11月1日
憎いと思う感情をなだめること
を直しました
憎いと思う感情をなだめること
親しい人と共同経営していたところ、関係が壊れて、金を貸してやって、返してもらえず困難にぶち当たる人が多い。この世に二人といない程に親しい間柄で過ごしたのに、敵になってしまう場合だ。近い関係であればある程、互いに憎んで傷つけあうことが起こる状況はアイロニーだ。心理学ではこれを「ホジョディレマ」と言う。前歯が丈夫で背中と尻尾にとがった棘のある豪猪という動物からでてきた言葉だ。互いに近づけば近づく程に、前歯と体のとげで相手を刺す姿が人間に似ているようだ。誰かをよく知っていると言う考えが、親密感を形成するが、度が過ぎると怒りになることもある。
憎い人や憎い上司が生じた時、どうしなければならないか。腹の中を煮えくらかえしているのか。憎い感情をうまくなだめることができなかったら、自分だけでなく隣人にも悪い影響が及ぶ。誰かを憎いと言うことは、誰かに深い関心があると言うことで、関係を結んでいるということだ。だから、憎い感情が吹き上がる時は「あがき」を選んだらどうか。少し関心を抑えて、少し引き下がる自負心を持ってみることは、自らを激励して自尊を立てて、なぐさめられる。少し引き下がったとしても、負けたことではない。引き下がって少し離れていることは、自分の中の狭い監獄を抜け出すことだ。誰かが憎いということは、自分の感情に監獄を作ることだ。自ら作った憎しみと言う監獄に、心を閉じ込める必要があるのか。自分が堂々と正道を歩いたのに、憎い感情が生じたならば、自分が憎まなくてもいい。その人は自分が憎む以上に天が答えてくれるはずだ。より憎まないように感情をなだめるつらい努力を選んだならば、よくやっているのだ。憎むことを選んだ時より、自分をより成熟させてくれるからだ。憎い感情を持つと、一番被害を受けるのは憎む相手ではなく正に自分自身なのだ。
私達は一生涯の間に、多くの人と関係を結んで生きていく。近くていい関係もあり、近くに生きているが快くない関係もある。反面、遠くにいても、いつもそばにいる人のように親しい場合もある。本当に良い関係は、互いに深い関心を持って愛して生きていく関係だ。自分のもの、自分のものと主張することなく、いつでも必要ならば求めることのできる関係、相手がくれと言う前に、その必要を知って充たしてやることができる関係が、本当の良い関係だ。何であろうと、いつも与えたい人がいるならば、その人は幸福な人だ。関心と愛情を傾けて生きると言うこと自体が、人生の意味を持ってくれるからだ。万一、愛を施したい人、会いたい人、話をしたい人が多いならば、その人は本当に幸福な人だ。
人間は関心と愛の深い関係の中で、自分の存在を確認することができる。再び出会ったならば、この世にいるべき理由が何かを悟ることができる。しかし、人は大概それと反対の方法で存在を確認しようとする。他人が自身を知ってくれて認めてくれることを願う。だから人は自分の存在を知らせようといろいろな方法を動員するのだ。