日々雑感

心に浮かんだこと何でも書いていく。

最後の色街飛田6-49

2013年01月17日 | Weblog
最後の色街飛田

最後の色街飛田

「「最後の色街飛田」という本貸してもらえませんか 」
「あの本ですか。人気があり、待ってもらわなければなりません。予約されますか。」
「予約すると何人ぐらい待たなければなりませんか」
今現在では168人ですね。半年ぐらい先になりますね。」
「へぇーそんなに人気があるのですか。とにかく予約しますよ。」

昨年7月に予約した本が1月になって手元に届いた。タイトルからして、自分の知らないエロがゴロゴロして面白いじゃないかと思って読み始めると、文章の切れが凄く、筆をとる私には文体研究させてもらうことになった。
文章は流れるようで、生き生きして描かれている。
人物との会話は新鮮で、イメージがはっきりと浮かび上がってくることに驚いた。
筆者は10年の歳月を要したらしいが、さもありなんで、なかなか細部まで詳しく描写されている。
身売りしている女の子の口をついて出た言葉が印象深い。
「人間は運の良いほうに生まれるか、運の悪い方に生まれるかだ。」
もう一つの証言は、人間というものについて考えさせられる。
若い女の子の体をあめとむちで稼がしていた女経営者が言うには
「自分もそんなにいい人間ではないが、仏に近づきたいし、生きている間に仏になりたい。世の中につくして、良い人生を送りたい。徳を積むという生き方をしたい」と心情を吐露している。

世間でもたれている悪いイメージの搾取の鬼みたいな職業の裏返しやコンプレックスを上手に飾るセリフだと受け取る向きもあろうが、善悪、貴賎を含めて人間とは誰でもこういう面を持っているのではないだろうか。
そしてこの思いが、現実の場面で良い結果を生み出して、初めて人は信頼をかち得ることができるようになるだろう。

最初はどんな内容のルポか、とエロティックな場面を想定していたが、筆者の筆さばきの巧みさと、精細さに圧倒されて最後まで襟を正して読むことになった。先約の168人はどんな風に読んでどんな感想を持ったかは知らないが、僕にとっては力を入れて精読するに値する本だった。




テロ

2013年01月16日 | Weblog
テロ

中東では、自爆テロが大流行である。
自爆を決行するのは、イスラム過激派の人達で、イスラム教が、ジハードといって自爆テロを聖戦としているところから、 殺りくの応酬が続く。
いずれにせよ、テロのバック元になっているのが宗教だとすれば、宗教は一体何のためにあるのか。

聖戦と称して対立する考え方を、テロによってやっつけるという理屈のどこに正当性があるのであろうか。
特に目立つのはアフガニスタンとパキスタンである。

宗教をバックボーにした聖戦でお互いを殺戮するというのは、神の名において許されないことではなかろうか。

それを人間が勝手に解釈して聖戦のためなら殺人も許されるというのは、そういう土壌に生まれついていない僕には、理解が出来ない。
僕の思いとは全く関係なく、今日この時も、テロによって、人が何人か死んでいく。特にイスラム教信者に多いところを見ると、この宗教には問題があある。アラーの他に神なしとする考え方が問題だ。






稼働しないのに多額の利益が

2013年01月15日 | Weblog

稼働しないのに多額の利益が

現在日本の原発は大飯を除いて止まっている。日本原電の原発も止まっている。稼働してないのに何百億単位の利益がでるというのはどう考えても不合理だ。どうしてこんな事が起こるのか。それは仕組みがおかしいからである。
もとはといえば,身近にいえば一般家庭の支払う 電力料金の中に組み込まれて利益に当たる部分までも電力使用者が負担しているのである。 何かおかしくはないか?誰だってそう思うだろう。
働かないのに給料を貰うのと同じじゃないか。どうしてその分値下げをしろという不満の声が上がらないのだろうか。政治家が何故庶民の声を代弁できないのか。この国の仕組みの何かがおかしい 。

雪の成人式

2013年01月14日 | Weblog
雪の成人式

女性たちは和服にボアーショールと言う晴れ姿で式場に臨んでいた。
テレビのリポーターが、雪を踏み踏み急ぐ女性にインタビューをしていたが、雪のため足場が悪く、滅多にはかない足袋が汚れてしまったと泣き言を言っていた人もいた。
足袋が雪水を含むと足元が気持ち悪くて気の毒だ。

それにつけても思い出すのは、東北大震災当日の気温の低さである。
私の記憶では確かマイナス5度だった。海水にずぶ濡れになり、その上に外気がマイナス5度とはいったいどんなに寒かったことだろうと思うと身震いがする。

