日々雑感

心に浮かんだこと何でも書いていく。

遊芸の世界に生きたいものだ。

2009年11月15日 | Weblog
遊芸の世界に生きたいものだ。

なにがしあわせなのか。生きるとはどういうことか。味わって生きることによって人は、初めて人生のアジを知る。
一流大学を出て、一流企業に就職して、ただの生活をして、人生を終える。
それでいいのか。
ウサギ小屋、働き蜂、働き中毒、それで人生を終える。私はそんな生活は真っ平ごめん。自分の人生は自分の好きなように生きる。
世の中には食うために働く人が、多すぎる。
考えない人間には、幸せも一時の感情にすぎない。

最低限度の食べる生活(現実の生活)で命をつなぎ、文学や芸術や遊芸の世界に生きたいものだ。

努力をすれば今可能性が生まれるだけで、即実現性があるということにはならない。そして実現性とは可能性に神仏の力が加わった時に初めて生まれるものである。

近頃そんなことを想いながら日々を過ごしている。

人生は短い。

2009年11月14日 | Weblog
人生は短い。

上手に生きることが1番大切だ。人生行路の中で起こってくるもろもろの出来事をうまく選別して良いところだけをとってそれをつなぎ合わせて、賢く生きよ。

悪いところばかりはぎとってつなぎ合わせるならばその人の人生は不幸以外の何物でもない。

要は聡明であるか、ないか、(知識面より人格面で)によって人生もまた変わる。幸福色を塗るか、不幸色を塗るか。

音楽は言葉の壁を突き破る

2009年11月13日 | Weblog
音楽は言葉の壁を突き破る。

私の書いた楽譜が、ロシア人にもアメリカ人にもフランス人にもなんなく理解されて、思いを届けることが出来る。

自分の行為が言葉の障害にあって伝えることが出来ないほどじれったいことはない。単に意思の伝達以上に、気分までも伝えられることが出来るというのは、よけいにすばらしい。

音楽はリアルタイムでみんなが心を合わせて、人そのものを作り上げるところに他の芸術(彫刻、絵画、建築、文学等々)にみられない特質生があり、普遍性がある。 そこがよい。  

悲劇

2009年11月12日 | Weblog
悲劇


英国人の語学教師を殺害?して遺体を放置したまま逃げた、犯人が逃亡生活900日を越えて、大阪で捕まった。
今回は顔写真が、整形手術で大きくテレビで報道され、それを見た市民からの通報で逮捕された。これから取り調べがはじまり裁判が始まる。

この事件に関心を持つといつもマイナス感情を引きずって生きていく事になるので一刻も早く忘れたい。

今回の事件で犠牲になったのは、ホーカさん自身だが、被害者の両親も
被疑者の両親もいたたまれない気持ちになったことは、間接的に犠牲者の心境を味わうことに繋がっていく。少なくとも被害者は犯人を除けば関係者はみなそうである。

社会人として被疑者は自分の命で、罪をあがなうべきだと考えるが、宗教的な論理を一部援用するならば、本人にとりついた悪因縁が彼を凶行に走らせたとも考えられる。しかし社会的な判断はそう考え方を一切排除してあくまで法律的に決着をつけることになる。

日本社会には不幸で悲惨な事件が最近は起こりすぎる。

若者に告ぐ

2009年11月12日 | Weblog
若者に告ぐ

1,肉体に訴えるのがリズムで、精神に訴えかけるのが詞とメロディーである。

2.肉体は20代を頂点にして衰える。40代になったときには20代の歌は体がついていかないために歌う気にならない。つまり青春時代に歌ったナツメロを失うことになる。

3.精神は20代、40代ては大差ないが、40代になるとより深みが出る。従って歌いたい方が心の歌つまり人生経験に回顧心情を混ぜたものになる。

4.よいか歌つまり良い詞に、美しいメロディーがついた方はリズム感がなく迫力がたりないかもしれないが、歌っておくことだ。その歌の良さがわかる時が必ず来る。
心象風景は移り変わるものである。


ゲネラルパウゼ

2009年11月11日 | Weblog
ゲネラルパウゼ

ドラマの効果を上げるために必ずBGMがつく。ところがセンスの悪い音楽家が音楽をBGMにすると、気分の盛り上げるどころかしらけてしまうことがある。

とかく音楽を入れ過ぎる。やかましくてうるさい。無言、ゲネラルパウゼ、休止符の持つ意味がよく分かっていないのではないか。

疎外感

2009年11月10日 | Weblog
疎外感

何時ころからか定かでないが地下鉄に乗っていて目につく人が皆自分と無関係の世界の人たちであると思うようになった。

まわりの人々が自分と同じ世界にいないことを感じたとき、疎外感よりは寒気を覚えた。なぜ自分だけが脱落したのか、疎外されたのか、体力の衰えか気力の萎えか。

以前には常に目の前を通る名も知らぬ人々とは何となく親しみがあり同じ土俵の中にいると信じていた。ところが市街に行ってみると、他から孤立。自分だけがひとりでいたのだというのだからびっくりする。やはり意識は個に向かうのであろうか。

