映画 ご(誤)鑑賞日記

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『キャンディ・キャンディ』に思う[3]

2021-11-12 | 映画雑感

『小説キャンディ・キャンディ FINAL STORY』から感じること① ~その2~

 

 

 この記事では、便宜上、マンガ『キャンディ・キャンディ』を「正編」『小説キャンディ・キャンディFINAL STORY』を「小説F」と表記しています。

 また、“あのひと”が誰かを考察する趣旨ではありません

 

~小説Fをお好きな方は、以下お読みにならないでください。読まれるならば自己責任でお願いします。~

 

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>>>>[2]からの続き

 

◆セリフを“いじる”

 また、正編から小手先としか思えないセリフの言い回しの変更が見られるのも残念。そこを変える必然性ってある?というのが目につき、変えるではなく“いじる”という印象だ。

 例えば、テリィが聖ポール学院を去りアメリカへわたる際にキャンディへ当てた手紙の文言。

 正編「キャンディ/ぼくは学院をやめてアメリカへいくことにした/やりたいことがある/どこにいてもきみのしあわせをいのる/テリュース」
 小説F「キャンディ/ぼくは学院をやめてアメリカに行くことにした。やりたいことがある。/どこにいてもきみの幸せを祈っている/テリュース」《下巻p.135》

 些末なことの様だけど、「きみのしあわせをいのる」と、「きみの幸せを祈っている」ではニュアンスが変わる。英語だと、多分どちらも「I pray for your happiness」なんだろうが、正編の方が決然としたものを感じる。何より、文体として流れが良いのは明らかに正編だろう。小説Fのは“字余り”感がする。

 ちなみに、正編では「きみのしあわせをいのる」は、何度かキャンディがテリィを思うときに繰り返し出てくる文言であり、結構重要なフレーズ扱いだった。だから私の記憶にも深く刻まれたのであり、ここを敢えて変えた原作者の意図が全く理解できない。

 “言葉尻くらいで目くじらを立てるな……”と思われる人もいるだろうが、セリフの言葉尻ほど大事なものはない。この言葉尻は、それを語る人の人物像を表す重要なファクターの一つだ。脚本家の大石静氏が、以前エッセイだったかTVのトークだったかで「言葉尻を脚本から勝手に変える役者は好きじゃない」という趣旨のことを言っていたが(ちなみに彼女は役者が変えても文句は言わないといっていた気がする)、それはそうだろうな、と感じた。セリフは、ライターが考えに考えて書いているのに、役者がどういう根拠で変えたにせよ、ライターに相談なく変更するのは、ライターへの敬意が希薄な気がするね。物語を紡ぐというのは、神経も思考力も消耗させるものなのだ。それでも大石氏が役者に文句を言わないのは、役者が演ずることもまた、創造の一環だと理解しているからだろう。創造とはそれくらい敬意を持って尊重されるべき行為なんである。

 でも、小説Fでの改変は、原作者自身の手によるものだ。だからこそ、余計に分からない。正編より良くなっているのなら分かるけど。まあ、正編より悪くなっていると感じているのは少数派なのかもしれないけどね……。

 あとドン引きしたのは、キャンディの悪口を吹込みに来たイライザにテリィが言い返すシーンのセリフ。

 正編「ご忠告ありがとう/ついでにあの子にぼくのことも忠告してやってくれないか/テリィは たばこお酒は人なみ以上/けんか数十回規則違反数万回の不良だとね」
 小説F「ご忠告、ありがとう。ついでに、おれのこともあの子に忠告してくれないかな。テリィは、喫煙、飲酒、万引き、喧嘩、お手のもの。規則違反なんて数万回の不良だってね」《下巻p.107》

 ……「万引き」って。喧嘩や規則違反とは、まるで別次元のことやん。イライザがキャンディは盗みグセがあるなどと言ったことへの当てつけだとしても、、、である。キャンディが盗みを働いたこと(実際はイライザの捏造だが)は正編でもテリィにチクっている。これ、テリィを思いっ切り貶めているではないか(気にならない人はならないかもだが)。そして、この改変も、やっぱり言い回しの流れが悪くなって、“字余り”感が漂う。

 というか、こんな風に“いじる”姿勢に、もの凄く嫌らしさを感じるのだ。

 こういう嫌らしさは、小説F全編を通してひしひしと感じる。確かに、正編の作画者に対して第三者からは計り知れない嫌悪感を抱いている原作者として、無理からぬ心情であることは理解できる。けれど、正編を愛する読者には与り知らぬ話。

 ハッキリ言って小説Fは、そもそも小説として非常にお粗末(中身スカスカな一方でマンガの余白を過剰に説明しウザい。特に下巻)である。正編を読んでいることを前提に書かれているとしか思えない。正編の存在がなく、小説Fだけが世に出たと仮定して、一体どれだけの人の心に届くだろうか。これは著者の執筆姿勢としていかがなものか。甘え若しくは怠慢なのでは?

 少なくとも、小説Fだけを読んだら、私は絶対テリィを好きにはならない。むしろ嫌いかも。それくらい、正編とのキャラの乖離に苦しむ。そして、そのキャラのほとんどは、前述してきたような彼の“セリフ”に負っている。キャンディの魅力も色褪せているように感じるけれど、私はもともとキャンディのことは好きでも嫌いでもない(というか、少なくとも友達になりたい人ではない)ので、ガッカリ度は小さいのが救いかも。

 原作者は、裁判を通じて作画者によって正編を傷物にされたと思っているだろうが、私の目には、小説Fを上梓したことによって、原作者も同じ轍を踏んだ、と感じている。

 とはいえ、これは原作者だけの罪ではないのだよな、、、多分。

 

 

>>>>[4]に続く


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