ジョルジュの窓

乳がんのこと、食べること、生きること、死ぬこと、
大切なこと、くだらないこと、
いろんなことについて、考えたい。

帯状疱疹?

2006-09-18 | 考えたこと
義母の葬儀と四十九日の間にも
それなりにいろいろあった。

二度目のぎっくり腰になったり。

これは軽くてすんだけど、
なんと5キロのお米の袋を持っている時だった。

5キロよ、5キロ!

10キロならともかく!!

がっかりした。。。。。。。。


kkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkk

最近の私のケータイ。

これ以上ぶら下げたら 若いネーチャンと同じになってしまう。

kkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkk



私が亭主の実家に二度目に行こうとして
「オレが困る」と言われて
中止になった日、
私は腹部に違和感を感じていた。

ぴりぴりとした痛みを覚えていたのだ。

それほどひどくはなかったし、
今回は一泊のつもりだったから
痛くてもイバラキへ行く覚悟でいた。

それが変なことになったので(冷戦)、
それじゃあ、と思って
皮膚科へ行った。

痛み出したのは何曜日か覚えている。

東京と神奈川の治療院に行った日だ。

そう告げると医師は
「もう一日・二日 様子を見ましょう。」
と言った。

家に帰って『家庭医学大辞典』を見てみると
そろそろ発疹が出るころなのだ。

発疹が出れば帯状疱疹と診断がつく、というわけだ。


hhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhh



<はらぺこあおむし>君は娘からのプレゼント、

『わんわんものがたり』のペアのものは 息子のお土産。

ちょっと恥ずかしいけど、
電車の中で長々とメールを打ったりはしないから。

wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww


ところが、何日か過ぎても発疹が現れる気配がない。

なんでも帯状疱疹かどうかは
血液検査でわかるのだそうで(『家庭医学大辞典』)
個人経営の小さな皮膚科では
検査の結果がでるまでには一週間かかると思う。

もしかしたらアノ総合病院なら
(おお!久々の、この名前!
 私がたったひとりでガンの告知を受けた所。)
もっと早く結果がわかるかもしれない。

私は紹介状なしで 待たされる覚悟で
アノ総合病院の皮膚科を受診した。



そこでは 痛み始めてから日数が経っているので
とにかく投薬を始めた。

けれど血液検査の結果は
やはり一週間しないとわからないのだった。。。

帯状疱疹のお薬を飲み続けて三日後、
発疹の出ないまま もう一度診察に行くと
やはり発疹は出ていない。

おまけに一週間後の検査の結果は陰性、
つまり帯状疱疹ではないのだという。

だけどお腹のピリピリは
多少改善されたものの まだ収まってはいなかった。

ビタミン剤だけもう一度処方してもらって、
帰宅。



この話を 恵比寿の整体師に話すと、
「人間の身体っていうのは、
 そんな、検査の結果の数値に表れない、
 微妙なものがあるのだ。

 不思議でいっぱいなのがヒトの身体なんだから、
 現代の医学なんかで
 全てがわかるわけがない。」

と言うようなことをおっしゃった。

ふ~~ん。

そういえば。



義母が亡くなる直前の「女の子だけの同窓会」に出席して
病院の義母に会って帰ってきた時、
鼻の中に吹き出物ができた。

あんなに楽しい思いをしても
疲れるんだなあ、なんて思っていた。

それは 一日たって引っ込んだかと思ったら
義母の急死。

またまた鼻の中で膨らんできて、
それ以来 膨らんだりしぼんだり(笑)していた。



行けば体調が良くなる治療院めぐりだったが
東京・神奈川に出かけて帰ってくると
膨らむのだった。

治療とは言っても 疲れるのかなあ、と思っていた。

もしかしたら私は
治療を受けていたからこそ、

帯状疱疹、もしくは 帯状疱疹のような何かを

鼻の中の吹き出物や
呼気や排泄物などと一緒に
吐き出していたのかもしれない。

そう思わなくては 納得がいかない私だった。



それにしても
我が家の『家庭医学大辞典』は古い(昭和62年)。

帯状疱疹は 現在では早めに投薬を受ければ
決して重症になることなく、
全快するらしい。



ということで、ほぼ一月 ピリピリしていた私のお腹は
その後は無事。

でも 少しでも何かしらの兆候を見つけたら
身体からの黄色信号と思って
無視してはいけないと思ったのであった・・・。

燃費

2006-09-17 | 考えたこと
何しろ、灯油・ガソリンが
こんなに高値になってしまうとは
思っていなかった。

だんだん上がっていって
決して下がってこない。


ccccccccccccccccccccccccccccccccccc

私の得意料理、ジャガイモの炒め物。

母から譲り受けたレシピには
甘辛味と カレー味、
それに一番よく作ってもらった
お醤油だけの味付けとがある。

今回はカレー味。

野菜がなくなった時に 
唯一あるジャガイモで作ることが多い。

母もそうだったろうか。

cccccccccccccccccccccccccccccccccccc


燃費がいいことが 
車を買うときの 大切な条件のひとつ、では、ある。

でも こんなに重要になってくるとは思っていなかった。



15年前に軽乗用車を買ったとき
リッター20キロ走る、(もちろん、一定の条件下で)
というので
うひゃ~とびっくりした記憶がある。

この春 娘の車を物色しているときに
普通車で100万円をきり、
しかもリッター20キロ、というのがあるのを知って
またまた どひゃ~っとびっくり。

世界はどんどんススンデいる!



