
幸せで
意味のある人生の
ために
「完全にだまされた。」
80年代末、私が高校に入学して1ヶ月経つ前に私は私の生涯で最も大きな失望と怒りを経験した。中学校の時には先生が言ったとおりに一生懸命やって前項で1、2等ではなくてもよくできるグループに入っていた。だから私は担任の先生に他のクラスの友達のように外国語の高校へ進学してもいいかを尋ねた。だが、先生からは外国語の高校はストレスが多いから、一般の高校に進学したらどうかと言われた。だから、私はその言葉に従ってソウルの江北にある、一般の高校へ行くことにした。
高校に入学してクラスの割り当てを受ける前に私は第2外国語をドイツ語にするか、フランス語にするか、また、理科系か文科系か選択しようと質問紙をうけとった。当時、知りあいの兄さんの助言によると、その学校は伝統的に「理科系、ドイツ語クラス」が成績がいいと言った。私は適性が理科系ではなく文科系に近かったと思ったので適性も考えて成績も考慮して「文科系、ドイツ語クラス」を選んだ。しかし、入学式初日、新入生を運動場に立たせてドイツ語の先生が出てくると、本人はドイツ語よりもフランス語が世の中でより有用に使われていると考えていて、本人がいくらドイツ語の教師だとしても、自分の子供たちにだけにはフランス語を教えようと思うと45分間フランス語礼賛論を繰り広げた。実は、レックペソン、レオカラッス、チャンジャク、ペネクスのような監督の作った映画がとても好きだった私は、再び先生の説得力のある話に折れてフランス語に代えてしまった。
そうやって私はだまされた。とうとうクラスが決まってみると現実は違っていた。
15クラス中フランス語のクラスは2クラスしかなかった。予想したとおりその2クラスは成績が一番低かった。この事実を授業に来る何人かの先生によって再び確認させられた。先生、自らも江南にある8学区ではない江北ははずれにある学区で学生に教えるという事実がいやだったのか、いつも私たちを、川を越えた向こうにある学校の子供たちを際限なく比較した。何人かの先生に何回も同じ話を繰り返して聞いていると、私たちのクラスの子供たちは自分たちでも知らないうちに高校1年の1学期から敗者としての烙印を押された気分になった。私は先生がやれと言うとおりに従っただけなのに、結果はスタートからずっと後ろにいる感じでなぜかだまされたと言う感じを消すことができなかった。まるで規則をよく守って先生の話をちゃんと聞いたら馬鹿扱いを受けて、すばやく住所を移して8学区に移るか、先生のどんなっ粗衣にも乗らなければ賢く能力がある人として扱われると言う雰囲気だった。
しかし、自分の失望は始まりにすぎなかった。高校生活が過ぎていくと入試教育が教えてくれた失望は、単純に学校が少しよくない、でなければ他のクラスに比べて自分のクラスの成績が落ちるという点以上のものだった。朝7時30分まで登校して夜10時自律学習を終えて疲れた体で読書室に向かいながら、自分が今暗記しているこの多くの知識が自分の人生にどんな意味と助けをもたらすのか全く納得することができなかった。
私がどうやって考えてどんな才能があって、どんな夢を持っているのかは徹底して無視され、ただ、先生が与える知識をどれだけ早くスポンジのように吸い取るか、ゲームをしているようだった。
はじめての冬、ストーブを焚く学校の煙突に豆炭を燃やす煙がもくもくと上がっていたのだが、その光景を見ていて、自分がまるで学校ではなく工場にいるような思いもした。冷たいコンクリートの教室の床、入試をあきらめた子供たちに対する先生の仕打ち、固く閉じられた校門、順位で判断される子供たちの価値、音楽と美術は無視され、同好会活動は時間の浪費だった。
まるで学校は定型化された機械から私たちを同じように打ち出そうしているようで、その定型から少しでも外れるとその学生はすぐに不良品扱いを受けるようだった。私は学校の勉強でなく人生の総体的な質問に悩んでいたのに、そんな悩みをするということ自体が障害になる入試教育の枠から抜け出し、不良品として烙印を押される道だった。その後ある瞬間から、息が止まるわが国の教育環境から抜け出す決心をして、紆余曲折の末、アメリカに一歩を踏み出した時は監獄とも同じだった工場からやっと脱出した感じがしただけだった。
しかし、私がアメリカで教育を受けてまた、現在のアメリカで大学生に教えている教育者の立場だといってアメリカの教育がより優秀だとか、わが国の教育の現実を悲観してみたくはない。与えられた情況が異なり、歴史、言語が違うのに無条件にどんな方式がいいとか悪いとかいうことは理知に合わない。ただ、今、息が止まる現実から今でも奮闘している多くの学生にしてあげたい話がいくつかある。
一つ目、他の人が自分の価値を順位や点数をつけてそれを強要しても、自分自らがそれを受け取らなければ、それは何の意味もないことだ。個々人の尊厳の価値は、他の人が何か言ってもひたすら自分だけが自ら定義できるからだ。勉強というただひとつの基準で人全体の価値をつけようとすること自体が実は愚かなことだ。誰かが自分に対して評価しようとしたら、鼻先であしらって考えなさい。「私の価値は自分が知っている。」
2つ目、自分の幸福を他の人と比較して測定しようとしたら、絶対に幸福にはなれない。私の尊敬する僧がしてくれた話だ。「世の中は下を見ると自分よりできの悪い人たちがいっぱいで、また、上を見ると自分より優れた人たちがいっぱいだった。」世の中には点数が高い人、条件のいい人が数多く存在する。だから、そんな人たちだけを心においてそれを幸せの価値だと思ったら、私たちは死ぬときまで幸福を見つけることはできない。ずっと誰かと比較しながら「私は幸せだ;」と感じるからだ。人を考えないで意識しないほど、私たちの幸福指数は高くなる。
三つ目、自分の人生の方向舵を自ら握って行こうとする勇気が必要だ。他の人が決めてくれた人生の地図をそのままについていったならば少しは安全だろうが、自分が自分の人生の主人になることができない。自分の人生を生きたいならば他の人が何と判断して話をしようと、勇気を出して自分の道を自ら探さなければならない。
四つ目、他人の考えを踏襲することにだけ時間を費やさず、その考えを自分が、またどうやって考えるか繰り返して考える練習をしなさい。他人の考えそのままに受け入れることは、自分が知識の主人になれないということだ。そんな知識は何の意味もなく、使い道もない。有名な人が言う言葉だから、自分よりも多く学んだ人の言葉だから、こんな考えでただ受け入れないで自ら疑って問いただしてみなさい。
最後に、本当の幸福を望んだならば、他人が教えてくれたり、やらせるのでどうしようもなくてやることではない、自ら意味があって好きだということを探してやりなさい。両親も先生も、誰も自分の人生を代わりに生きてくれることはできない。人生の大部分の時間を「他人の意思」に引きずられて生きるのか、それを決められるのはただ、自分だけだ。自分自身が何を本当に望んで、また、何をしながら意味を感じるのか、自ら見つけてそれをやりなさい。
以前の私のように彷徨して苦しんでいる若い人たちに、小さい慰めでもしてやりたいこの頃だ。