人の一生は明日の見えない手探り状態だから、何が起こってくるのか知れたものではない。

今日の新成人たちはこの大雪に迷惑顔をしながらも、成人式を寿いでいたのは、こんな晴れやかな日も一生に1度は必ず来るものだと、はるか彼方に過ぎ去った自分の成人式を思い出したことだった。



テロ

2013年01月14日 | Weblog
テロ

中東では、自爆テロが大流行である。
自爆を決行するのは、イスラム過激派の人達で、イスラム教が、ジハードといって自爆テロを聖戦としているところから、 殺りくの応酬が続く。
いずれにせよ、テロのバック元になっているのが宗教だとすれば、宗教は一体何のためにあるのか。

聖戦と称して対立する考え方を、テロによってやっつけるという理屈のどこに正当性があるのであろうか。
特に目立つのはアフガニスタンとパキスタンである。

宗教をバックボーにした聖戦でお互いを殺戮するというのは、神の名において許されないことではなかろうか。

それを人間が勝手に解釈して聖戦のためなら殺人も許されるというのは、そういう土壌に生まれついていない僕には、理解が出来ない。
僕の思いとは全く関係なく、今日この時も、テロによって、人が何人か死んでいく。特にイスラム教信者に多いところを見ると、この宗教には問題があある。アラーの他に神なしとする考え方が問題だ。






イラクの自爆テロ



日本の特攻隊

人生の味

2013年01月12日 | Weblog
人生の味

あれから何回も、あなたの写真を見ました。とにかくあなたは幸せそうに見えます。
満面に微笑をたたえて命の華を咲かせている。
そうだ。人生は喜びが多い方がいいに決まっている。

お釈迦様は人生の真実を、苦だと悟った。生老病死のほかに八苦がある
満面に微笑ををたたいている、あなただってその内面には、苦があるに違いない。
当たり前だ。幸せだけしかないというような人生はあり得ない。

砂糖ばかりなめている人に、砂糖の甘さをわからない。甘さはその対極にある塩のからさを知ってわかるのだ。
人生は苦と楽がコインの表裏のをようになっている。それが人生の味というものだし、人生そのものだ。

ベストミックス

2013年01月11日 | Weblog
ベストミックス

原発を将来に向かって0にしていくという大方針の下に、ベストミックスを考えると言うのなら、私は納得する。
しかしベストミックスの中に原発を入れるというのであれば、ベストミックスは単なる隠れ蓑にしかすぎない。
一番恐れるのは、原子力がまだ人間のコントロール下に入っていない、というである。
人間のコントロール下になければ、いざ事故が起こったときに、どうしようもないからだ。これほど怖いことがない。福島事故で懲りたはずだ。

安全管理万全を期すというが、人間のやることだ。どこかに抜けたところがある。人間の油断も、予期せぬ機器の故障もあるだろう。それはチェルノブイリやスリーマイル島や福島の事故を考えたらわかることである。
原子力抜きの水力発電、火力発電、風力発電、太陽光発電、などを発電源として使うと同時に、電力を使う側も徹底した節電、省電力を行い、さらに発電、送電の分離などで一者独占体制を取り壊して、新規参入をすることでコストダウンを図れば、電気料金をそんなにあげなくてもいいのではないか。
ドイツでは20年代に原発をゼロにするという計画が着々と進んでいる。
日本もドイツを見習うべきではないか。


十日戎6-50

2013年01月10日 | Weblog
十日戎

3日で稼いで、後の362日寝て暮らすわけでもなかろうが、
えべっさんは文字通り福の神である。三が日で投げ入れられる賽銭はほぼ一定して、銀行員が出張してきて、さい銭勘定すると言うからには何千万円ということになるだろう。
伏見さんも稼ぐが、えべっさんもよう稼ぐ。
大阪に住んでいる僕は、今宮えびすが本家かと思っていたが、西宮えびすがどうも本家らしい。

昨日は鹿児島でとれた大マグロの奉納があり、冷凍したマグロに、硬貨を貼り付けていた。曰く。「金が身に付く」。
人々は何かを担いでは、口実を作る。まことに愉快な話だ。
さて今宮戎に話を戻すと、賽銭箱ならぬ大きな布で囲った賽銭池には硬貨が投げられる音が絶えることがない。

僕は銀色のエビをその池に投げ入れた。今年は大枚が財布に入りきれないほど降って湧いてこないものかなぁと早速計算した。
賽銭投入後、いただければ御利益になるが、果たして???。
そこで裏側に回り直径1メートルほどもある鉄板を2度叩いて念を押した。耳の遠いと言われるえべっさんもこのとはしっかり聞いたことだろう。そうひとり合点して早々に神社を出た。
どんな鯛を釣らせてくれるのか楽しみである。



