日々雑感

心に浮かんだこと何でも書いていく。

 病院にて

2009年02月10日 | Weblog

   病院にて  
1、植物人間になってしまって後は人間としての命は失われる。感情の交流が無い。
2、喜怒哀楽が無い。意識不明でも心臓は動くし脈はうつ。体を無意識に動かす。呼吸も排泄もちゃんとできる。
3、80歳を越えると人は子供に還る。老人病院に入らず自宅で死ねたらそれは幸せである。
4、今は親の姿出あるが、後20年もすれば我が姿である。
5、年をとると確かに頭がボケてくる。
   記憶力が弱くなる。 代名詞のに多用
   理解できない部分が増えてくる。
頭に入らなくなる。 飛ばし読みが増える。
物忘れがひどくなる。
意欲が全般に落ちてくる。
6、近ごろは鼻歌もおぞましいのにましてやカラオケなど歌う気にもならないのに今日は病院で長良川演歌を聞いて涙が込み上げてきた。だれがなんのために鳴らしたのか。
、わたしの心は義母の死と言う暗雲が垂れ込めている。久しく失っていた歌を歌う感情を呼び覚まされたみたい。
7、寂しさは体内を流れる。アルツハイマーで8年も寝たきりの病人が正に命の炎が消えようとしているのははっきり理解できるのに情においてはなっとくできない。


陰徳を積む

2009年02月10日 | Weblog

 陰徳を積む  
毀誉褒貶は世のならいである。人はその日のあるいはその時の気分でものを言う。
ほめられたら、有頂天になりけなされたら腹が立つ。これが人の自然な姿である。
大切な事は常盤先生(壷阪寺 勝憲師)のようにもくもくと陰徳を積むことである。先生はインドでハンセン氏病患者1000万人の救済に、活躍された。これがインド政府に認められて石像大観音が贈られた。
陰徳とは神仏からほめられる徳を積むということだ。
近ごろー60歳近くなってー60歳代でやっとこの辺の事が分かりかけて来た。

姥捨て

2009年02月09日 | Weblog
姥捨て
人生には、悲しみが影のように付きまとう。姥捨て発せられて江戸時代の経済的事情にとって代わって、人情の希薄さから現代も行われている人気のない山奥に捨てられるか、老人ホームと言う囲いの中に捨てられるか、集団の姥捨ては現代風でほほえましい。だがいっそう深い悲しみを覚えるのはぼくひとりだけだろうか

曲の源

2009年02月09日 | Weblog
曲の源
曲は胎内に内在して我、自我意識、が取れた瞬間にあるいは[我]をつき破って出て来た瞬間になるものか、はたまた、天上から発せられた曲が瞬間に自分の心に飛び込んで来て曲の形をしるすものなのか、その両方か[ケース、バイケース]なのか。そこのところが分からない


カっとならぬ 

2009年02月08日 | Weblog
カっとならぬ 

カっとなつて解決するものは何もない。自分がストレスを吐いただけだ。カっとなるとどうしても理性的な判断をなくす。急激に高まった情念の緊張を一瞬にして発散させる働きするがそれだけの話である。情念の瞬間的発散を自己コントロール出来ることはすばらしいことである。それは自分に打勝つことを意味する。人は誰でも修行を積めばある程度まで感情のセルフコントロールができるようになる。そしてこれをやリとげる人がいる。彼はその一人である。見習はなくちゃ。

ニセ物と本物

2009年02月08日 | Weblog
         ニセ物と本物

1 タイのデパートはそれ自体がニセ物であるものもあるそうな。

2 ニセ物を売るデパートへ行つた。明らかにニセブうンドと思はれるものから精巧なニセ物まで所狭しと並んでいる。

3 なぜにせ物でも売れるのだろうか。思いつくことが一つある。本物であれニセもので あれそれを求めるのは、人の心であり.夢である。

本物がすばらしいものとして、人の夢 をみたすものとして、世間に通用しているがそれは高すぎて一般庶民の手には届かない。 そこで生れてきたのが二セ物である。本物に限りなく真似られたニセ物は素人目には見 分けがつかない。そこで、それはそれを求める人の夢や欲望を満足させる。だから実用的な障害は何もない訳で、また夢次元のことだから、満足さえすれば本物二セ物は余り関 係はない。そしてそれでよいことだと思う。但し本物は二セ物に比べて何倍も労力ヤ時間や才能や金がかかるものである。

