日々雑感

心に浮かんだこと何でも書いていく。

もう一つの人生

2011年11月17日 | Weblog
もう一つの人生

タイへはよく行った。三十回は越している。初めてバンコクへ行ったとき、ドンムアン空港に降り立った時の開放感は忘れることが出来ない。同時に今まで味わったことがないような、孤独も味わった。
話せないから会話が出来ない。これが最大の困りごとである。お国柄の事情も何も知らずに飛び込んだから、何をするにも全く見当が付かない。タイ人とはタイ語を話すことも、会話することも、出来ないし、文字も全く読めない。つたない英語の会話と、身振り手振りのボデイランゲージ だけである。立ち往生して途方に暮れた。

しかしそれも三十回を越せば、身体がバンコク市内のことを覚えてくれるので、会話が出来なくても、何とかひとり旅が出来た。地理が詳しくないので時間があれば歩いた。4月のソンクラン祭りが水掛祭りだと言うことも知らなかったので、背中から水を掛けられたこともある。

そのうちに第二の都市チエンマイに足を運んだ。ドイステープ寺院から市内を見渡すと城郭都市の様子がはっきり読み取れた。チエンマイには象に乗るために三回ほど行った。

その実績がかわれて、チエンマイ市から長期滞在しないかと案内が来た。もう定年も過ぎていたが、やはり僕は日本に住む方が良かった。それは日本が身体中にしみこんでいるから、今更言葉も分からないところで住むなんて、と言う思いが強い。何時もひとり旅
だから、しっかりした自分を堅持しないとたちまちにして、生きていくのに困る。
そういうわけで頭にたたき込むか、メモをとって知識としてはかなりのことを身につけていたけど。
ある日新聞にもう一つの人生という題で海外長期滞在の特集記事が載った。海外の長期滞在は、僕にとっては旅でしかあり得ない。インドを二月ほど旅したが、とにかく日本に帰りたくてしようが無かった。それはぼくのノスタルジアではなかった。何よりも生活上の不便が大きかったからである。
良くても悪くても、「もう一度の人生」は日本にしがみついて生きなきゃと思っている。

最も大切なことは

2011年11月16日 | Weblog
最も大切なことは

最も大切なことは、いつも精一杯にこの日、この時を楽しまなくてはいけないということだ。そして今できることは迷わずにしなくてはいけないということだ。今すぐに。       グレンマッキンダイ。

人間てどうしてこんなに簡単で 、たやすく出来るるようなことを考えて行動しないのだろうか。
自分の命に限りあることぐらいは誰だって知っている。結局の所楽しむと言うことはどういうことなのか、と言う中味が判っていないのではないか
ただ漫然とと生きている人が多すぎる 。考えても考えなくても一蓮托生だ。勿体ない話だ。

感謝する心を作る

2011年11月14日 | Weblog
感謝する心を作る

幸せは感謝する心の中にある。
この世の中の幸不幸は、心の持ち方で決まる。 幸福と思えば、幸福 。不幸と思えば不幸。
では感謝する心を、どうしてつくればよいのか。
聖人の行いや、言葉に学ぶことが一番の早道で近道ではないか。
お経(聖人)の教えるところを信じて、日々実践すると言うのも近道だ。
もちろん、自ら進んで幸せな生き方を求める事が根底にある。
それが前提になっている。
人生の目標は幸せに生きること。幸せな人生を送ること。 満足のいく人生。悔いのない人生。 命を燃やしてきた人生。

どうすれば幸せに生きられるか。 
それは 幸せを感じる心 を作る事につきる。 
なぜならば、心の感じ方で、幸不幸は決まるからである。


おーい おかん

2011年11月13日 | Weblog
おーい おかん

もう何年間夫婦をやっているのだ?。今まで飽きもしないで別れもせずに、長持ちしたところ見ると、お互いに心の奥底、深いところで心がつながっていることは、お互いに自覚していたいものだ。
男というものはな。特に戦前生まれのおとこはな、口に出して お前ありがとう なんて照れくさくて言えたもんじゃない。

