日々雑感

心に浮かんだこと何でも書いていく。

ゴーカン

2017年12月18日 | Weblog
ゴーカン

何事もなく、初めて海外旅行する女の子、2人をスリウオン通りのマノーラホテルに送り届けて、ほっとした。

昨夜の徹夜に加えて、今日はツアーコンダクター、ガイドをした。めったに出来ない経験だから積極的にかって出た。

それにしてもよく歩いたものぞ。30度を越す熱さの中で17000歩近くも歩いた

ので、さすがに疲れた。やっとの思いでゲストハウスにたどり着くと、

今朝がた出会った学生の質問ぜめにあった。

「おじさん、あの2人の女の子は何ですか。」

「ああ、あの子たちか。あれは俺の彼女だよ。」

「ウソ、おじさんは惚れているかも知れないが、2人は冷めていたよ。」

「そんなことどうして判る?」

「痩せた方の女が俺に流し目をしたよ」

「お前、しょってるな」

という会話から始まって、今朝方のゴーカンの話になった。ウソかまことか、そんな

ことどうでもよい。ゴーカンなどという穏やかでない言葉を男が使うとは穏やかでない。

男がゴーカンされたというからには、相手はきっと男に違いないと僕は思ったが、

念のため今朝がたの話に話題をむけた。

「お前、本当に男にゴーカンされたのか。俺もあちこち旅するが、男が

男にゴーカンされたという話は聞いたことがない。女がゴーカンされたという話はよく聞くがね。」

「いやいや、女にやられました。何人もの女にです。」

「それ本当?。そいつは面白い。」

蛙が蛇を飲み込んだ類いの話で面白い。僕は膝を乗り出した。

「実はベトナムと中国の国境の辺地で暗闇からいきなり手が出て来て、小屋に引

きずり込まれました。 灯火でみると30歳前後の女が6人ばかり居て、そのうちの

2人が俺を捕まえて裸にして、上に乗って来たのです。助けてと言ったがどうにも

ならず、2人まではこなしたが後の4人はとてもこなし切れなかった。」

「そりゃ面白い。金を払わなければならないのにタダとはお前ついているじゃないか。そんな話なら俺も1口乗りたいところだ。」

「おじさん、そこが違うんですよ。女どもはいうには、お前は私たち女を抱いたのだ

から金を払えというのです。押しかけ女房的に1方的に仕掛けておいて金を払えはないですよ。

これはゴーカンされたも同じですよ。確かに2人に対しては金を払ってもいいけ

れど連続で乗って来た女達には金なんかはらえませんし、払う必要はない。」

「それはそうだ。要するに相手の女達は君の体がほしかったのではなくて、金が

目的だったんだよ。何もしないで金を奪うと強盗になるから申し訳程度に女体を

すりよせて来たというのが真相ではないか。つまり強制買春をさせられたというこ

とだ。めったに出来ない経験をしたじゃないか。俺もお前のまねをしてみたいよ」

「それなら教えましょうか」

「何を」

「女の値段です」

「ホー、面白いね。教えてくれ」

「香港から入って中国、ラオス、ベトナム、カンボジャ、タイと回って来て日付と値段

表をきっちり作って来たから、それを見ながら教えます」

「そいつはありがたい。コピーできんのか」

「やめてくださいよ。そこまではしたくない。」

「判った。じゃ言ってくれ。ところでどこの女が一番よかったか」

「カンボジャですよ。70通りを北の方へ行ったら100メーターほど道の両側に

置屋があるんです。」

「へー、それは壮観だ。それで、」

「大体外人プライスは5$です。皆擦れてないからかわいいですよ。」

「そりゃそうだろうよ。日本は1960年代になり経済成長路線を突っ走るようになる

と韓国台湾と団体で海外旅行をしたものさ。僕みたいに1人でバックパッカーみ

たいなことは日本の男はやらないよ。僕はある目的があるから1人歩きしている

がこれでも結構孤独に耐えているんだよ。」

