日々雑感

心に浮かんだこと何でも書いていく。

ビルの谷間

2013年10月15日 | Weblog
ビルの谷間

しばらくぶりに夜の大阪駅前のビル群の谷間を歩いた。どちらを見上げても高い高い高層ビルで圧倒された。
ビルが主役で人間はゴマ粒だ。
何か変な気分になった。人間が主役でという感じがどこかに吹き飛んでいるのだ。

時代が進むにつれて都市化は進むだろう。いわゆる街はビル群に囲まれて、その中で人間が生きることになる。
ルソーは自然に帰れ」といったそれは特に精神面のあり方を言ったものだが、こんなビル群に囲まれていると心も体も自然と切り離される。

人間には自然は不可欠だ。人間は自然の1部なのである。
ビルの谷間に自然と切り離されて生活することなど僕にはできない。
そんな未来都市が果たして、人類の幸福を約束するのであろうか。

3連休

2013年10月14日 | Weblog
3連休

10月の3連休は好天に恵まれ、秋日和と言うには暑すぎる。
孫を連れて釣り堀に遊びに行った。
生まれて初めて竿を手にする孫だが2匹も魚を釣った。
魚はフナだと思うが金魚のように真っ赤である 。

園内は家族連れで池の周りは竿がびっしり並んでいる。そしてあちらこちらで魚が釣れている。

近場だし絶好の日和だし、大勢の人が竿を垂れるのは当然であるが、
このような風景の中に人間の幸せの時間が充満していることに気がついてこれを満喫した。
こちらは釣りといっても遊びだが魚のほうは餌を求めてだまされて釣りあげられる。

魚が食いついて釣れた時に竿から伝わってくるあのびくびくとした感触がたまらない。釣りの感触とはまさにこのびくびくである。

約2時間ほどだが孫と釣りを楽しんだ 。釣れた魚はバケツに水を入れていかしておいた。帰るときにはその魚をもとの池に戻したが、
何とも言えない行楽最後の日の楽しい思い出が出来た。

高三生殺人事件

2013年10月13日 | Weblog
高三生殺人事件

学校の教頭から杉並署に通報したが現場は三鷹署管轄なんでそのまま放置された。事件の起こった日の朝被害者と両親と3人で三鷹署に切羽詰まって相談に行った。それにもかかわらず警察はパトロールすることもなくまた被害者を避難させることもなく、事件は起きてしまった。
警察は言い分もあろうが、殺人事件を防ぐことが出来なかったという責任を負った。この事件は誰が見ても被害者としてはできる限りのことをしていると思われる。要は警察の対応がまずかったとしか言い様がない。
言い方変えれば人災である。警察の対応のまずさから人一人の尊い命が失われたのである。
今回の事件の経過を見てみると三鷹署の判断や行動には切迫感という物が全然感じられない。人命を守り安全を確保することが至上命題の警察においてこういう対応が許されすのだろうか。当然責任を追及されなければならない。被害者に対してはお気の毒にど同情の気持ちが湧いてくる
最後にご冥福を祈る

お菊井戸1

2013年10月11日 | Weblog
 お菊井戸

 姫路城の備前門をくぐり中に入ると、天守閣の前の広場・備前丸に出る。
そこから天守閣に登れるが、僕はそちらの方に行かないで、門の前の下り坂を下りて行った。

腹切り丸をやりすごし、リの門を潜ってだらだら坂を下っていくと、上山里と呼ばれる広場に出る。この広場は備前丸のような大きさではなくて、こじんまりしている。その中央付近に、お菊の井戸がある。直径が2mはあろうか。周囲は石柱の柵で囲まれているが、その柵は頑丈なもので、表面には井戸に落ちないように金網のふたがしてある。

立て札には 1500年ごろ、播州更屋敷物語とは、お家のっとりの企てを女中お菊が知り、城主の難を救ったが、家老とその一味はそれを恨み、家宝の皿一枚を隠し、お菊を責め殺し、井戸に投げ込んだという趣旨のことがかかれていた。