心でそう思っているのなら、口に出していいなさいよ、とお前は言うが、お前だってオトーチャンのおかげで、日々無事に暮らしていけるのだから ありがとう といえるはずだ。しかしそんなこと日々の暮らしの中で言うと、きくほうもてれくさいよ。もしお前がそういったとしたら、穴があったら入りたい気分になる。
それよりも、言う言わないに関わらず、口喧嘩をしながら毎日こうして、同じ屋根の下で暮らしている事こそが、言葉以上の深いところで心が通じ合っている証拠じゃないか。そう思わんかい。口には出せないが想いを書き留めることは出るけど。

生きてく重荷を分け合って
二人で背負い今日まで生きてきた
俺とお前
今立ち止まって後振り向けば
流した涙もなつかしい

ありがとう  ありがとう
おまえ 本当にありがとう
お前の(愛情)こころが支えてくれた
夫婦春秋 二人の人生

てれくさいなー。 おかん。 もう嫌い。???!!!。

TPP

2011年11月12日 | Weblog
TPP  11/11/12

参加するか否か、大きく分かれている。当然のことだろう。
反対は、おもに第1次産業。たとえば、米。700%以上の関税で、自国のコメの生産農家を守っているという。
参加するというならば、農業の経営方法を抜本的に変えて,経営体の組織を再編しない限り、関税障壁を高くしておかないと,守りきれないと言う主張は,その立場に立てばいたいほど理解できる。

しかし大局的立場になって展望すると、こうして保護政策をとっている限り、農業の衰退を招くだけでなく、将来に向かって展望が開けない。
こんな体質をいつまでも温存するのは,将来に向かって、問題を先送りするだけだ。

TPP協定では、関税を撤廃しようということが原則であり、そうなると、関税制度がある限り、工業製品の輸出入が不利になる。貿易国の先行きは、どうなるのか不安である。

3チャン農業をこのままにして所得保証で、いつまでも農業がなりたつのだろうか
農業の人口構成比をみると、高齢化によって農地の原野化ははますます進むだろう。

食糧というと、扱うに、わけもなく恐ろしい気がするが、将来の食糧確保のためにも、産業として成立する農業を作らなければ、現状のままで、税金で所得不足分を補てんしている限り、おそらく未来はないだろう。

知識も、経験もない僕の言うことだから、どこまで当を得ているのか、分からないが、どうも、経団連の主張する参加の方が得策みたいである。

2011。11。11

2011年11月11日 | Weblog
2011。11。11

1の横並び。誰かなんかやるだろうと、思っていたら、朝日新聞の1ページ目に写真入りで11分撮影と記事には書いてある。人は縁起を担いで」イベントをしたとある
。通天閣では先着1111人の入場者にお菓子が配られた由。

ところで僕はちょうどうまく、焼き芋が焼けたので、11日11時にいもを食べ始めた。
並びの数字を記念して何かを始めることなんて、今まで経験がない。ということは生まれてこの方、初めて横並びの年月日時を意識した。認識した。この時間に合わせてなにかをしたということになる。

こんなちっぽけなことではつまらないが、記念にはなる。まさか日記には書けないが。

近頃のTV

2011年11月09日 | Weblog
近頃のTV

無職ぶらぶらだから、時間はたっぷりある。暇つぶしによくテレビを見るが、暇つぶしにでも見ようというのに、見る気がしない。
番組の内容がお粗末なのである。幼稚でばかばかしい。
なべてタレントという人達は、芸を磨かなくてはならないのに、奇妙きてれつな意味不明の言葉を発して、お笑いをとろうとする。

お笑いというものは、天才的な才能が要求されるもので、1回や2回のだじゃれを使ってタレントとしてふさわしいか、疑問である。
安上がりなのかどうかは知らないが、そんなジャリタレを使ってみて面白くもないお笑いをみせられるものは、たまったものじゃない。

同じやるなら、もうすこし知恵がないものだろうか。たとえば国や地方が直面する
問題点などを、お笑いの技法を使って、おもしろおかしく解説できないものであろうか。
公共の電波を使って、、、などと、もっともらしいことを言う前に、この趣旨に相応する番組かどうか検討することが必要だ。