「1人旅か。実はこいつを先に帰して、後はそれ行けどんどんでマレー半島を下り

ます。お陰で4回生というのに就職はおろか卒業も難しい。こうなったらやけくそで、アジアの女を徹底的にやってやる。」

[そうか。それは自分で決めることだが面白い。人生は寄り道した方が味があって

面白い。早い話、君のような体験をした日本人はそんなに多くないはずだ。」

「ところでおじさん、バンコックの夜の部を教えてくれませんか。」

「せっかくの申し出だが、今日はガイドをして疲れているんだ、俺は。」

「そんなこと言わないで、お互いに男じゃないですか。弱音を吐いたら男がすたりますよ。」「

おだてられてるのかけなされているのかわからんけれど、ついて来い。」

ということで話は決まってバンコックの夜の部を案内することになった。宿に

帰ったら 門限ぎりぎりの時刻。今日は体も心もくたくたになった。

本当はそうなんだけど、強気を出して、今日は充実した1日、と日記には書いておこう。

若いということは本当によいことだ。羨ましい。つくづくそう思う。

確かに体は年齢とともに老化するが精神の若さはいくらでも若く保てる。

だからバックパッカーが出来るのだ。

旅に出ると普段見落としがちなものや事に案外気がつくし、また解放感も

手伝って大きく羽ばたける。それによって日常生活ではとても経験出来ないよう

な面白い事にも出会うし、いやなことにも出会うが、まったくいろいろなことがあって
やっぱり旅はいい。




喜多川歌麿6-12 

2017年12月17日 | Weblog
         喜多川歌麿  

 歌麿というと、大抵の男はにやりとする。男に限らず女でも中身は知らなくても枕絵の作者だということくらいは知っている。

喜多川歌麿、正式には北川歌麿らしいが、詳しいことはよくわからないらしい。

江戸時代・寛政期に出た美人画の大家で「婦女人相十品」や「ポッピンを吹く女」などが

代表作とされている。1791年頃に大首絵を発表して、女の持つ美しさ、

特に顔を画面一杯に描く手法で注目を浴びたが、後に描く対象も

町娘から水茶屋の女に移り洗練退廃といった特色が強くなっていったと、ものの本には書いてある。

同時代には東洲斎写楽などがいて、役者絵や相撲絵などを発表したが、

好事家はべつにしてやはり歌麿の方が庶民に人気があったようだ。

200年以上の時を経て鈴木春信や葛飾北斎・安藤広重よりもポユラーなのはなぜだろう。

 先日風俗街をぶらぶらしていたら、ウタマロ 歌麿、のネオンサインがまぶしかった。

歌麿は可愛そうに風俗店の看板に成っている。歴史に名を残しながら

風俗店の看板だとは情けないというより可愛そうだ。

彼の作品だったと思うが、いまオリジナルはボストン博物館にあるという。

僕は絵画には詳しくないが彼の芸術魂だけは理解しているつもりである。

彼は女性の美しさに着目した。いや魅せられたのだろう。どこかの御殿

にいる深窓の令嬢から町屋の娘に、町屋の娘から遊女に描く対象を移して行ったようである。

学者や研究者はそのような移り変わりを退廃ととらえるが、僕は退廃ととらえる前に人間の実相に着目したい。

確かにこの世は社会的にランクがあって、人は生まれるところによって深

窓の令嬢から、水天芸者・遊女までの身分的な色分けをされる。

特に江戸時代なんていうのは、封建制が完成されて、より強固に

身分の固定化が図られて、社会の安定をはかった時代である。

令嬢に生まれつくも、遊女になるべく生まれつくも、全くの運で本人には

責任がない。遊女に成った女はたまたま運が悪く、そういうまずしい家

に生まれついただけのことである。だのに世間から差別されて、さげすまれ、まるで人間の屑のように忌み嫌われる。

特に女性からは激しい差別を受けていた。

時代の閉塞性のために、どうもがいて、もどうしようもなかった。