私なりに解釈を加えて、もう一度繰り返すと、お菊という女性が大切な皿を割ったとか、無くしたとか言う罪に問われて、実際には無実の身であるにもかかわらず、殺されてこの井戸に投げ込まれ、その後、お菊の怨念が亡霊となって夜なよな現れて、井戸の中から亡霊が「お皿が一枚……二枚……」「九枚……一枚足りない……」と恨めしげな声で皿を数えたと言うのである。

立て札を読んで、物語のあらすじを頭に入れて、井戸の中を見ると確かに気味が悪い気がする。

中をのぞくと、真っ暗で底は見えない。おそらく10m以上はあるのでは無かろうか。
水が見えないから、井戸とは名ばかりで、いざというときにどこかに逃げる逃げ道に使われたのではないかとも思った。井戸の途中からまた横につながる穴が掘られているみたいな感じがした。井戸の縁は掘ったままの土がむき出しで、これが掘られた当時の様子を思い起こさせた。暗くて見えない底を じーっと眺めていると、何故が胸が苦しくなってきた。

この井戸を掘った人達は、ここがお菊の井戸として、後世に悲劇の現場として、名を残すなんて事は、想像だにしなかったのではないか。
どこにでもありそうな井戸が、かくも有名になったには、ここを舞台にして何か事故や事件が、井戸そのものに、まとわりついた事によるものだ。事の真偽は別にして、江戸時代には、これらの話がいろいろ脚色されて、怪談として巷間に伝えられ、浄瑠璃・歌舞伎の題材とされて、当時の大衆の関心を引き、涙を誘ったのだろう。これが怪談として、今に伝わっている。

おしんの試写会にて

2013年10月10日 | Weblog
おしんの試写会にて

明治40年代の日本の農村風景や家族状況はおしんのようなものであった。
おしんの人間的なりっぱさが際立っていて劣悪な環境に立ち向かう姿に涙し、感動する。
「おしん。ちからいっぱい生きるのだぞ」という暗黙の勇気づけを視聴者は自分に置き換えても考えたことだろう。
それはテレビの視聴率の高さに現れている。

そしてこのドラマは国内にとどまらず全世界68カ国に取り上げられた。特にタイやイランの視聴率は80%だったという 。

困難な状況と立ち向かっていくさわやかな少女の気力意志力には感動を覚えないわけにはいかない。
そしてその思いは国別や性別を超えて、人類共通のものであり、我々は彼女の姿に照らして自分を見る。そして大きく励まされ共感させられる。
そこに「映画おしん」の本質を見ることができる 。

周波数特性

2013年10月08日 | Weblog
周波数特性

若い頃は音質を表す周波数をに凝ったものとだ。
今なら22kヘルツなどステレオでも軽がるとと出るが、僕らの時代は11kヘルツが精一杯で1kヘルツかかると当時の金で1万円アップした。

当時も今もそうだが高音をキンキンと響かせて喜ぶクラッシック系と低音をボンボン聞かせたポップス系がある。

僕は若いときの癖が抜け切らず今でも低音を響かせるより高音が綺麗に聴こえる方が好きだ。しかし年齢にふさわしい分聴力が落ちてくると高音はカットされてしまうらしく中低音がよく耳に入る。

テレビでは時々オーケストラ演奏を見るがストリングスの部分が弱々しく耳に響く。もっと強い音が鳴っているはずだと思うが、実際には聴力低下をしているから綺麗には聞こえない。
もっとも美しく輝く高音を失ったおかげで演奏を聴く喜びは半減したが、かといってドラムスやベースの低音がいやに耳につくこともない。

やはりいちど耳鼻科で高音は何Hz以上が聞こえないかチェックを受けてこよう。

医者は出身大学より人物を

2013年10月07日 | Weblog
医者は出身大学より人物を

医者は特に臨床医にとって必要なものは愛情を持って誠心誠意常に患者の病状の回復のために迅速に適切な処置を執り、なんとして直そうと言う信念と温かい思いやりが大切である。

大学がどこでだろうがそんな事はあまり関係がない自分の実力に入っあった医学部に入学することが大切である。医者にとってどの医者が親切で良いとは出身大学によって評価されるのではなく患者自身が決める。