生活のアクセント

2009年11月09日 | Weblog

生活のアクセント

この世の中が竹久夢路や山頭火のような人であふれかえると世の中は住みづらくなるだろう。

芸術家が多数派を占めた社会は円滑には回らない。
大多数の人々は食べる生活を求めて常識的な生活をするから
こそ社会が安定しているわけである。

常識人からすると破天荒な生き方をする芸術家やロマンチストたちは自分のできない願望を満たし生活に彩りを添える生活のアクセントである。

歌の起源

2009年11月08日 | Weblog
歌の起源

まず祈る心があった。心の中の願いや祈りは言葉になった。言葉には節がつい言葉はメロディーに乗せて歌になった。

グレゴリアン賛歌に手が加えられた。歌は厚みと広がりを持った。
和声とかオブリガートがなどが加わって現在の賛美歌が作られた。
それから音楽が分離独立して成立した。音楽を生んだのは信仰即ち宗教であった。


ダキニ天、伏見稲荷

2009年11月07日 | Weblog
         ダキニ天、伏見稲荷



1月1日。私は夢を見た。なんの夢か。もうかすんでわからなくなってしまったが、丸24時間経っている今、ダキニ天、という言葉だけが頭に残っている。

ダキニ天。和名・稲荷大明神。稲荷といえば、京都伏見のお稲荷さん。商売の神様。
なんのご縁があるのか分からないが、伏見稲荷さんのおでましだ。普段
手を合わせたこともないのに、なぜ?単なる夢か。いや、おそらくつながっているであろう神仏の世界から
「今年はダキニ天におすがりせよ」という御託宣をいただいたのにちがいないと受け止めた。

 女房、長女、私の3人で、歩くことを前提に伏見稲荷に詣でる。
今年はダキニ天に初詣である。つながらない部分を私は「かつぐ」ことによって埋め合わせた。
夢の中でダキニ天は「今年はお参りに来い。お参りにきたならば、御利益を与えてやろう。必要な銭を与えてやろう。」と言われたように思えた。
それにしても、正月早々おめでたい話である。

人波にもまれて、私は拝殿に進み、ダキニ天こと、伏見稲荷大明神に向かって、心の中で祈った。
「何のご縁かは存じませぬが、1月1日、夢枕におでまし下さってありがとうございます。来社して祈れというというありがたいご催促なのか、福をやるから取りに来いというお招きなのかは知りませんが、早々と参上いたしました。家内と長女を連れてをはおりますが、あれは付録です。3人がかりで是が非でも御利益をという大がかりな仕掛けではありません。
3人3様です。夫婦親子といえども、皆、各それぞれの方向でお願いすることでしょう。とはいえ、私に福の神がとりついて、家の中に夢にも思わなかった大金が転がり込んでくるようなことにでもなれば、それは家内がいちばん願っていることゆえ、ありがたいことに違いありません。本人に直接たしかめてはいませんが、この男をなんとしても世に送り出して、どうしても男にしてみせるという、坂田三吉の女房・小春のような夫婦愛の発露抑えがたくというところから、ダキニ天にお願いするという情熱をもって、女房が本日お参りしているようには思えません。
ダキニ天。夫婦といえども、一心同体ではない身の哀しさ。どうかその点は女房に直接本心を聞いたうえで、彼女のお願いを叶えてやってほしいのです。なお、今年が始まるにあたって、その当初、1月2日の日に願掛けをする以上、かけた願が聞き届けられて、心願が成就した暁には、何をほっておいても、お礼参りさせていただくことは言うまでもありません。何事もよきようにご解釈賜りまして万事よろしくお願い申しあげます。」


ダキニ天が私の願いをどう受け止められるか、それは確かめようがないからそっとしておくこと以外には手は無いが、私の方でははっきりと記憶しておいた。
 生まれてこのかた1月1日に神様の夢を見るなんて初めてである。
おめでたいこと限りなし。























徒然に思うこと

2009年11月06日 | Weblog
徒然に思うこと

最近の統計では毎年3万人以上の人が自殺している。1日で約100人の人が自ら自分の命を絶っている計算になる。

平和な風景の中で、それほどの人が日常的に自ら死を選ぶという。この世界は一体どんな世界なのか。日本という国は一体どういう国なのか。

悲惨なニュースも、今は、あまりにありふれてしまい、ニュース価値もへりつつある。どんな悲惨なニュースに触れても、その上をツルツルと意識がすべって行く。

今の時代に、心が鬱になるのを感じ、何とも言えないような感覚を覚えるのは、その人の気持ちがとりわけ人間的であり、繊細であり、やさしいからだ。
菩薩の心に近い心の持ち主ほど、今の時代には、心がなえてしまう感覚を味わう。

不公平 不条理 理不尽
もし、神というものがあるとしたら、神はなぜ自分だけに、こんな苦しみを与えるのか、どうして自分だけはそうなのか、その理由をどうしても知りたい。
そこには理不尽さだけではなく、目に見えない運命に対する大きな怒りの感情がある。

宗教の論理からすれば、苦しみは、天が与えた試練なのだろう。
聖書にある、狭き門からは入れ、という言葉は、多くの苦しみを経験しながら苦しい道を生きるということである。