娘は想像以上に車好きで
親よりよほどきれいにして乗っている。

けれど 予想以上に走行距離ものびているので
ガソリン代は 頭痛のタネだったろう。

最近流行のセルフのガソリン・スタンドで給油している、
と聞いていた。

私も 愛犬のフィラリアのお薬をもらいに
獣医に行った時に
確かこの辺に 娘の言っていたセルフのスタンドが、
と探して
ドキドキしながら
自分で給油、の初体験をした。

娘もそうだった、というが
キャップが開かなくて グズグズしていたら
店の人が飛んできて開けてくれた。



なにしろ、
こんなにガソリンが高くなるとは思っていなかった。

いつも行っていたムラに一番近いガソリンスタンドは
カード会員になっていたので
現金が要らないし サービスもいいし
場所も便利だったのだが 値段が高かった。

ところが それまで安かったセルフ・スタンドが
その日からはあまり安くなかった。

ガソリンの高騰が続いていた。



そして それまで高かったいつものスタンドは
逆に顧客がよそに流れたのに対抗したらしく、
直後に値下げした。

手元にある伝票によると
1999年6月15日には1リットル単価85円。

途中の伝票がなくて
2003年3月4日には   単価98円。

同じく 12月26日には    95円と安かったが

2004年2月16日には    97円、
     4月21日には    100円。

     6月8日には     103.8円、
と小数点以下が出てきた。

     6月25日には    105.71円
     9月4日には     110.47円、
     11月6日には    112.38円。

2005年1月6日には     108.57円、
     2月13日には    105.71円、
     3月12日には    107・61円と 
この頃も少しは安かった。

     4月18日には    112・38円、
     8月24日には    120.94円、
     9月6日には     122.85円、
それがしばらく続いた後、
2006年5月26日には    125.71円と高値だった。

この時に私はセルフに行ったのだ。

反省からか、6月11日には   120.94円に下がった。
      7月6日には    122.66円。

これらは全て会員価格で、ビジター料金(?)はもっと高い。

そして今、
レギュラー137円と出ているが
私は会員なので129円くらいのはず。

これは大きい。

会員でよかった。

とばかり喜んでもいられない。

ガソリンはこれからも上がるかもしれない。

値下げはあまり期待できないと思う。



そもそも埋蔵量に限度があるのだ。

若干の油田の発見があるとしても
近い将来、枯渇するのは確実で、
枯渇する日の予想もされている。

アメリカなどは その予想が発表されるや、
自国の原油を使うのをピタリと止めて
今は輸入に頼っている。

そうして、省エネや 温暖化防止には不熱心。

世界の原油が枯渇するのを待っているかのようだ。

最近 アメリカの貿易赤字が記録を更新したと
ニュースで言っていたが
輸入した原油の高騰が原因のほとんどらしい。

この赤字は 後々 大逆転する、
あるいは させるつもりでいることだろう。



もちろん、代替エネルギーの研究も進んでいるだろうが
今現在の我が家のボイラーは灯油だし 
車はガソリンのみで走る。

私は次に車を買い換える時には
ハイブリッド・カーを、と憧れていたが

あと3年くらいで 
それほどの購入資金が溜まるとも思えない。

ハイブリッド・カーは値段が高い。

けれどさすがに燃費は驚くほどいいらしい。

庶民の対抗策として
娘に軽の中古をを買ったのは
正解だったかと思う。



自動車屋のアニキは
よほど気に入ったと見えて
新しい代車に今度もワゴンRを用意した。

ワンボックスの左後方を修理中のウチの亭主が
現在それを乗り回している(汗)。

車の色は?(2)

2006-09-15 | なんでもないこと
娘が幼稚園に入ったときに買った黄色の軽乗用車は、
スピーカーが壊れていた。

子どもたちの中学・高校同時入学の前の春に
今のコンパクト・カーに買い換える時には、既に。



黄色の軽は 
自動車屋のアニキのところで
代車として活躍したその後で

免許をとった娘にと 無料で譲り受けたが

当然、CDプレーヤーは付いていない。

新車として購入した当時、
DCプレーヤーを取り付けるのに
5万円は上乗せしなければならなかった。

娘はCDをカセット・テープに録音して
テープレコーダーで聞く、ということをやっていたが

今度はテープレコーダーが壊れた。

音楽が大好きな娘は泣きそうだった。

そしてそのうちウィンカーが壊れた。

これはいけない。



娘のために買う車は 何色がいいだろう?(笑)

私は安全性を考えると 娘にも普通車を買ってあげたかった。

音楽の好きな娘のために、
音楽の再生機能を最大限に引き出せる車を、とも思っていた。

Sの稲本が宣伝してた車はカー・オブ・ザ・イヤーを取ったというし
Nからは学生にふさわしい名前の車が出ている。

Hからもいくつも小さめのかわいい車、
Tからもいいと思うものが新発売になった。

もちろん、、
Vの字が二つ横に組み合わさったもの、
丸と三角の組み合わせのもの、
カミナリが横に走ったもの、
丸いワッカが4つのもの、
丸い市松模様のもの、
などなど、

いいと思う車は多い。

要するに 私は
娘が乗るであろう車を
あれこれ考えては 楽しんでいた。



イバラキの亭主の実家まで
ナビを使って行くために借りたレンタカーは
私のコンパクト・カーの、出たばかりの新型だった。

当然の事ながら、
数段カッコいい。

「これ、いいねえ。これと同じものを。」

と注文する客が多いらしく、
自動車屋がレンタカーの斡旋も喜んでしてくれるのには
そういう理由があるのだそうだ。

「あれ、かっこいいねえ。」
と私が言うのを聞いて、

「奥さんの車を娘さんにあげて、

 奥さんが新しいのを買ったらどうですか。」

と、アニキはうまい事を言って売り込む。

もしそうできたら、と娘も考えたに違いない。

「私、色はピンクがいいなあ~。」

だったら、私は・・・・・・赤!