もし彼女らを責めるとすれば、それは間違いで、時代というものを責めるべきであると僕は思う。

そういう状況の中で彼、喜多川歌麿は薄幸の女性に目を向けた。

元来芸術家は表面を描くにしても、その奥に隠れている本質に迫る必要があると僕は考えている。

遊郭の女性、博幸の女性は確かに社会的にはさげすまれる処に追いやられていたが、年頃の女性に出てくる美しさは遊女にも、町屋の娘

にも、大奥にいる令嬢にも共通である。女の美しさは社会階級とは無縁である。

そして陰性の美には哀愁がある。寂寥感と同時になまめかしさがある。

薄幸な運命の女の命の輝き、は陰性の美を伴っていたことだろう。

きっと彼はここに注目した事だと思う。彼女たちの美を最大限に表現しようとしたのではないか。

彼女たちの命に対する暖かい眼差しこそが、名作を生む原動力になったのでは無かったか

。そうだとすれば、彼は芸術家である前にヒューマニストだといってもいい。

その暖かさこそが大衆の心にひびくのだろう。風俗街の歌麿看板は

いただけないが、大衆は自分たちも共感を覚えながら時代を超えて歌麿を愛し続けている。

僕は分野は違うけど、芸術性と大衆性を兼ね備えた彼の作風の根本に

学ばなくては成らないと思った。

僕からみれば彼はあらまほしき芸術家である。僕もそういう志を持った創作家になりたい。

ところで彼は生涯を絵描きとして通したのではなくて活躍した期間はほんの短かったらしい。

すーっと現れて、すーっと消えて、いまだにその詳細は不明であると言う。


 世間虚仮

2017年12月16日 | Weblog
 世間虚仮          

南九州は暖かい。冬は2月までで終わり、3月になると、ぐっと暖かくなる。

ぽかぽか陽気に誘われて、春先になると冬眠していた蛇が、太陽に照らされて暖かくなった、人の通り道に寝そべっていることがよくある。
 
たぶん中学生ぐらいの時のことだったと思うが、鼻歌を歌いながら歩いていたら グニャと異様な感覚が足の裏から伝わってきた。私は咄嗟に蛇をふん

だんに違いないと思って大急ぎでその場を逃げた。

恐る恐る本の場所に戻ってみると蛇は動かないで、そのままじっとしている 。近づいてよく見ると、それは大きさも色も蛇によく似た縄切れだった。

蛇と縄切れはとてもよく似ていた。

「なんだ。縄か」。一安心したが、ふんずけだときは実にびっくりした。足の裏には、まだあのぐにゃっとした感覚は残っている

 縄切れなのにどうして蛇とに間違ったのか。僕はこのことを今でも考え続けている。目には縄として映っていたはずである。 だが私はそれを蛇と認識してしまった。

明らかに事実と、認識したものとでは、違いが生じている。目に映った物体の事実が、認識される過程において類似のものに変更されてしまったのである。

だとすれば認識の主体は何だろうか、たぶんそれは脳だろうか、それ以外のどこかにある種の意志が働いて縄が蛇になってしまったのだろう 。これは

縄と蛇に限らず、枯れ尾花を幽霊に見間違うことと、同じ理屈に違いない。

じゃ脳に働く意思とはなんだろう 。目に映った像に対して脳のどこかに命令判断する部分があるのではないか、たいていは見たものをそのままに認識

するようになっているが、時として映った像を別のものとして認識することが起こる。

目に映った像は紛れもなく縄であるが、認識する脳が認識する過程で、ある種の力が働いて 縄を蛇と認識してしまうのだ。

ある種の力とは、その時の置かれている状況によって心の奥底に潜む心理的な力が、意思として働き、誤った認識を生じさせるのではないかと思う。

ただしこの場合、自分の意志を自覚できないままに、人は自分が見たものは真実だと思う。

縄(真実)を蛇(判断が加味された真実)と認識するから次の行動として、びっくりとびっくり声が出るのだ。つまり人は真実を真実として認識する