人間が生きているということは、そもそも大変な矛盾をはらんでいて、その矛盾をはらんでいるという事実を合理的にただそうとしてもただせるものではない。

宗教は人間に必要なものだ。
不公平で残酷であることに人は耐えられない。だから、人間は自分の生きていく不安や恐怖から救ってくれる力を必要とする。
不公平で、理不尽だからこそ人は、もう一つの世界がなければ救われない。
神がいれば、人生ももっと公平のはずだ。不公平は、神がいないということではないか。そうした考え方は、実は神の存在を前提に考えている人の発想である。

世の中は本来、不公平なものだ。しかも残酷である。それが正常である。
先日ベトナム・ホーチミン市のペンタイン市場で生きた鳩に、熱湯を掛けて殺すのを見て人間の持つ残酷さをまざまざと見せつけられた。
気がついたこの残酷さが、人が生きていくための生存欲即ち命の中に有ると思うとぞっとする。

自分の死は不公平な死ではなく、それは神から愛されての死なのだ。と考え納得できるとすれば、確かに救われる。
本当に神のような社会が存在するかどうかは、二義的な問題だ。ただ痛みは少ない方が良い。

信仰を持ったからと言って、暮らしが楽になったり、病気が治ったりすることもないだろう。でも痛みや苦しみを抱えながらも、生きていく力が与えられるとしたら、それは、価値のあるものではないか。やがては苦痛を感じなくなるときが来るかも知れない。その時は現実には救われているのだ。神の恩寵を受けているのだ。

他人の痛みを自分の痛みのように感じる。というが、その人の痛みは、その人当人だけのものであって、どんなに他人が同情し、慰めても、軽くなりはしない。
人は皆独りで生まれてきて、独りでこの世を去っていく宿命を背負っている。そういう厳然たる事実を前提にして我々は共生きの思想をもって暮らしている。


愛を知って人は

2009年11月05日 | Weblog
愛を知って人は

光を放ち始める。愛とは自己規制の心であり、誠心誠意であり、赤心であり、奉仕であり、ヒューマニズムである。

人は衆生済度をしつづけている仏の声を聞くために修行する。菩薩の道、衆生悩むとき菩薩また悩む

男と女を結ぶ糸は愛。その愛がヒューマニズムに輝くとき
男と女は最高の関係に至る


お旅所

2009年11月04日 | Weblog
お旅所

神様でも1カ所にずっと鎮座ましますのは退屈なのかもしれない。いや神様が退屈なさる前に人間が気をきかせて御旅に出ていただくように取りはからいをするようにしたのだろう。

神も人間も1カ所にじっとして何の変哲もない日々を送るというのはストレスのたまることで、ましてや神様は人々の無理難題をせっせと引き受けてくださる。

神様がいかに力量がおありとしてもやはり限度というものがあり、また一方、得手、不得手ということもある。これも神様がストレスの渦にに巻き込まれる理由のひとつである。

矢張り神様もみこしに乗って旅をなさり、日ごろのうっぷんをはらされるチャンスを持つべきだ。それが人間の神様へのささやかな御恩返しの表れかもしれない

命のいとおしさ 

2009年11月03日 | Weblog
命のいとおしさ 


汗をたらたら流しながら、僕はタイ・バンコックのスリウオン通りのほうへあるいていった。市内のエアーポケットのような形で所々に美しい花が咲いている。赤とピンクを混ぜてそれをこくしたようなきれいな花である。勿論名前はしらない。
ぼくはしばらく見惚れていた。

武満も死んだ。黛も逝った。あと50年もしないうちに我々世代は例外なくどこかに逝ってしまう。そいういう事を念頭において今を生きなければならないと痛切に感じた。
今見ている花のように無心にしかも最高に輝かして生きることにこだわらなくては。花は教えてくれた。時の流れに流されて輝くのではなくて積極的に時の流れを活用して生きろと。

生きてるのか、死んでるのか分からない生き方は命の無駄使いにすぎないと心の中身が反映されて作曲家の心の中身が作品になって反映される。低俗な欲望でも高級な欲望でも陰に陽に反映する

人格は気品の有無を表す。夢ほのぼのとした、夢をなくしたくらい心、心の平静さ、現実、いろいろな心の状態が反映されて作品になる。が、その際一番大切なのは気品だと思う  92.11.24

マッチ箱

2009年11月02日 | Weblog
マッチ箱


走る列車の窓から沿線の状況を見てみると、マッチ箱のような家が鈴なりになってつながっている。このマッチ箱を得るために人は己の生涯をこれに費やす。
人の一生のエネルギーはマイホーム(西洋人にいわせればウサギ小屋)につぎ込まれて終わる。それが庶民の本当の願いか。
江戸・明治・大正・昭和と時はなお流れたが住宅事情が明治や大正と余り変わらないというのなら、政治が悪いとしかいいようがない。というのは庶民は勤勉であるにもかかわらず、この世に生きてこれだけしか残せないというのは、どこかがおかしい。GNPが一位、二位だといっている馬鹿なリーダー連中はこの現実をどう説明するのか。