ダークレッドが良かった。

「赤の時代」だったらしい(笑)。



だけど亭主が
ワンボックス修理中に代車として借りていた
ワゴンRを売ってもいい、という
アニキの言葉に飛びついた。

なにしろウィンカーまで壊れちゃったのだから、
急ぎたいのもある。

いや、それより金額が魅力。

まだ買ったばかり(黄色の軽を我が家に譲ってから)、

だから、ほとんど、新車!

そして、低燃費!

ただし 色は あまり可愛くない。。。



キーホルダーをプッシュして
ドアをロックorアンロックすると
ピカッとする、

ドアを閉めると
室内が徐々に暗くなる、

と 最新設備付きだが
色はとにかく、可愛くない。

娘はそんな愛車に
毛のフワフワを飾った。

なんか、くしゃみが出そうなのだが。

このフワフワ、
道を走っていて
対向車に同じようなのを見かけることがある。

いつものスーパーでも見かけることもある。

やっぱり、若いネエチャンの考えることは、わかんねー(笑)。



娘はこの愛車を駆って
さっそく遠乗りに出かけた。

「今、牛久(茨城県の)。」

「誰と?」

「Avrilと♪」

大好きなAvril LavigneのDCをかけ、
大声で歌いながらハンドルを操る娘が見えるよう。

その日 娘は 記念ドライブと称して、
亭主の実家まで日帰りで行ってきた。

予想外に運転の好きな娘になっていた。

2006年3月半ば、
娘の20歳の誕生日だった。

今ではipod ナントカとつなげて
ご機嫌な音楽環境にあるらしい。

ちょっぴり、うらやましい。



それでもやっぱり、その色は悲しい。

いちどターコイズ・ブルーのワゴンRをスーパーで見た時、
「ああ、せめてこんな色の車を 
 娘に買ってやりたかった。」
と思った。

「青の時代」に移っていたらしい(笑)。



これは、ゆうべの亭主との会話。

「きょう、バッグを買ってきたんだよ。」

「ああ、壊れちゃったやつの代わりか。」

「そう。ベージュのバッグの代わり。」

「何色?」

「ブルー!」

「お前、今、‘青’なんだな。」

あら、バレてる。


あれこれ

2006-09-15 | 乳がん
雨が何日も続いたから
梅雨の間にも豊作だったキノコが
また土手に顔を出した。

美味しいキノコだったらよかったのに。。。



あんまり雨が続いたから
‘土寄せ’をしていないネギ畑のネギは
だいぶ解けてしまっている。

等間隔に植えてあるはずなのに
まばらになってしまった畑がある。

‘土寄せ’は 
ネギの下の方の 
白いところを増やすための手段だと思っていたが

過湿に弱いネギの
根っこを守る役目も果たしていたことに 
今週になって気づいた。

当地に住んでもう20年もたつのに。



このキノコなんか、シメジみたいで
美味しそうなんだけど。

食べてみる勇気はない。



先日 がんセンターに久々に行って来た。

お薬(ノルバデックスD20mg)の処方箋を受け取り、
次のお薬の日、つまり検査の日の予約を取り、

薬局で薬をもらって
お金を払ってきた。

3ヶ月分、12340円。



主治医の顔を見るのも久しぶり。

なんか、今回は、特に久しぶりな感じ。

いつも聞き忘れていたことを
ひょいと聞いた。



「放射線を当てたところは 汗をかかないんですが

 これは一生 このままなんですか?」

主治医は顔を歪めて、

「そうなんだよねー。」

ああ、そうなんですか。

そんな説明なんか、受けたっけかなあ。



いいよ、今のまんまってことだもの、

覚悟を決めて
このまんま生きていくよ。



帰ってきたら 眠くて眠くて

息子から‘帰るメール’の入るケータイを
亭主に渡して

そのままベッドへ。

目が覚めたら
いつのまにか息子も帰宅していた。

亭主の仕事が一段落付くのを待って
いつもの(笑)和風ファミレスへ。



そうそう、
今回は、優秀!

3ヶ月分のお薬の中で、
今回は飲み残しが6個しかなかった!(笑)

一日1個、
6日飲まなかったわけ。

世間の乳がん患者の皆さまは
ちゃんと忘れずにのんでいるのかなあ?

5年間の飲み薬、というホルモン療法の処方は 
けっこう多いと思うんだけど。

こんなに節約しつつ飲んでいるのは、
私だけなのかなあ。



きょうは 久しぶりの、雨が落ちていない日。

曇ってはいるけれど 
ようやく洗濯物を外に干した。



当地の畑の土は水はけが悪いから
ネギにはもう少し辛抱してもらわないと。

今年の冬の 鍋の中のネギの量は 減るかも知れないなあ。

それより、あんまり高値だと
ご近所からおネギをいただけないなあ。

心配だなあ(笑)。

大阪みやげ

2006-09-14 | なんでもないこと
関西は大阪府堺市への出張が
今年は何回か続いた。

亭主は 出張へ行くと 
毎回必ずお土産を買ってくる。

喜んであげないと不機嫌になる(笑)。



最初の時に 亭主は

「大阪には 大阪土産っつうもんがないんだよ!
 
 知ってた?」

と言った。

京都みやげと神戸みやげがあるきりで、
大阪らしいもの、というのがなかったというのだ。

その時のお土産で一番家族にウケたのは
神戸のチョコレートだった。



その次の時には
なんとか大阪みやげらしいものを見つけてきた。

ひとつは中華まんで、
帰宅した頃には解けてしまっていたので
すぐに食べた。

なんというお店のものだったのかは、
今となってはわからない。



こちらの「トラたこ」は
なんとか凍ったままだったので
大事に冷凍庫にしまっておいた。

たこ焼きが大好きな息子がいる時に、
買ってきた本人もいる時に、
とか思っていたら
日数が経ってしまった。

先日 関西の方々とのオフ会の後で
やっとチンして食べた。



やっぱり!