とは限らない。言い換えれば人の認識には真実の認識と錯覚による認識がある。

人の見た事実は、それが真実である場合もある、錯覚によって作られた事実の場合もある。ところが人は自分の見たものは真実であると信じて疑わない。

世間虚化 唯仏是真 これは聖徳太子の言葉である。

人間の世界は真実で満たされているのではなく、人間そのものが不確かで、時として錯覚の上に世界を構成展開する。これは不確かな世界であてには

できないにもかかわらず人は自分の認識の正しいことに拘泥する。だから人間世界は矛盾に満ちているのである。

つまり我々が住むこの世には、もちろん真実はあるが、それを認識する主体、言い換えれば

人間は不確かなものであるということに気づくべきだと思う。

今まで私は自分の五感に触れるものは、それがそのまま真実と思ってきたが、こういうことを考えると、果たして自分の認識に100%の信頼を置い

て良いものかどうか。自信が無くなってきた。もし自分の五感があてにならないということになればいったい何を信じただよいのか。

 あいまいな自分の認識やそれに基づく判断から身を守るためには、物事に頑迷にこだわる態度を改めるべきだ。ということは頭のどこか片隅に疑念

を抱く部分を残しておくということだ。今後起こりうる自分のこと、他人のことを判断する際には、すでにこの部分から光を当ててみる習慣が必要

だ。そしてそれはすべてに対して猜疑心を持ち続けるということではない。

そういう次元ではなくて、人間は不完全なものだということをすでに念頭に持っておくということが大切だと思った。

聖徳太子の言葉 「 世間虚化 唯仏是真 」

、こういうことを考えてみると、改めて聖徳太子の偉大さが身にひしひしとしみこんでくる。
























増税

2017年12月15日 | Weblog
増税

合計すると3000億円ほど税収が増えるらしい。国民の懐はまた寒くなる。

税金を納めなくては社会が回っていかないのか百も承知だが、

問題は徴収の仕方だ。

所得格差を是正してできるだけ大きな差を作らないようにするのが国家の役目である。

貧富の差をできる限り合理的に縮めていくようにするのが政治の役割である。

貧富の差だけど富はともかくも、貧とはどの程度のことを指すのか。

生活の実態をよく調べて、憲法25条に定められた文化生活のラインをどこにするか。

これが生活実感を伴わないへりくつで、理論上で決めたれるから、違和感を持つのだ。

公共インフラを使い家賃を払い、食費を払って実際に最低生活費がどの程度なのか。

それを家計費とするならば、最低賃金は家計費から割り出さなくてはならない。

時給で決められるものではない。税金もこの最底辺の方から立ち上げて、富者の負担を考えるのが良いと思う。

働きがよくて報酬が年俸5000万円の人がいたとする。贅沢に暮らしても月に

生活費に100万円もあれば豪邸にも住めよう。多く見積もって2000万円もあれば上々の生活ができる。

そういう余裕のある人から税金をとって、年収200万以下の生活者に

手厚い援助を加えるのが税務政策じゃあるまいか。

そういう社会的貧者の生活実態を現実に体験する調査員を全国に配置して

家計簿をつけてもらい、それをにらみながら、政治を動かしていくことが大切だ。
最終目標は福祉国家で、そのための税制を考えないと、

今のあり方だと海外向けに良い格好をして、その中身は実に貧弱なもので、

国民の多数が生きていくのに、あえいでいるというあり方は良くない。

十善戒は守れるか

2017年12月14日 | Weblog
十善戒は守れるか 1

凡庸な僕が自身に問うてみる。

十善戒は仏教で言う十の戒めで、お経を唱える前に、仏に自分の戒めとして口に出す。
1,まず不殺生であるが、