こんな番組のスポンサーになる企業も企業だ。中身のない視聴率競争が何の説得力を持ち得よう。番組の内容をみていて、つくづくそう思う。いらだつ番組のチャンネルを変えるのはもちろんだが、不快感は番組のスポンサーにまで及ぶ。こんな低俗な番組の視聴者になる前に、スイッチを切った方が気が休まる。

なべていまのTVでみたいと思うのは、ニュースと報道番組だけである。
節電が叫ばれるこんにちである。昼でも夜でもかまわないが、放映しないで、その時間帯の節電をした方がましだろう。どの番組が最もみたくない番組かアンケートでも採ったらいかがか。TV局に注文をつけたいくらいだ。

詞か曲か、どちらが先か

2011年11月09日 | Weblog
詞か曲か、どちらが先か

作曲するときには、まず詞を求める。僕の場合、詞にもられた感情に引き込まれてメロデイができあがってくる。中には、はめ込みと言って、まず曲ができ、それにふさわしい詞を作り当てはめていくと言う作品作りもある。どちらの方が先だという決まりはないから、自分に合うように、作れば良い。

古賀政男先生はご自身が作曲される時、詞はお姉さんで曲は弟だと言われた。だから先生の場合、まずいい詞(ご自身に感動を呼び起こす)があってそれに会わせて、作曲されたようである。この手法が先生の作曲法なのだ。
とはいえ生涯何千曲も作曲されたのだから、たまにははめ込みの作品もあっただろう。

僕の場合もやはり古賀先生のように、まず詞があってそれを基に作曲を始める。目の前に詞がなくて、曲を作れと言われても、まず出来ない。どんな詞でも良いからその詞の中味を音であらわす。そして不思議なことに詞が良いと、それに引っ張られていい曲が生まれる。これは不思議である。たまには曲先行のこともあるが、曲に会わせて作詞すると作品がしっくり来ない。
またこんなケースもある。詞と曲が同時並行で、できあがっていく場合がある。

さて、できあがった作品を聞いて貰う場合には、印象深く心にとまるのは詞ではなくて曲である。詞は心に訴えかけるが、曲はリズム、メロデイの2つの要素から聞く人に届くから、やはり、詞よりは迫力がある。メロデイが人の心にとまったとき、人はその曲を覚えて歌うようになる。歌う人は詞、曲のいずれかが先に生まれようとも関係が無い。要は自分のその時の心境に会わせて歌うものである。そして独りの 作曲家について言えば、ヒット作品が生まれる確率は 1000曲に1曲の割合という難関 である。

歌われるか、闇に葬られるか、作曲家船村先生は日の目を見なかった歌の数々の供養をされたそうである。
その気持ちは分かる。生むには生んだが、育たない子供が圧倒的に多いからである。
作曲したが、歌われ無いままにおわった作品へのいとおしさである。自分でヒット作品は作れない。歌う人達によって ヒットするかしないかは,決められるからである。

題名はなんとつけたら良いか

2011年11月08日 | Weblog
題名はなんとつけたら良いか

姥捨てというのが実際あったのか、どうか知らないが、江戸時代には、特に飢饉の時には現実にあった様な気がする。
現代だってそうだ。ある老人ホームを見学したとき、成る程これが姥捨ての現代版かと納得した。そこで過疎の田舎を舞台に連想して、作詞してみた。

たそがれ 作詞曲 朱仙
1,
落ち葉舞い散る 細い路
里山権現    詣りたや
祭り囃子に   わらべうた
じじも長生きしすぎたの
白髪で ため息 つくばかり    

2,
裏山 あたり 眺めれば
陽は はやかげって  夜半の月
背中の孫や 子守歌
ばばも長生きしすぎたの
おうなのつぶやき 聞こえる

3,
灯りを消して  外見れば
陽は はや 沈んで一六夜の月
チラチラするは  初雪か
二人長生きし過ぎたの
諸行無常の 響き有り
                 
さてこの詞になんという題名を付けたら良いか。考えあぐねた挙げ句、黄昏とした。
人生の黄昏。これも良い。が詞のタイトルにはならない。あれこれ迷ったが、満足するものが見つからなかった。で、結局振り出しに戻って、たそがれ、にした。しかしこの題名は気にくわない。時間をおいてもっと考えよう。