大阪の人たちが
美味しいものが嫌いなわけがない。

探せばいくらでも
美味しいイイモノがあるんだ!

あちこちで見かける銀ダ○なんかとは
ぜんぜん味が違うじゃないか!

おまけに、甲子園球場に行きたくなるような
風船付き!(笑)

今度行った時には
またこれ、お願いね。

冷戦

2006-09-13 | 考えたこと
葬儀が終わったときもほっとしたが
初七日が終わると また ほっとする。

実家から帰ってきた亭主と
しみじみと渋茶をすすりながらおしゃべりをする。

私は毎週何日か 亭主の実家に行ってもいいつもりでいた。


jjjjjjjjjjjjjjjjjjjjjjjjjjjjjjjjjjjjjjjjjjjjjjjjjjjjjjjjjjjjjjjjjjjjjjjjjjjjjjjjjjjjjjjjjjjjjjj

隣の家で 庭にヤマトイモのクズを捨てたらしく、
つるが這い登ってきて
我が家のサザンカに蒔きついたのは去年。

頑張って取り払ったけれど
今年はあちらからもこちらからも
つるが生えてきている。

草むしりをあまりしなかったので
クレマチスの周りも すっかりジャングルになってしまい、
やぶ蚊の巣!(涙)

kkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkk


義母がグループホームに入ってからは
義父のところへは
週に一度 掃除・料理を中心に
来てくれる人がいる。



義父が義母の入所先へ通うのが
少々遠めなので
車で送り迎えをしてくれるオバチャンがいた。

義父が有料で援助をしてくれる会社と契約したのだ。

義父を迎えに行って、
一緒に義母をグループホームへ迎えに行って、
今度は病院へ行き、
終わる頃にまた来てくれて
病院からグループホーム、義父の家。

ボランティア精神がないとできない仕事だが
料金は決まっていて
義父には心の負担にならずに利用できるらしかった。

その会社にも何人かの人が登録しているのだが
そのオバチャンの車は
けっこう大きく、いつもある程度きれいで、
運転も安心していられて
そして何より 人柄にも安心感があるらしい。

その同じ人が来てくれるというので
義父もその息子たちも喜んでいるのだ。



一度 私が義母の病院に付き添うために行った時には
その人の車に乗った義父が
私を迎えに最寄の駅まで来てくれて、
帰りには三人で一緒に食事もしている。

食事はご馳走してもらわない決まりとかで
自分で払ってくれる。

私も 
押し付けがましいところがなく、穏やかで 
自然体のこのオバチャンには好感を持っている。

私とあまり年齢は違わないと思う。

(ただし、とちらが上かは不明。)



その人が毎週木曜日に来てくれるなら、
私は月~火曜日にでも
通おうか、と思っていた。

亭主には
「毎週同じ曜日に行くようにした方が
 リズムができて
 私的にはラクだ。」
と伝えてあった。

亭主もそれには納得したような発言をしていた。

そしたら
そのリズムを無視して
自分の実家に行け、と
突然言い出すのだ。

困る。

「この前言ったように、
 同じ曜日に行くようにしたいんだけど。」

と言うと、
「オレが困る。」
と言う。

「明日は、二七日(にしちにち)だから。」

とかなんとか言っちゃって、
私や 塾のある息子や バイトのある娘を
自分の代わりに 実家に行かそうとする。

それは私の親のじゃない。

あんたの親なんだから、
あんたが行けばいいでしょ!

と、心の中で言う(苦笑)。

亭主は関西に出張が入っていて
自分では行けないのだ。



思い出したよ!

義母が亡くなった時、
私たちは冷戦状態だったじゃないか!

いつもこうやって
自分で勝手に決めたことを
人に押し付けるから、イヤになるんだ。

だから、冷戦してたんだ!

人のことを勝手に決めるな!

自分勝手になんでも物事を押し通そうとするな!

とは言えない、オトナシイ私(笑)。

私が唯一口に出したのは。

「イヤだ。」



亭主は関西へ。

義父のところへは
義弟がせっせとマメに通ってくれていた。

三国志

2006-09-13 | マンガ
先年 火事で怪我をして亡くなった
横山光輝氏の大作マンガ、
『三国志』(潮出版社、希望コミックス)。

描き始めは昭和47年だそうだ。

なんでも 最初は少年向けに描かれたとかで
表紙の劉備玄徳の顔も
当然ながら若々しいし
描いている横山氏も若かったことだろう。

その後 読者層が大人までいることがわかり、
大人も読めるように、と
描き方を改めたそうなのだが

私は作者の絵が 円熟していっただけかと思っていた。



この単行本を買い続けていたのは
いったいいつ頃だったろう?

第一巻の発行は昭和49年5月20日。

手元にあるのは 昭和53年の9刷だ。

買っていたのは、若かりし頃の、亭主。



あの頃

亭主は 貧乏大学院生で
私は 
アルバイトをしている亭主よりももっと貧乏なOL だった。

お金がないと
デートコースは駅前の書店。

立ち読みをして
脚が棒のようになったら
『三国志』を買って亭主のアパートに行き、

亭主の淹れてくれたコーヒーを飲みながら
『三国志』を読むのが

月に一度の楽しみだった。

何巻目が出ていた頃だったろう?