基本的に人間の命は、動植物を食べることによって支えられている。 これはすべて人間以外の動植物の、命の犠牲の上に

成り立っていることである。


殺生するなという戒めがあっても,
それを守っていたら自分の、生存はおぼつかない。だから不殺生が

文字どおり自分の命以外の、命の殺生は許さないと、いうことではないだろう。 、


自分の命を守るために、ばんやむをえない時には、他の動植物の命を犠牲にすることによって自然が成り立っている事を考えれば、

不殺生は無理な戒めだ。この戒めは僕の様な文字通りのストレートな解釈ではなくて、もっと別な解釈の仕方が有るはずだと思う。

音楽業界が振るわない

2017年12月13日 | Weblog
音楽業界が振るわない

ずいぶん昔から音楽産業は業として成り立っていないといわれてきた。

優秀な作家を育てることなく、目先の利益追求のみに走ったことが今日の衰退を招く一因になった。

近頃は詞も曲も非常に貧弱なものになり、大衆がそっぽを向いてしまっている

サーカスまがいの演技に歌をそえてみたり、昭和の歌を蒸し返して歌ってみたり、

これじゃ大衆が逃げるのはもっともなことだ。

このままいくと日本には歌がなくなるのではないかと案ずる

関係者一同がん首をそろえて、お詫びをして 平成の歌作りに邁進すべきである。

極論すれば目に映るものは最小限度に押さえて、耳でしっかり聞く歌を作り出すように注力すべしだ。

増税

2017年12月12日 | Weblog
年収850万以上の人が対象。これで900億円増税になるそうな。

850万もらってい人の生活実態がわかっているのだろうか。教育費や結婚資金など最もお金がかかる世代である。

わずかな増税でも家計の中身はくるしい。

考えるに、日本の政治家は目を外に向けすぎだ。たとえば慰安婦に関する取り扱いなど

不利な扱いを受けながらユネスコに拠出する金額は相当なものである。拠出金がアメリカに次

いで、2番目でいる必要は何もない。

ほかにOECDの金額なんて900億円ではすまない。国民生活の実態から見ると、自重すなわち 
1000億削ったところで、たいした影響はない。

だのに海外に目が向いていて自国民の生活の実態がまずしいのは本末転倒である。

政治家はいったい、どこをむいてるのか。

いじめと痴漢

2017年12月11日 | Weblog
。痴漢犯人が、痴漢被害者が自殺したというニュースは聞いたことがない。だのに痴漢は犯罪ですというポスターが目につく。

いじめは自殺という形で自ら命を絶つこともある。どちらが重要か。

どちらも重要には違いないが、いじめの方が深刻なだけに重要視すべきではないか。

ではなぜ啓発運動が起こらないのか。口では重要だとは言いながら、身に染みて重要だとは考えないのである。

所詮は他人事。痴漢は犯罪ですとか、痴漢撲滅と書いたポスターを見るたびに、なぜいじめは犯罪です。とポスターを

作ってあらゆる場所で啓発運動をしないのか。絶対にすべきではないかと思う。

そしてついでに言うならば、いじめは社会全体で起こっている。

会社でも、警察でもいじめは現実にあるではないか。だから小さいうち

子供の時から犯罪だということをたたきこむ必要がある。会社の始業前の数分間の朝礼の時に会社の理念や気合を入れると

きのようにを唱和するように、学校でも始業前には必ずクラスで、あるいは全校集会で、あるいは朝礼で唱和すればいい。


毎朝と朝礼では全校で「いじめは犯罪です」と大きな声で唱和する運動を起こしてはどうだろう。

小学1年生か高校3年まで12年間毎日唱えておればいじめ=犯罪という公式が体にしみこむのではないか。

間違いなくいじめの関数は減るだろう。

貧困

2017年12月10日 | Weblog
貧困

コーラスの招待状を受け取った。コーラスを聴くのは何年ぶりか?