次元

2009年02月07日 | Weblog
                   


              次元

芸術とか宗教とかのレベルは、何事も魂の次元から発想すべきだし魂のレベルを基盤にして、レベル設定すべきである。
芸術は真善美を追求するもので、決して軽いものではない。荘重、確固たる信念をもって、命がけでやるものである。
たいていは、芸術を目指しつつも、芸能の域に止まっていると言うのが実相であるが、だれもが走れない道、それが芸術の道。
 今日の作品は心がないから、訴える力が弱い。知的合理性から作ると、魂が入ってないから訴える力が弱い。
伝統 文化の作品はだけではない。才能の差と言うものがある。
西洋と日本の違い
、 ギリシャ彫刻       日本の仏像彫刻
教会、神殿建築 寺院建築

   

心の触れ合い

2009年02月07日 | Weblog
               心の触れ合い

心の触れ合いこそ最もすばらしいものである。1日1つは心の触れ合いをつくろう。
金や時間をくれというと人は首を縦に振らない。ところが触れ合いはいくら求めてもだれも怒らない。他人を気分良くして自分も楽しい思いをしよう。
この世の幸は言うにおよばず、あの世でも幸であるためには死後も肉親をはじめとして多くの人に慕われる事である。

叫びから 

2009年02月06日 | Weblog
            叫びから 
 
人は心の中にある諸々の思いを叫ぶ。ある人はロから言葉として吐き出す。ある人は絵筆をとり、ある人は詞に託す。またある人は節をつけて歌う。
唄はこんなところから生れてくる。従って歌はまず人の心の叫びを文字で表した詞があり、それにメロディがついて成り立つ。まずメロディがあって、それに詞がつくのは邪道であるとすら思う。
とは言へ、.逆も真なり、で、たまには曲にぴったりしたものもあるが、私はこれはやはり順序がまちがっていると思う。

行動 

2009年02月06日 | Weblog
行動  

ある程度の論理を組立てそれに基いて行動することも大切だが、どんなことでも論理抜きで体当りして道を切り開いていく方法もある。
世に(考えるより産むが易し〉という諺があるが、体当り即ち猛烈な行動は案外問題解決のべスト策かもしれない。行動している段階で色々な問題は発生し解決されていくことになる。


原罪

2009年02月05日 | Weblog
原罪
他の生物の生命の犠牲にした上で、初めて、生命が保たれる人間は他の生命からみれば厄介な動物である。他の生命の平和共存と言ったところで、そこには本質的な矛盾かある。宇宙の方則として弱肉強食は自然な形として厳として存在しているが、この矛盾は何かすっきりと解決できるものではない。
原罪とは神の戒めを破ったことによる罪のことであろうが、他の生物の生命の犠牲の上にしか存在できない人間が根源的に持っている罪のことを言うのかしもしれない。

天を仰げ

2009年02月05日 | Weblog
天を仰げ     

この世での社会的状況・たとえば金持であろうと貧乏人でろうと、人がこの世に生れ出た次元から考えると大したことはない。諸もろの劣等感にさいなまれている人々よ 天を仰げ 