その頃は まさか60巻も出るとは思っていなかった。



結納を交わして 結婚して 
子どもが生まれて 当地へ来て

それでも配本は終わらず、
当地で見つけた気に入りの本屋で続きを買った。

60巻めの発行は1988年(昭和63年)。

これは、息子が生まれた年。

その時には発売に気づかなかったのだろう、
2年後の1990年の11刷を購入している。

その後 成長した息子が読んだ。

(娘はあまり読まなかった。

 漢字が多いからなあ;笑)



さらに 1984年7月16日に
『横山光輝 三国志おもしろゼミナール』
という本が 同じ出版社から出ているのだが、

息子はこの『おもしろゼミナール』で
完璧に「三国志オタク」になった。



「三国志オタク」は「恐竜オタク」よりも長く続き、
一時期息子は
大学で中国の事を勉強したい、と言っていたくらい。

(現在はもっとわかりやすい方面へ転向している。)



我が家では いろんな意味で 大作の名作だ。

なれそめ話

2006-09-12 | 考えたこと
翌日も私は張り切ってはいたものの
食事作り以外は ほとんど何もしていない。

クリーナーはきのうかけておいてくれたはずだし(笑)。

義父の車を借りて
町まで買い物に行ったが
(坂道が怖いの!)
あとはけっこうのんびりしていた。


iiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiii

ここに白い花を咲かせるつもりはなかったので
生えたら次々と 別の場所に植え替えていたのに
今年ついにコロニーを作ってしまった、インパチェンス。

iiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiii


義父は 義母が老健に移った頃から
人が変わったようにおしゃべりになった。

いや、もっと早かったかもしれない。

きっと話し相手が ふだんいないからだと思う。

忙しい時には 亭主もイライラしながら付き合っていたが
きっとそのイライラは 受話器を通して
義父にも伝わっていただろうと思う。



午後のひと時、
義父と一緒にコタツに脚をつっこんで
ぽつりぽつりと言葉を交わしていたら

そのうち
義父は 止まらない、という感じで
しゃべり始めた。



私がここに来たばかりの頃に
近所の人が仕事を世話してくれて・・・。

その仕事というのが、
とにかく、給料が安くて・・・。

学校の先生の給料計算なんかもするんだけど、
先生より安くてねえ。。。

---その頃の先生の給料より安いって、
     ホントに安かったんですね!


上司が こうで、こうで、こうで、
嫌なヤツでねえ。

その上、給料は安いしで、
それで、「面白くねえ」ってわけで、
同僚とふたりで 教員採用試験を受けたんだよ。

上司に内緒でね。

そうしたら、そのすぐ後、
まだ結果が発表になっていない時に
上司に公務員試験を受けろって言われてね。

こっちは、上司命令なわけだ。

ああ、それで、お義父さん、
     公務員になったんですね。



その上司の次の赴任先に
○○がいたんだよ。

おっと! お義父さん、
それは、初めて伺います、
お義母さんとの馴れ初めではないですか。

それで、その、いや~な上司が、
お仲人なわけですね!(笑)

 

「ふっふっふ。」

楽しそうに笑いながら
思い出を語る義父。

こうしておしゃべりを聞くのも
今回の私の大事な使命、と思いながら
楽しく 暖かく おしゃべりに興じていた。

そのうち ふたりとも
こたつで うと うと うと。。。 。。 。  。(笑)



日・月と泊まって
火曜日には亭主がやって来て、
義父と3人で外で食事をして
駅まで送ってもらって
私だけ電車で家に帰ってきた。

他愛のないおしゃべりの相手とか
うどんを煮たりとか
そんなことだけだったけど
私でも何かのお役に立てたかな、と思って
そのことがとても嬉しかった。

初七日

2006-09-11 | なんとなく仏教?
家に戻って
忙しい一日を過ごしてすぐ
2006年3月の日曜日が来た。

この日は義母の初七日で
私は亭主の実家に向かった。

葬儀のあとで
私は実家の姉に
「お義父さんを 十日やそこらは
 ひとりにするなよ。」
と言われていた。

「う~ん。」
と返事をしておいた。

難しい、と感じていたからだった。



この日曜日に
それまでひとり残って泊まってくれていた義弟が
家族の待つ家に一度戻り、
そして単身赴任先に帰る、というので

もう少しの間 義父をひとりにしないように、と
私と亭主(と我が家の子どもたち)で話し合った。

亭主はどうしてもはずせない仕事で出かけることになっており、
私が代わりに朝早く電車で向かうことにした。

我が家の手伝いは 
子どもたちが私に代わってやってくれるはずだった。



義母が亡くなった日に 息子が乗ったという
午後一時のバスに乗ろうと
上野から乗った常磐線を降りた駅で
バスを待つ。

ずいぶん待ったが バスが来ない。

バスは電車ほど時刻表通りではないけれど、
と思いながらよく見ると
そのバスは日曜・祭日には運行されていなかった。

ふだん 休日に家を空けることはあまりないので
すっかり忘れていたが 日曜日だったんだ!

たっぷり30分以上待っていたのに
次のバスまでは まだまだ1時間くらい待つ。

がっかりしてタクシー乗り場へ。

5千円以上払って、ようやくたどり着くと
義弟はそろそろ家を出る、というところだった。



一緒に祭壇の前に行き、
3人で手を合わせた。

これで初七日法要を無事に終えたつもり。



初七日から一週間ごとに二七日、三七日・・・
と四十九日まで7回の忌日がある。

それぞれ大切な区切りで
昔は丁寧な家では
そのたびに法要をやっていたかもしれない。

家族で集まって手を合わせれば
それが供養、と私は思っている。
 
義母がいつも持ち歩いていたハンドバッグに入っていたという
「勤行儀」というのを
亭主が家族分コピーしてくれてあったので
それをひと通り読み上げる、という
本格的(?)法要になった。



そのコピーした紙を 
私はなくしてしまった。

前にも書いたが 昔使った本格的(!)お経本を
私はどこかにしまい忘れている。

家にあるかもしれないし
実家にあるのかもしれないが
何十年も見て触っていないのは確か。

数年前に100円ショップで見かけて買っておいたもので、
義母の「勤行儀」によく似た、
「○○宗の勤行儀」(だったかな?)という薄っぺらいお経本も
どこへいったかわからなくなっている。

バチが当たったらどうしよう?