医療に携わるものに最も大切なのは学力ではなく、誰からも愛される人間性ではないだろうか。
他人の喜びを自分の喜びとする利他の精神を持つのが本当の良い医者である。

禁じられた遊び

2013年10月06日 | Weblog
禁じられた遊び

主役は5歳のポーレっトと11歳のミシェルである 。
ナチスの空襲によって両親を失ったポーレットとミシェルともに教会から十字架を盗んでくる。
そのことが2人の遊びになっているが孤児になったポートレットの悲しみは最初から最後まで抜けきらなかった。
あのが映画を観た感想である。

とりわけこの映画全編貫いて奏でられるギター曲「禁じられた遊び」
はナルシーおソ・イエペスのギター演奏で、この映画の内容にマッチしていると言うよりは場面がこの曲の素晴らしさを浮き出させて世界名曲の1つになっている。根底には反戦思想があるが表だって声高に反戦を叫ばなくても十分に伝わる。
ルネ・クレマン監督のこの映画は名画の1つに違いないが、それ以上にナルシーソ・イエペス の「禁じられた遊び」 のギター演奏が素晴らしかった。ギター名曲「禁じられた遊び」はギターリストだったらいちどは弾いてみたい曲である。

脱原発

2013年10月05日 | Weblog
脱原発

小泉元首相は脱原発を図るべきだ .これは総理大臣が決断すれば良い。
と発言した。カレが気にしている事は核のゴミの終末処理の道筋がついていないのに原子力発電を再稼働させれば核のゴミが増すばかりではないかという指摘である。

人間がコントロールできない原子力の終末処理未完の状態で、原発を再稼働することにより生じる危険性や膨大な費用を少しでも少なくすることが必要である。そしてそれは総理の決断いかんに関わる。

原発を動かすことのメリットは例えば
1,海外へ原発およびその関連技術を輸出すること
2,国内の電力供給を安定的に確保すること
3,地元との関係
等々でいろいろな、利害が絡みながら、それなりのメリットはある。

しかし小泉元首相が主張するように終末処理が定まらないのに核のゴミを増やすことになる再稼働が国民の為になる事であろうか。
私は原発にもいろいろメリットがあるとは思うんだが、
人間の力でコントロールできない原子力というのは、危険が多すぎる。

現に福島県民では多くの人が悲しみや苦しみやにうちひしがれ、生活に困っている。これは金額で表せない膨大な損失である。

金額で表せない様な損失を作るような事は決して許されることでは無い。だから基本的方向としては脱原発で、それに関わる方策をいろいろ早急に研究実施すべきである。送電発電の分離、新しいエネルギーによる発電
などまだまだ追求していかなければならないことがたくさんある。。それに反比例して脱原発が進行することを願って止まない 。

村田さん

2013年10月04日 | Weblog
村田さん

横浜線中山駅近くの踏切で老人を助けようとした村田さん40歳は車の助手席から飛び出して線路上にいる老人を線路の間に入れた。
老人は怪我だけですんだが、彼を救った村田さんはかえらぬ人になってしまった。なんと悲しい気の毒な話だろうか。

人々は彼女の事自己犠牲の精神に涙を流して、現場には彼女を悼む人によって花が手向けられ、手を合わせる人が後を絶たない。

_警察庁が村田さんのこの犠牲精神に対して人命救助に顕著な功労があったとして警察協力賞を贈ることにした。

運転席にいたお父さんは助手席に彼女が乗っていた車のドアーを開けて、飛び出し、そして踏切の中に入ってかえなぬ人になったのを目前にしながら、娘が失った動揺も表面に出さず、淡々と娘の優しさを語っていた。
心の中ではどんなにか悲しんでいたことだろう。このお父さんは立派すぎる。
彼女は今回の事故だけに人間としての優しさを表しただけでは無い。もともと生まれつきで正義感の強い性格で酔っ払って倒れた人を見かけるとその住所調べて家庭に連絡したと言うような優しい性格の人だった。

思い出すのは新大久保の駅で同じように他人を救おうとして自分の命を落とし犠牲になった韓国の李さんがいた。これは10年ほど昔の話だがまだ昨日のように思い出される。国籍とか性別とかそういうものに関係なく善意と勇気と自己犠牲を持った人は数少ないがやはりこの世にいるのだ。

