私たちは心と言う窓を通してだけ世の中を知ることができます。
心が騒がしければ世の中も騒がしく
ここrが穏やかならば世の中も穏やかです。
だから世の中を変えること以上に重要なことが
自分の心を理解することです。
体をもみくちゃにして地下鉄の中に入っていきました。
前後ろ、横、人でいっぱいでした。
この瞬間、心が嫌気を出すこともあり
はは、つり革をつかまなくてもいいな、と面白がることもできる。
同じことが起きているのに人はこのように反応が違います。
なぜならば、世の中が自分を苦しめるのではなく、
わかって見ると心が自分を苦しめているからです。
津波が恐ろしいのは海水ではない
水の中に流されてくる物のせいです。
竜巻もまた風のせいで死ぬことよりも
風に吹かれて飛んでくるものに当たって怪我して死ぬのです。
私たちが苦しいのは
私たちに起きた状況のせいではありません。
その状況に対して起こされた落ち着かない想念のせいです。
気分の悪いことが起こりましたか。
黙っておいておくと自然になくなることを
心の中にずっとおいて置いて、再確認してはいつくばって
その感情の波をより大きく増幅させないでください。
流れる感情の波を消えることができないくらい増幅させたら
自分だけが苦しいです。
フライパンにくっついた食べ物のカスをとるためには
水を入れてただ待てばいいのです。
そうやって時間が過ぎればひとりでにはがれてきます。
つらい傷を無理やりはがそうと身をよじらないでください。
ただ、心のフライパンに時間と言う水を入れて待てば
ひとりでにいつかはがれてきます。
満足することを知ると
自分自身を苦しめながらやる奮闘を休むことができます。
満足することを知ると
今、時分の前にいる人と、今この時間楽しむことができます。
満足することを知ると
仕事が終わっても心に何のカスも残っていません。
本性を悟る心の勉強の方法は、
何かをいつも学んでやることではなくて
正反対に「休んで、また休む」です。
完全に休んで空っぽになった時
考えを起こす心の根本体質と熟知としてぴったり会うことができます。
心の勉強は一般の勉強とは正反対にしなければなりません。
一般の勉強は知らないことを学んで知識として充たしていきますが、
心の勉強は反対に「知る」と言う考えを休んで、また休みながら
がらんと空いたままですでに充満した心の場を照らすものです。
今、おかれている状況をどう努力しても変えることができなかったなら
その状況を眺める自分の心を持ち方を変えてください。
そうしてこそ幸福です。
元々、悪いことも、元々いいこともありません。
自分の心の相を持って、世の中を眺めると
いいこと、悪いことが生じているだけです。
心が忙しければその忙しい心に気づきなさい。
心が嫌気が差したら気やけがさしていることに気づいて
怒っているならば怒っている自分の心に気づいてください。
気づくことは、忙しさ、嫌気、怒りに染まらず
知る瞬間にその状態から抜け出すことができるのです。
なぜならば、知る作用自体は本来純粋であるからです。
本当にそうなのか、直接やって見てください。
体であれ、心であれ
空になるとさっぱりとして穏やかになります。
反対に
中に長い間しまっておくと
体であれ、心であれ
病気になります。
何でも空にしてこそいいのです。
体の中に毒素が積まれるように
心の中に苦痛、憎しみ、絶望、悲しみが積まれると
毒素のようなしこりが生じ心の病気になってしまいます。
その毒素を運動で、相談で、意に利で、懺悔で
覚めて眺める瞑想で解かなければなりません。