ジョルジュの窓

乳がんのこと、食べること、生きること、死ぬこと、
大切なこと、くだらないこと、
いろんなことについて、考えたい。

葬儀のあとで

2006-09-04 | なんでもないこと
義母については
「この人が死んだら 
 絶対 初七日より早く
 自分の家に帰ってくるんだ!」
と 強く心に決めていたのに(笑)、

そして 
そんな決心を 荷造りしながら
思い出していたのに、

私は たっぷり一週間は滞在できるように
下着もサポーターも靴下も 
どっさり持ってきていた。


nnnnnnnnnnnnnnnnnnnnnnnnnnnnnnnnnnnnnnnnnnnnnnnnnnnnnnnnnnnnn

写真は 私の夏の得意料理。

「ナスの、レンジでチン」(笑)。

オカカ醤油か カラシ醤油、またはショウガ醤油で。

これからの季節は 皮がコワクなるので
皮をむいてからチン、に変更になる。

ssssssssssssssssssssssssssssssssssssssssssssssssssssssssssssssssssss


けれど 子どもたちの学校のこともあり、
初七日を待たずに
私と子どもたちとは
一足早く 帰ってきた。

フクザツな気分。



亭主は 義父や義弟とチカラを合わせて(笑)
家の中の整理・整頓をし、

葬儀から帰ってきた直後に 
やはり斎場の職員が整えてくれた
義母の後飾りの祭壇を守り、

それから 銀行に郵便局に保険、

ありとあらゆる考えられる事柄を
出来る限り進めるべく
努力した、はず。



これは 予想以上に複雑で大変だったようだ。

この後も 何度も イバラキ行っては
少しずつ進めていったけれど

全部が終わるまでは
数ヶ月かかった。



「人が死んだら、
 最初にやることは、
 局へ行って
 年金だの何だの、
 ぜ~んぶおろしてくることだかんな。」

と 当地で 私に教えてくれた人があったが

それも最近では本人確認がやかましくなって
難しくなっている事と思う。

まして 義母の場合は突然で、
戸籍謄本かなにかを持って
金融機関に赴かなければならなかったらしい。



義母のものに関しては
「いじってほしくない」部分と
「二度と見たくない」部分とがある義父は
最初 二人の息子に任せきりだった。

休日に忙しい亭主と
週末にしか 単身赴任先から来れない義弟とで
少しずつ、少しずつ。

この時、
義弟は 法律的な部分を 予想以上によく知っており、
とても助かった。



たとえば。

前もって聞いていた方法をとって
金融機関に行くと
「それでは 引き落とせません。」
などと言われる。

平日にイバラキに行った亭主が
銀行に行き、
戸籍謄本(または、抄本)はコピーでいい、
と確かめておいて

次に 義弟が 休暇をとって平日に
コピーを持って引き落としに行った時に
「ダメ」が出たことがある。

義弟が
「戸籍謄本を身分の確認に提出することについては、
 法的根拠はない。

 そちらが最初にコピーでいい、と言っていたのだから
 これでいいはず。」

と言うと
それでやっと通った、ということがあったそうだ。

そうでなければ
もう一度 役場に行かなければならない。

そうでなくても 
役場と実家を何度も行ったり来たり、

短期間になにもかも、は とてもできなかった。



兄弟がふたりいて良かった、と私は思った。

これが 亭主だけでも 義弟だけでも
とても大変だった。

私たちの年代からは
子どもの数は ほぼふたりと決まっていて
(保健所の指導の影響があったのではないか、と
 私は想像している。)

多くて3人、少なければひとり。

ふたりで協力してさえ これだけ大変なものを、

仲たがいしていたり 一人っ子だったりしたら
どれだけ大変だろう。



それから
義母の入所当初からの
亭主と義弟の責任感。

ふたりの嫁は
同居していないこともあったが
あくまでも 助力であり、

面倒を見るのは
子どもである亭主と義弟が 
義父とともに行う。



これは
長男気質の亭主からは到底ありえないことで、
義弟の法知識のおかげだと思っている。

あるいは 私ががん患者であることや
仕事に定休日がないこと、

あるいは 義妹の親がもう以前から
末期の癌で闘病中であること、

そんなことのせいもあったかとは思うが

親の面倒を見るのは 子ども、

それを配偶者は 影から支える、

それが出来ていたので
無理をしなくて済んだ。



一番大変だったのは

日本海側に単身赴任中で
豪雪の雪かきをしながら仕事に行ったり

電車賃をかけて はるばる実家に帰ったりしていた

義弟だったかもしれない。