ところで
七日ごとの忌日には 
それぞれ仏さまが決まっている。

亡くなった人を守ってくれるのだそうだ。

これは 追善供養の考え方と
道教の十王信仰が融合したものだそうで、
つまり、こんな組み合わせ。

初七日---不動明王、秦広王

二七日---釈迦如来、初江王

三七日---文殊菩薩、宋帝王

四七日---普賢菩薩、伍官王

五七日---地蔵菩薩、閻魔王

六七日---弥勒菩薩、変成王

七七日---薬師如来、泰山王



・・・・・・変換と言うのは便利な機能だ。

自分で漢字で書くと大変だ。



それから

百箇日---観世音菩薩、平等王

一周忌---勢至菩薩、都市王

三回忌---阿弥陀如来、平等王

となっている。種本では(笑)。

○○王と書かれた十王信仰の王さまは
私はなじみがなく、
閻魔王しか聞いたこともない。

こんな仏さまや神さまに守っていただきながら
亡くなった人はお浄土を目指すのだろうか?



義弟は帰るときに 私に
「家の中は 向こうもこっちも
 一応全部 クリーナーはかけておいたから。」
と言う。

びっくり。

マメな義父にマメな亭主。

義弟はそのなかでもノンビリヤと思っていたが
意外なまでにマメな人だった。

私は正直、助かった。

クリーナーと言うのは 
重いものを引っ張って歩く力仕事、
おまけに腰をかがめるので腰痛になる。



私の務め、と思って
お料理だけは一所懸命にさせていただいた。

義母の仏前にも供えた。

お風呂に入っても やはり髪を洗うことはできなかった。

暑いじゃないか!

2006-09-11 | なんでもないこと
きのうは忙しくて その上すごく暑かった。

今朝は起きたときには雨が上がっていたので
息子を駅まで送って帰ってきたら
土手を歩こうと思っていた。

車に乗って出発したら 雨が降り出し、
どんどん大粒になって そのうち土砂降りに!

道路はあっという間に冠水し、
車は水を跳ね上げて走っていた。

駅に着く頃 急に小降りになり、
帰り道では 雲の合間に青空が見えていた。

ラジオでは
今週は30度以上になる日はない、
今日は涼しい、
と言っている。

けれど晴れたらやっぱり
きょうも暑いじゃないか!




今年は 白いガーベラが豊作で 切花にするのに 心を痛めずに済んだ。



何しろ ここは内陸だから 夏は暑い!

もう何年も前になるが
子どもが小さかった頃
家族で日光に出かけたら
寒くて寒くて
私は 車に積んであったバスタオルを被って
離せなかった。

けれど 当地は 
北関東とは言っても 山まではまだ距離があるから
決して涼しくはない。



天気予報を見ていると
関東で一番暑いのは埼玉の熊谷、
それと群馬の前橋・高崎、の辺り。

けれど当地は それらのどこよりも暑い。

まったく、イバラキや東京に住んでいたときには
考えられないくらい、暑い。

気象庁の測量所がないので
世間に知られていないけど、暑いのだ。





今年の夏は 暑かったのだろうか。

暑かった、というムラの人に会った。

9月になってからの残暑も厳しい、と言う人にも会った。

けれど40度を越した日はなかったから
たいした事はなかった、と
私は思っている。

熊谷38度、と予報で言っていた時には
「おお、いよいよ明日は40度か!?」
と思ったが 実際はたいした事はなかった。

熊谷は38度になったんだろうか?



そうして 今日も蒸し暑さに参っているが

(亭主は出かけてしまって 
 散歩にも行けないし)

山茶花が咲いたり 
秋明菊が咲いたりしているところを見ると
確かに秋になっている。





毎年 秋になると始まるDMの準備も
着々と進んでいる。

DMの封筒の色は
私が薦めた黄色が採用されている。(亭主に。)

私が「黄色の時代」だった頃だ、多分(笑)。

けれど 今でも 黄色でよかったのではないかと
自画自賛。

この封筒に
色とりどりの紙を折って 詰めて 発送する。

紙を折るキカイがあるというので
今度それを購入の予定。

何千枚という単位だけれど
けっこう紙を折るのは大変なので。

いい夢を

2006-09-09 | 乳がん
昨日の朝刊の『がんと私』を読み始めて、
私はびっくりした。

私が以前記事に書いた
本田麻由美記者の連載なのだが

骨シンチの画像に 
乳がんの転移を表す黒い点がちらばっている、
と書いているのだもの。

でも それは夢だったんだって。



腰と脚の付け根に痛みとしびれ、
脇の下リンパへの転移の疑い、
マーカー値の急上昇、と続けば
誰だって夢に見るかもしれない。

それでも実際は 
骨シンチの結果は問題ナシだったというから、
本当に、
じゃあ、なぜ、このマーカー値?
と思うけれど。



「命は有限だからこそ、大切に生きたい」
と本田記者は言うけれど、

その前には

「自分なりに満足して死にたい」
とか
「お別れの時に流す曲のリストも作らなきゃ」
とか
「お骨はどうする?」
とか

そりゃあもうさまざまなことを考えたらしい。

遺影を撮った、とは書いてなかったが(笑)。



誰だって 自分の死を 本気にしては考えたくないもの。

だと思う。

できたら忘れていたいし
実際 忘れて暮らしている人がほとんどだと思う。

けれど がん患者には 少しだけ 現実味がある。

もし 再発したら どうするか。

もし 再発して そのあと 回復しなかったら どうするか。



冷静に考えれば 再発・再再発を繰り返しても
今はやたら元気、なオバチャンたちがいることを
思い出すのだろうけれど。

再発・再再発のさなかで
治療を続けながら
その人らしく 生き生きと生きている人たちが
大勢いることも。

でも怖いものは怖いのよね~。



せめて

そんな人たちにも

夢は 柔らかで暖かなよい夢を。

車の色は?(1)