大人の対応

2013年01月09日 | Weblog
大人の対応

何かのトラブルが起こると、大人の対応、が声高に叫ばれる。
そこで考える。
「大人の対応」の中身は一体何なのか。冷静に長期的立場に立ってと言う意味かとも思うが常に相手の出方を見てということになる。
相手に「大人の対応」が通じない場合は一体どうなるのか。
こちらが「大人の対応」をすれば相手はそれを弱腰と受け取ってさらに要求ラインを上げて対応してくる。
こうなると喧嘩腰でものを言うか、さもなくば相手の痛いところを突いて無言のうちに実行することになる。
いずれにせよ「大人の対応」が安っぽく見られない、つまり相手が何かを実行するとその跳ね返りで自分の首を絞めることになることを悟らせる必要がある。
例えば韓国に対してある種の金融優遇措置をとっていたが、彼らが実際に困ってもしばらくは助けないでほっておく。つまり冷淡な態度をとることが不可欠だ。そしてある程度「目には目を歯には歯を」
を地で行く方が安っぽく見られないから良いと思う。




カラオケ

2013年01月07日 | Weblog
カラオケ

下火だといえども、まだまだカラオケは、はやっている。
カラオケに合わせて演歌を歌う光景は、スナックや、クラブ、バーなどを通り越して、一般家庭にまで入ってきている。
機器の手軽さもさることながら、ジャリどもの学芸会しか放送しないテレビに、愛想つかした大人たちが、自分たちの歌を取り戻そうと自宅でカラオケを歌うようになってきたのは、まことにうれしいことである。
歌を愛する者の1人として「みんなが歌手」という現象は、まことに喜ばしいことだと思っている。その時々の気分の流れに沿って、思い思いの感情を歌に託すというのは実にすばらしいことである。
やっと歌が本来の使命を果たすようになった感じさえする。

歌の上手、下手は言うべきではない。要は歌を歌う心なのである。
うれしいにつけ、悲しいにつけ、人は自分のその時の気分で、歌を歌い今日のうさを晴らし、明日への希望をつないでいる。
上手は上手なりに、下手は下手なりの、歌を歌うことによって命の流れの中に新しい息吹を吹き込めるのであれば、それでよいではないか。
他人に聞かせる歌は、先天的に能力の問題もあって、万人が等しくできるというものではないが、自分が楽しむ分には難しい事は何も言う必要がない。
今仮に作曲する側から、、歌が上手と言うのはどういう条件を言うのであろうか。私なりにまとめて箇条書きにしてみると、次のような条件を満たす人のことを言うのではなかろうかと思う。
歌い手の雰囲気が良いこと
聞く人の心に迫ってくる、感情の表現。
音程、リズム、などがしっかりしていて、歌心があること。
天賦の才能に恵まれ、たゆまず磨きをかける努力ができる人。
ただし断っておくが以上の条件は、相互に関連があり、各々の条件が独立して、よくも悪くも、総合的に歌に統合された時に初めて、人の耳と心によく聴こえるのである。




地獄行き6-50

2013年01月06日 | Weblog
地獄行き

だいぶ昔のことである。
奈良の薬師寺で高田好胤氏の講演を聴きにいった。
一番人気の高い地獄と言うところを、スライドで見せる日だった。
昔の人が書いた地獄模様をスライドにして、それを講堂に貼られた、まくいっぱいに映しながら高田師は長い竿の先で一つ一つ指し示し説明された。
スライドが終わると再び解説をされて、最後にこう言われた。
「本日お参りの方も大半が地獄行きだろうと思う。かく言う私が真っ先に旗持って地獄へ行くことだろう。だから皆さん安心なさい。」
私は人間というものは、なんと罪深いものだろう。仏の教えを説き、薬師三尊に懺悔とお経を供えて、一生を捧げられ、娑婆世界の俗人を教化することに、自分のすべてを捧げた人にして地獄行きとは。」と嘆いた。

日頃の言動をもってすれば、地獄行きは避けがたいと思われる私であるが、あんな恐ろしい地獄行きは、まっぴら御免である。そこで考えた。
高田師が東向いて旗を持って走れば、私は西向いて全力疾走しようと。
しかし、、、、、、と私は途中で考えた。
高田氏が真っ先に地獄に行くと断言されたのは、現世の彼の行いの結果としての地獄行きではなくて、誰よりも早く地獄へ行くことによって、彼のあとに続いた地獄行きの亡者共を、一人残らず師の功徳によって地獄から救ってやるという、固い決意の表明なのかもしれない。
もしそうだとすれば、やはり1人でまごまごするよりは、腹を決めて師の後について走るか。そのほうがひょっとすると地獄行きをすくわれるのかもしれない。
ここまで考えてはみたものの、私にはまだ確信が持てない。
今度師に巡り会えたら、その時はとくと師の腹の内を聞いて、その後師に同行するか、反対の方向目指して走るかを決めようと思う。
地獄はあんな恐ろしいところだというのであれば、地獄行きは避けたいものである。