最初はジャズのクリスマスソング。もちろん原語で言葉はわからない。

所々出てくる単語で中身を想像して、詞を追ってみる。そしてわかった気になっている。

詞がなくて曲だけになると、何のことが意味がわからなくなる。想像力がやせ細っている。

気力の衰退と同時に想像力も衰退するのだろうか。

感受性がやせ細るというのは本当に起こりうる現象だ。

今日のコンサートを聴いて実感を持って自覚させられた。

貧困。感受性の貧困。これから先作品を作るのに自信喪失。


故上浪明子先生0

2017年12月09日 | Weblog
故上浪明子先生

東京芸術大学を卒業されて声楽家として活躍、日本声楽コンクールの審査員

として後進の指導にもあたられた。

一般的に声楽家は本場のヨーロッパに留学して、ヨーロッパ系の言語を学び

発音するから、どうしても巻き舌になって日本歌曲には不向きな点がある。

日本語は日本語らしく発音して歌ってほしいものだ。

こういう問題の解決に挑んで歌唱法の研究に取り組んだのが、上浪先生である。

知る人ぞ知るであまり評価はされていないようだが、日本歌曲を作曲する身にはありがたいことだ。

ドイツ留学を通してご自身が体験された山田耕筰先生は日本語の発音の不明瞭さを嘆いておられた。

女史の試みは志半ばで、中断したが、後に続く日本人声楽家は、まだ見つからない。残念だ。

北朝鮮人が日本海を渡り切れば

2017年12月07日 | Weblog

北朝鮮人が日本海を渡り切れば

またぞろ日本海にでて違反操業をしていると思いきや、軍に属しスパイかもしれないと、報道されている。

悪賢くてずるい輩だから、捕まえても刑務所に入れたら彼らは目的達成で万歳と叫ぶのではないか。

自国では飯も満足に食えないのに、決死の覚悟を決めて日本海を渡り切り日本にさえたどり着けば、彼らにとって天国が
待っているわけだ。

税金で彼らに飯を食わせるのは、なんとしても歯がゆいところである。

雨露しのげて3食付きで、医療まで受けられるというのは彼らにとってはまさに天国だ。


日本に漂着すれば、殺されるという決まりを作りたい気もするくらい図々しい奴らだから、それ相応の対応をしないと、

かんがえられないようなことをする、

国として予防的なことを至急に考えて日本・天国に来れないようにバリアーを設ける必要がある。人道的な配慮なんてさら

さらいらない奴らだ。もういい加減にお人よし日本を卒業しなくては。厳しい日本を示さなければ。

年賀状

2017年12月07日 | Weblog
年賀状

喪中はがきが届き始めた。僕よりも3つも4つも年若いのに、この世にサヨナラしていく。

70代だったらやはり若死にのほうだろう。えっ?あの人が、、、彼が、、、

この頃は身に染みてくる。

お迎えだけは神仏の約束事で、自分の力ではどうしようもない。

喪中はがきを心で受け止めて、果たさなければならない、なにがしかの勤めを

全力で果たさねばならないと自分に言い聞かせた、この世を去るということはその人なり

の務めを果たしたので去ったわけで、自分はまだ勤めが果たせてないのだと思う。

近い友人が去っていくのを知ると寂しさが募る。今の時節余計に、感傷的になる。

いじめ

2017年12月06日 | Weblog
いじめ

学校でいじめが発生すると、まず学校の責任が問われる。

いじめは肉体的、精神的な暴力である。

暴力だったら学校でいじめが起こっても、警察の管轄が筋である

第三者委員会をつくっても,調査と議論に終わって即効性は期待できない

特に被害者が自殺したらすべてのことが、後の祭りでどんな申し開きも、言い訳も、調査結果でもくその役にも立たない。

それをやろうとするから滑稽である。これは カムフラージュだと僕は見る。

後の祭りをいくら盛大にやっても、くその役にも立たないぐらいは子供にもわかる話だ。

学校はといえば基本的には面倒なことは御免であるという立場である 。

烈火のごとく気合を入れて、いじめの中に飛び込んでいくという
教師はまずいないとみることが、正解である。

担任に始まり学年団生活指導の先生、教頭、校長、立場には違いがあってもみな同じマインド、同じ基盤の上に立っているのである

掛け声はいじめ撲滅である。こんなマインドの集まりで、いじめに対応できると期待できるか ?

だからじめ問題は専門家である警察の少年課との連携を深めたり、協力し合っていじめ防止に教育的立場から有効な手段をとるべきだというのが僕の主張だ。

枯れ葉

2017年12月05日 | Weblog
枯れ葉

木枯らしのふく季節がやってきた。窓越しに見える落葉樹はすっかり丸坊主。

4月ごろに新芽が吹いて緑が木を覆ったが、葉が散った今は寂しい。

僕よりも3つ下の元同僚2人が音もなく、なくなった。

本人が望んだわけではないのに鬼籍に連れていかれた。

特に親しい間柄でもなかったが、もう再び会えないのかと思うと、寂しさがこみあげてくる。

枯れ葉がこの世を去っていくように、友も去っていった、今はもういない。

天地悠久のスパンから見るとあり一匹の動きくらいのことだが、永久に去っていったと思うと、

人生の無常さへと思いはつながる。

思いたくはないが、われもそのうちに、、 と感傷的な気分になる。