2006-09-06 | なんでもないこと
「空の色」、というよりも
海の、深い青の、メタリックがよかった。

私は「青の時代」(笑)に入っていたし。


kkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkk

画像は、私の得意料理、
「かぼちゃのレンジでチン」(笑)。

いつもこのまま なにもつけないで食べる。

この夏は義父からと 義父の姪から、
あわせて4個のかぼちゃが届いたが
どれも甘くて美味しくて
すっかり食べてしまった。

甘いかぼちゃは 天ぷらよりも煮付けよりも
この「レンジでチン」がいい(笑)。

無農薬とは思えないので
私は皮をむいてしまう。

rrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrr


この春
10万キロを走った亭主のワンボックスを買い換えた。


私はブルー・メタリックがよかったけど、
運転するのは亭主。

ブルーや濃紺はほこりが目立つから、
ということで
亭主が選んだのはグレーだった。

いや、亭主によると、シルバー。

今まで乗っていたワンボックスとほぼ同じ大きさ、
5ナンバーの7人乗り。



前もってわかっていたことだったけど
買ってすぐに新型が出た。

ワールドカップの頃には
中田英寿がTVCMに出ていた。

当然のように、新型のほうがカッコいい。

おまけにCMに使われていたのは、メタリック・ブルーだった(涙)。



シルバーグレイのワンボックスは
私の目にはどうしても
営業マンが販売促進のための商品を山と積んで
お得意先周りをする車に見える。

我が家では販促品は扱わないが
やはり仕事(例の、安いのに出張ばかりの請け負い仕事)で
亭主は 山のようにいろんなものを積んでは出かける。

その上 イバラキの亭主の実家に行き来する回数も増えた。



まず驚いたのは、燃費。

今まではガソリンを満タンにしても
イバラキに行って帰ってくると
「ああ、そろそろガソリン入れなくちゃ。」
と思うくらいガソリンが減っていたのだが

同じ排気量の今度の車は
帰って来ても それほど減っていないのだ!

ガソリンが高騰している現在、
これは大変にありがたい。

(とほさん、20万キロの車の燃費はどんなですか?)



次に驚いたのは 私が運転した時。

娘が私の車を乗り出してからは
しばしば亭主の車を借りて出かけていたが

大きいのは小回りがきかないばかりか
停止車両の脇をすり抜けるのがスリル。

慣れてしまえばいいのかもしれないけれど。

新車は前の車に比べると、
いくらか小回りもきいて はるかに運転しやすい。

駅前まで息子の送り迎えも
(通る道を選び、スピードも控えめにすれば)
ラクラク。

ただ ギアをバックに入れた時に
モニターに映る画像を頼りにバックするのは
なかなか慣れないが。



この車、
実は昨日 亭主が自損・自爆事故を起こした。

例の請け負い仕事で 遠出していたのだ。

たいした事故ではない、
本人に怪我はないし
車も運転してちゃんと帰ってきたのだけれど
今朝 車屋のアニキのところへ置いてきた。

狭い道で あせってハンドルを早めに切ったらしく、
左後ろのドアから かなり大げさに切り裂いてある。

器物破損にはならなかったというから、
そうとう丈夫な相手。

角に 車両が入り込まないように立ててある
マーカーだ、ということだった。

さて、いくらかかることやら。

燃費がよくても こんなことをしていちゃ、
収入よりも高くつくだろう。

キャベツ?ブロッコリー?

2006-09-05 | 明るい農村
これは 
久々に 土手ではなく 
畑道を散歩した土曜日に写したもの。

タクちゃんちの畑に当たる朝日に
愛犬の影が。

キャベツかブロッコリーだと思うんだけど、
それはほぼ間違いないんだけど、

さて、どっちだろう?(笑)

とりあえず、キャベツということにしておこう(爆)。




しばらく行くと 向こうにキャベツ畑(笑)が、
その手前に 何も植わっていない畑が、
一番手前には まだ苗床状態のキャベツが。

これも昨日の朝見たら
全部キャベツ畑に変身完了していた。




こちらの畑は 苗が小さい、せいぜい10センチという高さ。

しっとりと湿った土に 行儀よく並んで
のびのびと根っこを伸ばしているところ。




道路際にはこんな草も。




見上げるような花、腕を伸ばして撮影。



人家のあるところは
土手とは違って やはり人の息遣いを感じて
いつもと違った写真が撮れる。

畑の作物は 土手の上から見るよりも
間近で見た方が 温かみを感じる。

猛スピードで走り抜ける通勤の車が少ない日には
もう少し畑の見回りもしてみよう。

葬儀のあとで

2006-09-04 | なんでもないこと
義母については
「この人が死んだら 
 絶対 初七日より早く
 自分の家に帰ってくるんだ!」
と 強く心に決めていたのに(笑)、