生老病死

2011年11月07日 | Weblog
生老病死

大病と言うほどではないか、身体が全身だるくて,この夏は布団に身を横たえて、よく寝た。と言っても、睡眠がとれたのではない。身体を動かすことがたいそうだったので、布団に身を横たえたけだ。

何もすることがないから、天井を見上げながら,つくづく考えた。
無理をして病気を招いたのではない。普段健康には神経質くらい気を付けている。しかしどこがどう故障したのか判らないが、起きて歩こうとは思わない。第一歩くような元気もない。さしたる原因も分からず、と言うのが今回の病気なのだ。
素人考えでは怖いので、勿論医者に診て貰って、胸部のCTをとるように言われた。画像で見る限りどこも異常はみつから無かった。

人間生きている限り、病気は避けられない。と思ったとき釈迦の生老病死を思いだした。いわゆる四苦八苦の四苦である。言われるとおり、この四苦は人間の意思や努力の範囲を超えたものがある。どんなに抵抗を試みたところで、これらを避けることは出来ない。病んで床に伏せって、この当たり前の事に気付く様になった。
自分の意思を越えてる部分は、やはり自信を持って言えない。
古くから言い古されていることだが、生きているという前提には、生かされて、という事が隠れている。今回病気して、そのことに想いが至った。これって進歩?それとも気づくのが遅すぎたバカな人間? どうも後者だとおもう。

今の中国は一体何だ

2011年11月06日 | Weblog
今の中国は一体何だ

古くは、中国はアジアでは文明大国で、中華思想さえ持っていた。世界の中心は中国であると誇りと大国思想を持っていた。
なにしろアジアでは歴史の古い国で有り、世界にも通用する偉大な思想家が百出した。
その思想、特に封建思想は、何百年の歴史を持って、我が国の中心柱であった。孔子や孟子の思想は、特に徳川時代には、社会支配の精神的支柱ともなっていた。そしてこれらの教えは日本人によってより深くより広く極められて、日本社会の隅々まで行き渡っていた。中国に由来するこれらの思想が大きく変化したのは、太平洋戦争後のことで在る。アメリカの民主主義が流入して大きな影響を与えたが、それでも一旦生活に染みついた 儒教精神はそれなりに日本人の心に染みついている。
儒教精神を取り入れた先輩達はこれを今日に至るまで定着させたのである。それが現在の日本人の根本精神にもなっている。東日本大震災の時にむき出しになった日本人の精神的な品格の高さは世界中から称賛のまなざしで称えられた。
そのような思想の出所を探れば中国に行き着く。中国は昔はその名に恥じない文明国で日本からは多くの人が中国文化を求めて海を渡り、多くの文物や思想を持ち帰った。日本にとっては、お師匠さんの国で尊敬され敬われていた。中国に関しては戦前生まれの人なら多かれ少なかれこういう思いを持っている。

そういうものを基本にして、現代の中国を眺めると、経済成長に反して人心は地に落ちた
感がある。帝国主義で分割支配を受けた事に懲りたのか、軍備増強を図り、腕力で東アジアの支配権を握ろうとしているかのように見える。そしてその強引なやり方は周辺諸国と摩擦を起こし、顰蹙を買っている。大国ならば大国らしく振る舞ってこそ大国中国になるのに、やっていることがお粗末すぎる。
一方中国国内に目を向ければ、共産党一党独裁の共産主義というものは、こういうものかと、日本人がもつ共産主義国とはおおよそかけ離れた 実態がある。国内の経済格差を見れば直ぐ判る。

卑近な例を言うと、高速列車事故の対応といい、車にひかれた子供を誰も助けなかったり、子供でさえも誘拐して、売買の対象にしたり、人心の荒廃はここに極まりという感じを受ける。こんな国に支配されるようになったら、地獄を味わいのじゃないかとさえ思う。かってのあの素晴らしい哲学は一体どこに行ってしまったのであろうか。中国が日本に教えくれた礼節はどこへ行ったしまったのだろうか。

こういう状態ではどこからも尊敬されない拝金主義者の集まりの国家だと謗りを受けても仕方が無い。
中国よ。曽ての大国を取り戻して、世界から尊敬される国になれ。出よ。現代の孔子も孟子。そして世界にその品格でもって君臨して、世界をリードしてほしい。それでこそ大国というものだ。今のままでいくら金持ちになっても品格が劣れば笑いものになるだけだ。