芸術家

2013年01月05日 | Weblog
芸術家

美を追求することが全てで、それが人生の最高善であり、究極の目標だと考えて行動している芸術家は、それがゆえに、その思考と行動は日常生活の基本になっている常識を乗り越えて、自由奔放に生きることにある。
常識的な日常生活を過ごしている一般人は、日々の安寧の中に、安らかに生を終えていくケースが多いが、自由奔放に生きる人は、良い意味でも、悪い意味でも、波瀾万丈である。
そのために常識人から見れば、その生き方は芝居を見ているようで面白い。常識外れの大きさに比例するかのごとく、面白さは倍加するが、それは観客の言うセリフで、自由意志で、とは言うものの、芸術家にとっては必死の思いでの行動である。

一般常識人の経験しないような、非常識な世界に住んで、人生の宝物を探し当てて手にするか、それとも、大多数が住んでいる常識の世界に住んで安穏に暮らすか、そこらが人生大きく分かれるところである。
あなただったら、芸術家人生を目指すか、それとも良識人 人生を目指すか。?
ただ1つ言える事は奔放な生き方は芸術家の業である。
常識人がなしないような無茶をするから、後世ではドラマになりえても、もし一家の主がそれをやれば、主婦が、息子が、娘がいたとしたらその家庭はむちゃくちゃになる事はまず間違いのないことである。



オン、ザ、スポット

2013年01月04日 | Weblog
オン、ザ、スポット

極々簡単なことである。その場で、すぐメモすれば、良いだけの話だ。そんな簡単な事が出来ない。横着をかますからである。

頭の中に、ふと浮かんでは瞬時にきえる、メロデーや、フレーズや、アイディア。今までどれほど逃してきたことか。頭のなかのページくってみるけれど、脳には刻み込まれていないらしく、一旦見逃すと、見当たらない。

一期一会は瞬間である。意識せず何でも無いときに、ふと浮かぶ物は神様の贈り物だ。
アイディアが思い浮かぶまで、顔をしかめながら、うんうん頭を絞っている。
神様がくれるものはすぐに書き留める。この原則をしっかり守りたい。
オン、ザ、スポット。その場で実行。


第二の安全神話

2013年01月03日 | Weblog
第二の安全神話

自民党は原発を望まない国民感情を無視して、またぞろ原発志向の方針を打ち出している。福島ではまだ30万人の人が仮住まいと言う現実があるのに。
それより現在の悲劇を招いた元凶は自民党であったと反省がない。
事故の最中に原発擁護論をとなえた現閣僚もいた。
問題は福島事故を踏まえて、安全基準が完成されていないのに、また核燃料の後処理については何の方法も示されていない。「どうしていいのか、まだ解決策が見つかっていないようだ」
こういうを重大な問題に答えることもなく、新しい原発は四十年前より格段に安全性が向上している、とか、あの大地震に、「女川、」「福島第二原発」は安全だったという。ただ1部の勢力がそう思っているに過ぎない。
これは単にラッキーと言うべきもので科学的に安全が証明されたわけでもない。
そんなことで、まかり間違えれば国を滅ぼす危険性のある危なっかしい原発を増設する必要がどこにあろうか。
現段階では原子力はまだ人間のコントロールの効かないところにある。

求めるべきは基本政策として、脱原発を推進して新しいエネルギーの転換や、節電、省電に努め、現在の電力業界に新規参入を認めるなどの方策を定着させるほうが、よほど国民の安全を担保したことになる。
もう今から作られる第二安全神話には時がたってもだまされないぞ。
科学者でも専門家でもない政治家が、原子力エネルギー利用について、
政治的に安全宣言するとはとんでもないことだ。



両雄並び立たず

2013年01月02日 | Weblog
両雄並び立たず

両雄並び立たずと言うのは、覇権者たちだけのことではない。
身近な事を言えば、夫婦関係がそうである。
夫、妻いずれの側がリーダーシップをとって、一方がそれに従うというのが円満な人間関係を作る基本である。
両方ともが自己主張を引っ込めず、自分の立場を譲らないなら、対立するのみである。
どちらか一方が譲ればことはスムーズに行く。もちろん全てのことに、常に一方がリーダーシップをとる必要は無い。ことと場合によってどちらがリーダーシップを握ろうと、それはケースバイケースである。

ところが意地が邪魔してつっぱりあうことがよくある。そういう時は頭を冷やして、元に立ち返る、すなわち、両雄並び立たず、に戻ることである。
現代中国にその好例を見るならば、毛沢東と周恩来のコンビであろう。