_また先日淀川で溺れた少年を助けた厳さんも自己犠牲をいとわない正義感が強い人だった。彼の場合は溺れた子供が助かり彼も助かったから本当にハッピーエンドで終わった。

いくら自己犠牲とか正義感とか言っても本人が帰らない人になると言うのはなんと悲しいことだろう。僕だって近くだったら花や線香思って彼女の霊を慰めたい。

今はただ心から彼女のご冥福を祈るとと同時に、お父さんも心から慰めたいし、賞賛したい。

鑑真和上

2013年10月03日 | Weblog
鑑真和上

日本民族の国民レベルは礼節正しい品格のあるものだ。この道徳や倫理の根本思想は全部大陸すなわち中国や朝鮮から移入されそれが根底にあって今日の日本国民の礼節がある。

それも中国の儒教を中心とした古代聖人の教えが基になっている。特に江戸時代には孔子や孟子の教えは官学となって日本に根付いた。エリート社会すなわち武士階級はこれらの学問の素養は必須事項であった。

英語が伝わる前は中国語が中心で、僕らは漢文と英語と同時に学んだ。
文化的には長年中国文化の影響から抜け出す事は不可能であった。言い方は悪いが中国思想に支配されていたのだ。だがそれは当然のこととして抵抗なく受け入れられて今日がある。

卑近な例は鑑真和上である。彼は授戒によって日本人に本物の仏教を教え日本に骨を埋めた。
日本人的感覚では日中関係がどのぐらい悪化しようが、中国人の鑑真に対する日本人の尊崇の念は変わらない。

こういうことを思うにつけ「中国よ。日本から尊敬される国に立ち戻ってほしい。」と言いたい。

島のひとつやふたつの支配をめぐって支配権争奪戦を始めるようなちっちゃな事はさておいて江戸時代のように日本人が中国に学び教えを受けるような哲学を提案してほしいものだ。

経済競争をやる限り両国関係はあくまでライバル関係にしかならない。
両国の国民の頭の中を変えてしまうような思想を中国に求めるのは不可能なのだろうか。

おんぶ

2013年10月02日 | Weblog
おんぶ

ひとりで歩けるようになるまで、子供は母の背中におんぶされて育ったものだ。五木の子守唄じゃないけれど、昔は子守女というのがいて子供を背中におんぶして子守していた。

大人の背中は暖かくて、背負われると気持ちが良くてすぐウトウトとしたものだ。この年になっても母の背中のぬくもは、居心地のいいものの代表的なものとして思い出す。
子供を背中におんぶすると両手が使えるので炊事も洗濯もできた。
だから子守といえば大人の背中だった。

近頃の子育てママの様子は背中ではなくて前に子供を抱いている格好だ。これが流行かもしれないけれど、万一ママが転んだときに
子供の頭が道路にぶつかりやしないかと心配する。
人間は前に向かって転ぶ事はあっても仰向けに転ぶ事は滅多にない。背中に背負われている子どもにとっては、それだけ安全性がますのである。

どうして現代のママはダッコちゃんスタイルでおんぶをしないのだろう。子育ては見かけとか何とかではなくて、安全が第一である。何かあったときにどうして子供を守るか。と言う点がいちばん大切である。

今日街で見かけた前抱きの子供の姿を見て、もし母親が転んだとすれば
1番被害を受けるのは子供ではないか。どうしてそういう危険なことをするのか。ファッションだかなんだか知らないが、よくわからない。
これではネンネコが売れるはずがない。

掛け軸

2013年10月01日 | Weblog
掛け軸

軸は。2,3本持っているが、悲しいかな床の間のない団地なので掛け軸をかける場所があるようには作られていない。。どこか適当なところに釘を打ち付けて、つるすという手もあるが、それだけ住居面積が狭くなるので、いつもキリ箱に入れてしまったままである。
20年もたつと桐箱もほこりで汚れてきたので売りに出すことに決めた
。書画骨董などの類は全く縁のない存在だからどこで処分したらいいのか分からない

人づてを頼って預かってもらった。もちろん値段がついたら売ってもらうことが前提である。軸とは言え四国八十八箇所の集印のものや著名人の作品ではあるが、百貨店の定価の10分の1ぐらいの値段しかつかないらしい。作者に気の毒だけれども、宝の持ち腐れになってしまって処分する方がマシだ。そういう結論になった。