福井原発

2011年11月05日 | Weblog
福井原発

関西電力が福井県にストレステストの結果を報告した。県はこのテストに不安を感じていて端的に言えばノーと言っている。

関西電力としては、福井県に13基原発を持ち、現在は4基のみ稼働。来年は全て止まる見込みだという。現実には福井県の原発で関西地方の電力の50%をまかなっていると言うから、再開しないときは、会社の死活問題に関わる様な危機を感じているのであろう。

提出されたストレステストは地元では不安視されている。それはそうだろう。福島の事故の知見がはいっていないままでは、不安を感じるのは尤もなことだ。
津波対策は11,4mの高さを想定していると言うが、大飯原発に近くには、活断層がありここで地震が発生すると、マグニチュード7,4クラスの地震だと想定されている。これではまた想定より大きい地震や津波が襲った場合、想定外と言うごまかしを使うつもりかも知れない。
確かに関電は国の線に沿って、テストには応じたが、それだけの話である。

ところで今回の事故に鑑みて、避難区域を10km圏内から30kmに拡大した。そうすると地元福井県だけでなく、京都府や滋賀県も圏内にかかるところが出てきた。
そこで京都府と滋賀県 は関西電力に対して協議会を持ちたいと提案した。これは当たり前の話で、10km圏内でも舞鶴市などでは一部入ってしまう。再開の条件は1,ストレステスト2,国も許可3,地元の自治体のOKがなればならないとなっているが、現状では、福井県のみが地元となっている。
滋賀県は琵琶湖の汚染を心配している。
もし福島のような事故があったら、最低に見積もっても琵琶湖汚染は避けられないし、
琵琶湖の水が汚染されれば、下流域1700万人の飲料水に影響が出る。

福島県には悪いが、これがもし福井県の原発事故であったなら、関西は一体どうなっていたことだろうか。思うだけでもぞっとする。

科学万能の考え方は間違い

2011年11月04日 | Weblog
科学万能の考え方は間違い

花瓶に生けた花が「こんな色がついて、こんな形になって、水を吸い上げって何日も生きている。これだけの生命力を持つというこんな小さな個体が。
これは人間が作ろうとも思ってもできない。科学技術でこのように作ろう思ったって絶対にできるものではない。人間は謙虚になって自分というものを自然の中においてなくてはいかん。
自然そのものが最も神秘な存在であり、しかも人間がその神秘な自然の一部として存在すると言うことはことは厳然たる事実である。」
とある人が書物に書いていた。

自然にはまだまだ人間の知恵が及ばない事がたくさんある。もうすでにあらゆる事を科学が解明し尽くした等とは到底言えない。もし全容解明がなされていたのなら、科学の進歩という言葉自身が間違っているしあり得ない。
科学の未解明分野というのか。それともそれを神の分野というのかは別にして、
おこごり高ぶった人間は時として、こういう事実を無視して、科学万能主義に陥っている。それが間違いであることに気がつかない。でも少し謙虚になって、考えて見たらこのような自明の理には直ぐ気がつくはずである。人間とはいい加減なものであることの自覚が大切である。

創作の力

2011年11月03日 | Weblog
創作の力

逆も言えるが、非現実科するのが創作である。
現実を非現実。すなわち夢や希望に置き換える。
その過程の中に世相が入り込む。時代の風や雰囲気が入り込む。
しかし流行や習慣から独立して、孤高のみちを歩むのがクリエーターの立場である。
追いかけるのではなく、逆にむこうをこちら側に引き寄せたり、こちらを向かせたりする。それが創作の力である。

願望で決まる

2011年11月02日 | Weblog
願望で決まる


物事の評価や決定は、論理の正確さや適切さでは決まらず、人々の願望で決まる。論理がいかに正しくともそれにはついていけないという心情が人間にはある。

行動を起こすのは論理だけではない。
どんなに矛盾に満ちていても、衝動が 情動が行動の原理になることもある。

特別な人を除いて、一般大衆の現状というのは、こういうことではなかろうか。