私たちが本当に努力しなければならないこと
私たちは美しい外見やいい家、高級車、ブランドの服やバッグを持つために多くの金銭的、時間的な投資をするでしょう。ですが、そのように目に見えることではなく、正確な自分の幸福の根幹に至る「いい関係」のためにはいくら投資しますか。
事実、私たちが暮らしが少し苦しくとも、自分の周囲で自分の価値を知ってくれて愛情のにじんだ関心で応援してくれたら、そんな人が自分のそばに居ると言う事実だけでも大きな幸福と人生の勇気をもらいます。
その人と反対にどんなに物質的にいい環境と条件を持っていても、人間関係ですれ違いがはじまると、とても苦しくうつ病にでもかかって、時には苦しんだあげく自殺までも考えるようになる。
もし、あなたが美しい外見やいい家と高級車、ブランドのバッグを手にするために努力していたならば、これに負けないぐらいいい人間関係を結ぶためにもやはり多くの努力をしなければならないのではないですか。なぜならば、何の努力もなくいい人間関係がひとりでに形成されることはないからです。そうならば、どうすればいい関係の中で生きていけるでしょうか。どうすれば人と幸福な関係を長らく結ぶことができるでしょうか。
私が20代の時、本当に親しい僧と同じ戒を受けて15日ぐらい旅行に出かけて事があります。本当に中がよい関係なのか、何の心配もなく旅行を始めました。一週間ほどたってみると、あんなにいい僧なのに一緒に旅を続けるのが苦しくなりました。だから、日中は互いに別々に旅行をし、夕食時また会うことにしました。私の心に気づいたその僧もやはり、快くそうしようと言ってくれました。そうやって別々に旅行をしてみると心理的にも安定していき、昼には一人見て回りながら、二人が見て回ったところの長点もまた話すことになり、今日一日自分にあったことを夕食を食べながら話をすると、寂しくなくよかったです。
以後、悟りました。関係の基本の心構え、一つ目として、人ひとりひとりを暖炉を扱うようにしなければならないということです。暖炉にあまりに近づくと暖かいどころか厚くてだめで、大きなやけどをすることになります。反対にあまり遠いと暖炉の存在があるのかないのかもわからなくなるだけでなくとてもひんやりして寒くなります。
すなわち、いくら気持ちがよく合う人でもいっても、あまり長い間べったりとくっついていると事故が起こります。はじめには本当によかったのに、密着した関係が長くなるほどだんだんいいこともわからなくなるだけでなく、わずらわしい感じと拘束された幹事が生じます。こんな場合、互いの間に心理的空間を与える時間が必要です。これは非常に親しい友達とか、愛する恋人、世の中で最も大事な家族の間にでも該当します。
二つ目、人との関係の中で今、つらい瞬間にいると思っていたならば、この話を覚えておいてください。
「頭を下げるとぶつかることはない。」
この言葉は朝鮮の祖、孟思誠に、ある高僧が与えた教えです。19の時科挙に主席で合格し、20歳の時に郡守に上がった、優れた学識の孟思誠は若い時に高い地位に上り自惚れた気持ちでいっぱいでした。そんなある日、孟思誠はその地域で有名な禅師を訪ね聞きました。
「お坊さまの考えでは、この地域を治める人として私が最高としなければならない座右の銘は何だと思いますか。」
すると、僧は答えました。
「それは難しくありません。悪いことをせず、善い事をたくさん施せばいいのです。」
「そんなことは3歳の子供でもわかることです。遠いところ訪ねてきた私にいただける言葉がたったそれだけですか。」
孟思誠は傲慢に言って席を立とうとしました。すると、僧は茶でも一杯飲んでいきなさいといいました。ところで、僧は孟思誠の茶碗にあふれるほど続けて茶をいれるのでした。これは何のまねだと声を荒げた孟思誠に僧は言いました。
「茶があふれて床をぬらすのがわかって、知識があふれて人格をだめにしているのがどうしてわかりませんか。」
恥ずかしくなった孟思誠はあわてて立ち上がり戸をあけて出て行こうとして鴨居に頭を強くぶつけてしまいました。すると僧がにっこりと笑って言いました。
「頭を下げるとぶつかることはありません。」
生きながら自分を苦しくする人との関係は、実は多くの場合自分が自分を低くしたら難しくなく、事が解決します。しかし、私たちはその取るに足りない自尊心のために絶対に負けようとせず、頭をあちこちに立てて自尊心対決を繰り広げます。自分を少し下げるとすぐ解決できることにもそうやって戦うから長い時間心の苦労、体の苦労、時間の浪費をすることになるのです。また、是々非々を分ける間、いろいろな人を争いの中に引きずり込むことになり多くの人の心もまた煩わしくして傷つけるのです。
一例を挙げると、私のような場合、誰かが私に近づいてきて「果たして誰の宗教が正しいのか、一度私と論戦をしてみましょう。」と言ったならば、私はその人の言葉を傾聴した後「はい、自分がよくわからなかった部分を教えてくださりありがとうございます。」と言います。こうすれば、論戦は長くなりません。その場でどれ、一回やってやろうじゃないかと言う心で論戦に加わったら、もし勝ったとしても結局自分の心がつらくなり、相手側も自尊心が傷つき私の宗教に対して理解よりは憎しみだけもっと大きくなります。
最後に、よい関係を作るためには、自分が他の人から、どのような援助や贈り物、賞賛、などを受けたらその感謝を忘れずに、どんな形でもいいから恩を返さなければならないと言うことです。
私たちの人生を見てみると、終わりない「与えて受け取ること」の連続です。一般的に「助け」だと思う金銭的な助けだけではなく、心で、行動で、互いに助けを与えて受け取りながら生きています。しかし、誰かに何かをあげたのに、それに対する感謝する回答さえ受け取れないならば、相手に何か無視されたような感じがして、だから、関係がこれ以上深くならない場合が時々見られます。反対に、何かをあげたのに、相手がとても感謝したという感じを受け取ったならば、私たちは次にまた何かを助けてあげることがないか心を配ります。
こんな「与えて受け取ること」が多くなればなるほど私たちの関係は篤くなり深くなります。何を与えて受け取ったのかが重要ではありません。互いの間に行ったり来たりするものがあったという事実自体だけで関係はとても特別なものになって暖かくなります。
個々人は育ってきた環境が違って経験も違い、情緒と性格もみな違います。そんな人々が関係を結んで生きていかなければならないことは思ったよりも簡単ではないことです。しかし、目に見える外側の条件に投資して培っていくように、人間関係という幸福の必須条件を培う努力をしなければなりません。寶王三昧經にも「他人が私の意思に従って従順であることを期待するな」とあります。自分の意思通りになれば、自ら驕慢になりやすいので、自分を苦しめる人がみな自分に教えてくれる師匠だと思って、賢く生きなければなりません。
今日一日、あなたを苦しめた人も、あなたの師匠であり、あなたを喜ばせた人もあなたの師匠です。