プヨンソック

2009年02月04日 | Weblog
チェさん ハーさん

釜山駅からバスに乗って太宗台までは30分そこいらかかる。案内所ではそう説明してくれた。地下道をくぐって駅と反対側からバスに乗った。
太宗台はウイークディのためか、がら空きでバスを降りたのは私を含めてたった3人だった。1人で歩いてもよかったんだが旅は道連れのほうが楽しいので、思い切って2人の娘さんに声をかけた。韓国語はまるで分からないから開き直って日本語で話かけたら日本語が帰って来た。僕は急に嬉しくなり、
話しても聞いてもわからない中で言葉を通して心を通い合わせることができて胸のつかえが1ぺんにおりた感じがして生き返ったのだ。
彼女はイマ、ソウル近郊の日本企業で働いていて日本はしたしみを感じるらしい。仕事の話はさておいて話題は旅の話になって佳境に入った。
3、40分も歩いただろうか、パンフレットで宣伝されている人魚の像のある島の突端についた。そこはほんの小さなスペースで下は崖をなして海である。高台にあるから眺望はすばらしい。 よく晴れていたら対馬が見えるとか。それは実感としてわかる。
島を1周する形で道を進んで行くと、下に降りる道があり、遊覧船があった。
彼女たちは乗るつもりらしい。2人で話す言葉は韓国語だからさっぱり分からないがチェさんは乗リませんかと声をかけてくれた。わたしは1瞬ためらった。と言うのは今回の旅行は誰にも言わないでおしのびできているからだ。実は太宗台公園には伝説がありそれをしらべて作詞作曲をする取材が目的なのだ。日本の題名は夫恋石(韓国語でプヨンソック)これはここに伝わる伝説を土台にして何時の時代も変わらない美しいが悲しい夫婦愛の物語を歌に載せたかったのである。
もし海で舟でもひっくり返ったらどうなるか、いやな思いをするのはかなわない。こういう気持と乗りたい気持ちが交錯したのである。
彼女は既に切符を買ってくれた。 「カムサハムニダ」ありがとう。僕はお礼を言って乗船した。
心が通じ始めるとここが外国、韓国だと言うことを僕は忘れた。時間は短かったが時を忘れて3人は語り合った。仕事のこと、流行のこと、恋人のこと若い女性だから当然の話題である 。
あっという間に時間は過ぎて太陽は傾き始めていた。彼女たちは今からソウルへ帰る。僕は今夜の飛行機で日本に帰る。バスの道は同じ方向だった。僕は空港に向かうためナンポドンでおりた。彼女たちはわざわざバスを降りて空港行きのバス停まで送ってくれた。
バスは発車した。彼女たちの姿はどんどん小さくなる。一番後部の席に腰掛けて僕は手を振り続けた。周りの人たちは僕の奇妙な仕草に何事かと目を注いだが、僕は恥ずかしいという気持ちよりも彼女たちとの別れの寂寥感に包まれていたので、何も気にならなかった。
2、3,分のうちに姿は見えなくなった。僕は正面向いて座り直した。そしたら涙が1筋スーット頬を伝った。空港に着くまで僕は今日の出来事を何回も何回も繰り返しては何とも言えない気持ちになった。まるで愛しい人と別れたあとで味わうかのように、切なくて甘くちょっぴり寂しさの混じった 初恋の味とでも言うのか、満たされながらも寂寥感の漂う気分だった。それはもう10年も前の旅の思い出だが、今も心の中で輝いている。まるで昨日のような鮮やかさで。

不思議な出会

2009年02月03日 | Weblog
不思議な出会

延岡から高千穂までは、日之影線が走っている。が、そこから高森へはバスが通じている。問題は高森から阿蘇へ上る交通だ。どうして上ろうか、出発前から、わたしは気をもんでいた。しかし、いい
アイデアのあろうはずはない。必ず直面する問題ではあるが一時棚上げにせざるをえない。
そんな状況におかれているのを、忘れるためではないのだが、わたしは旅の気安さから高千穂の夜神楽見物に同宿の中年婦人を誘った。歳格好の似た二人はこれも同じく気安く行きましょうと言うことになった。実を言うと、わたしが大阪からはるばるここまでやって来たのは、高千穂地方に鎮まります神々に自作の神楽歌を奉納するためであった。
わたしの神楽歌を奉納について 宗教音楽の作曲家について さらに宗教の話に花が咲く。
未知の人と神仏の話をする。こんな事は今まで1度も経験したことがなかった。
初めての経験に感謝の気持ちが沸いて来た。

青春の中味

2009年02月03日 | Weblog
青春の中味

甘酸っぱい、華美、甘美、そこはかとなく、ほろ苦い、ゆめあこがれ、希望にもえる、
こんな言葉がよく似合う。 純愛の美しさ、感動、遠い日の思い出、今も生き生きとよみがえる。