微笑みながら、言葉を交わした。不自由な体はコロコロ太っていたし、顔は赤ら顔である。これはきっと、血圧系やられたのだろうと思った。 次の焼山寺では僕が早く到着し、寺を去るときに山道の坂道を二人は登ってきた。 見知らぬ遍路が、主人と思われる男性に加勢して、二人で車いすを押していた。軽く会釈を交わしすれ違ったが、僕は表面はともかくとして、心の中では、もっとこの人たちと話をしたかった。 車いすで遍路をしている夫婦、これをビデオ撮影して家に持って帰りたかった。撮影することが、なんだか後ろめたい気がして、かなり離れたところから撮影しようとしたが。あっという間に杉の大木の影に姿が消えた。 夫人の様子をちらっと見たが、左手が内側に巻いている。僕が推量するところによると、たぶんこの人は、脳こうそくを患い、体にマヒでが起こっている。片方か、あるいは両方の手足にマヒが起こり、そのために歩行の自由が奪われている。 17年間寝たきりになったぼくの母と同じような状況にある。どんな形で生きて来てきた夫婦が、その人間模様は一切分からないが、母の状況とだぶらせて、この夫婦に興味と関心を抱いていた。 こういうことが可能なら、僕も母を車いすに乗せてお参りすれば良かったと悔やんだが、すべては後の祭り。 母は特にこの世を去っている。同時に、母の家を言えば、こんな大変なことが僕にできるだろうかと疑う疑問も頭をよぎった。 夫が病妻を車いすに、乗せてお参りする。この世にそのような情熱があればできることだ。母に対してその情熱がないと言うのなら、真の意味で母の心を深く受け止めていないことだ。僕は自分にそう聞かせた。 要は、やる気の問題で、それはひとえに、僕自身の問題であると、自問自答したが、心はむなしかった。 母に孝養をつくしたいと思えば、このぐらいのことはしても当たり前じゃないか。と心の声が響く。 しかしこんな形で、車いすを使って88カ所巡礼をすれば必ず良くなるという保証があるならば、それは報いられる話であるが、保証は、何もないわけで、ただあるとすればお大師さんに助けてもらって、元の体、少なくとも自分の見繕いが自力でできる程度までの体を取り戻すしかない。いくら一生懸命になったところで、そこには限界があるように、僕には思えてならない。 もし目を見張るような刺激的な回復があったら、それは軌跡である。そんな奇跡を期待して車いす遍路をして、期待はずれだったらしゃれにもなら無いだけでなく、おそらく不信感いっぱいで、2度と四国遍路はしないだろうと思う。それだけではない。お大師さんにも失望することだろう。 僕はマイナスイメージばかり思い浮かべた。心の底にこんなマイナス感情をひそめていたら、奇跡が起こったら、それこそ不思議である。絶対に起こらない。当たり前だ。行動を起こす前に可能性をすべて打ち消しようなことを考えているのだから。 起こりっこない。僕は自分にそう言い聞かせた。ここまで思ったときに僕は急にお大師さんの声を聞いたような気がした 「疑う前に信じろとは言わないが、行動する前にマイナス感情ですべてを否定してしまう考えは、捨てなさい。まず行動すべきだ。そのあとでなんと理屈をつけようが、それはお前の自由だ。」そんな声だった。 人生は、あらゆるものを肯定するところから始まるのだ。たしかこんな意味の声だった。 実際に行動も動かさないで、否定的な答え出すなんて最低だ。そんなマイナス感情を使うから何事も成就しないのだ。 一文の得にもならないことを考えたり思ったりして。どうする。僕は心の底に潜み、前向きの邪魔をするこの悪魔を心の中から追い出したかった。何事につけて、本心からやる気のない僕は、愚にもつかない理屈をつけて自分を正当化しようとする。わびしい限りだ。 考えただけでも気の重くなるようなことを実際に目の前でやってる人がいる。理屈ではなくて、行動で、目に見せてくれている。しかもこの夫婦は、二人とも表情が非常に明るい。僕にはそれが不思議でならない。たぶんお大師さんが見せてくれているのだろうけれども、分かるような分からないような複雑な気持ちだ。 ただ、一つだけ言える事がある。 もし僕が変だしなかったら、おそらく、この車いす遍路に会うこともなかっただろうし、又色々考えることもなかったように思う。これだけは断言できる。僕は急に思い立ったように、発心の道場を駆け巡ったのはお大師さんの招きだったんだ、僕はそう感じた。 今回の旅で、色々考えるチャンスを与えてくれたあの人たちと、次はどこで出会いのだろうか。ひそかに待たれる。
本物の歌 2009年02月12日 | Weblog 本物の歌 音楽は、人にとけ込まなければならない。 音楽はその土地の自然環境にも、同化しなくてはならない。 人と自然と音楽が、混然1体となってこそ、本物の音楽が生まれる。 そしてこれは、歌曲において最も適切に当てはまる。
人間界 2009年02月12日 | Weblog 人間界 霊界 心---人間界ー--現実界 肉体 人間は現実界に住みつつも、霊界にも属している。 パンなくして人は、生きられないがパンのみでも、生きられないゆえんである。
この世に芸術がなかったら 2009年02月11日 | Weblog この世に芸術がなかったら 文化や芸術は直接食や性を満たさないと言う意味にをいて、我われが生きて行く上での不可欠の必需品とはいいがたい。それは遊びの部分ではあるが、もしこの世に芸術がなかったならば、また文化がなかったならば、生きている値打ちは半減したかも知れない。
異邦人 2009年02月11日 | Weblog 異邦人 十年前は四十六才、今は五十六才。 気がついたことがある 目の前に広がる風景が全く変ってしまった。特に人間関係が変った。 今は行き交う人は皆異邦人に見える。また自分が(何物かによって)大衆から 疎外され、切り離された存在であるような気がしてならない。 こういう感覚は今迄にはなかったものである。というよりは序々に進行して 今みたいなものになった。. これは老化現象か、退化現象か、それとも現在の自分がそう見ようとしているのか。、いずれにせよ、過去の像とはちがい違和感が目立ち、異邦人という感覚から解放されずに困っている。