そして 
そんな決心を 荷造りしながら
思い出していたのに、

私は たっぷり一週間は滞在できるように
下着もサポーターも靴下も 
どっさり持ってきていた。


nnnnnnnnnnnnnnnnnnnnnnnnnnnnnnnnnnnnnnnnnnnnnnnnnnnnnnnnnnnnn

写真は 私の夏の得意料理。

「ナスの、レンジでチン」(笑)。

オカカ醤油か カラシ醤油、またはショウガ醤油で。

これからの季節は 皮がコワクなるので
皮をむいてからチン、に変更になる。

ssssssssssssssssssssssssssssssssssssssssssssssssssssssssssssssssssss


けれど 子どもたちの学校のこともあり、
初七日を待たずに
私と子どもたちとは
一足早く 帰ってきた。

フクザツな気分。



亭主は 義父や義弟とチカラを合わせて(笑)
家の中の整理・整頓をし、

葬儀から帰ってきた直後に 
やはり斎場の職員が整えてくれた
義母の後飾りの祭壇を守り、

それから 銀行に郵便局に保険、

ありとあらゆる考えられる事柄を
出来る限り進めるべく
努力した、はず。



これは 予想以上に複雑で大変だったようだ。

この後も 何度も イバラキ行っては
少しずつ進めていったけれど

全部が終わるまでは
数ヶ月かかった。



「人が死んだら、
 最初にやることは、
 局へ行って
 年金だの何だの、
 ぜ~んぶおろしてくることだかんな。」

と 当地で 私に教えてくれた人があったが

それも最近では本人確認がやかましくなって
難しくなっている事と思う。

まして 義母の場合は突然で、
戸籍謄本かなにかを持って
金融機関に赴かなければならなかったらしい。



義母のものに関しては
「いじってほしくない」部分と
「二度と見たくない」部分とがある義父は
最初 二人の息子に任せきりだった。

休日に忙しい亭主と
週末にしか 単身赴任先から来れない義弟とで
少しずつ、少しずつ。

この時、
義弟は 法律的な部分を 予想以上によく知っており、
とても助かった。



たとえば。

前もって聞いていた方法をとって
金融機関に行くと
「それでは 引き落とせません。」
などと言われる。

平日にイバラキに行った亭主が
銀行に行き、
戸籍謄本(または、抄本)はコピーでいい、
と確かめておいて

次に 義弟が 休暇をとって平日に
コピーを持って引き落としに行った時に
「ダメ」が出たことがある。

義弟が
「戸籍謄本を身分の確認に提出することについては、
 法的根拠はない。

 そちらが最初にコピーでいい、と言っていたのだから
 これでいいはず。」

と言うと
それでやっと通った、ということがあったそうだ。

そうでなければ
もう一度 役場に行かなければならない。

そうでなくても 
役場と実家を何度も行ったり来たり、

短期間になにもかも、は とてもできなかった。



兄弟がふたりいて良かった、と私は思った。

これが 亭主だけでも 義弟だけでも
とても大変だった。

私たちの年代からは
子どもの数は ほぼふたりと決まっていて
(保健所の指導の影響があったのではないか、と
 私は想像している。)

多くて3人、少なければひとり。

ふたりで協力してさえ これだけ大変なものを、

仲たがいしていたり 一人っ子だったりしたら
どれだけ大変だろう。



それから
義母の入所当初からの
亭主と義弟の責任感。

ふたりの嫁は
同居していないこともあったが
あくまでも 助力であり、

面倒を見るのは
子どもである亭主と義弟が 
義父とともに行う。



これは
長男気質の亭主からは到底ありえないことで、
義弟の法知識のおかげだと思っている。

あるいは 私ががん患者であることや
仕事に定休日がないこと、

あるいは 義妹の親がもう以前から
末期の癌で闘病中であること、

そんなことのせいもあったかとは思うが

親の面倒を見るのは 子ども、

それを配偶者は 影から支える、

それが出来ていたので
無理をしなくて済んだ。



一番大変だったのは

日本海側に単身赴任中で
豪雪の雪かきをしながら仕事に行ったり

電車賃をかけて はるばる実家に帰ったりしていた

義弟だったかもしれない。

畑?田んぼ?

2006-09-02 | 明るい農村
もう2週間くらい前になるが
Sさんからごぼうをひと箱いただいた。

なんでもお友達が作っているのだそうだ。

いくらお友達でも
このひと箱では ただじゃあないだろう(笑)。



おお!この家紋!

どこかで見たような。。。

確か 足利氏か 新田氏の家紋だと思う。

JA新田郡? じゃあ、新田氏かな?



とにかく とんでもなくたくさんいただいたし
亭主が実家に行くというから
どっさりのきんぴらを作って持たせた。

普段の私にはあり得ないくらい どっさり作った。

さすが、新ごぼうは 柔らかくて美味しい!

いつもイマイチだったのは
ごぼうが悪かったんだワ!(笑)



この時に Sさんがおっしゃっていたのだが
この美味しいごぼうを作る友達の
ごぼうを作付けしてある 特に低い土地の‘田んぼ’が

今年の梅雨の時期に
すっかり水をかぶってしまい、
全滅してしまったのだそうだ。

友達のごぼう農家は
他にも何枚もごぼうの‘田んぼ’を持っているので

別の田んぼのごぼうが出来上がるのを待って
ようやく遅れていた収穫をすませたものを

我が家に持って来てくださった、というわけ。



ごぼうの畑は‘田んぼ’と呼ぶのか。



ごぼうは 
私が当地に来て
何の畑か見当がつかなかった作物のひとつ。

でも どう見ても あれは畑で、田んぼじゃなかった(笑)。

どちらかというと
ネギ畑の方が 見た目は田んぼに近いかも。



ともかく、新ごぼうは オススメ。