今どき、「義理と人情」などという言葉をもちだすなんて、奇異に思われるかもしれません。
わたしたちが学生の時分には、東映が「任侠映画」路線をとっていた時代で、多くの「任侠映画」が創られておりました。
私なども友人と連れ立って、当時池袋にあった文芸座に出かけ、それらの深夜興行を観たことがあります。
さて、今日の話題はそれらの任侠映画で扱われていた「義理と人情」に関することです。
この「義理と人情」の言葉から、義と人を取り去ると、「理と情」になります。
「理と情」とが漢語であるのは文字を見れば、わかります。
「理」は漢語では、「理屈、原理、真理」などのように使われているように、「ことわり」を意味します。
「ことわり」とは存在することや事象が起こることへの、その原因や「なぜ、それが発生するのか」の起因を考えることです。
一方、「情(じょう,なさけ)」は物を見た時に美しいと感じたり、ヒトの容姿や振る舞いに親しさを感じる心の働きです。
「情」は「恋慕の情」などと使われることもあるように、実は個的な「心の働き」と理解することが出来ます。
「理(ことわり)」はそれに対して、個よりはもっと広く公(おおやけ)としての意味を持っています。
それは「理」が人々の多くが「納得できるだけの事由」を説明できなければならないからです。
任侠映画では主人公を慕っている女性の心情を分かっているにも関わらず、敵陣に単身で行き相手側と対決します。
その結果は多勢に無勢なので多くの場合は敗北に終わります。
此処での主人公がとる行動の意味を考えてみましょう。
大勢の敵方に単身で切り込むことは、常識的に見れば勝つ見込みが少ないのは明らかです。
勝つ見込みのないことを分かっている事を「理」と考えることにします。それは勝てないことが「理屈」で理解できるからです。
そして、その主人公は単身で切り込めば「死が待ちうけているので行かないでくれ、という女性の心情」をもわかっている事とします。
これも「理」と解釈することが出来ます。
それにも関わらず、単身で敵陣に向かう行動を支えるものは何なのでしょうか?
映画「唐獅子牡丹」で主人公は主題歌を次のように唄っています。
「♬ 義理と人情を秤にかけりゃ、義理が重たい男の世界 ♬」と。
次の物なども参考になるかと思いますが、かってこんなポスターがありました。
1968年の東大駒場祭でのポスターです。このポスターの作者は橋本治という人で、東大在学中のものです。
彼はその後、小説家として活躍しております。
このポスターにも任侠映画の影響を見ることが出来ますね。
当時の世相をうかがい知るのには、うってつけと思い載せてみました。
「情」に訴える母親の姿に対して「とめてくれるな、おっかさん」と言っているのです。
任侠映画やこのポスターからは「情は理とは異なる位相での人の心の働き」とみることが出来ます。
「理」と「情」とでは人間が持つ全く異なった思惟の活動なのだと思われます。
にもかかわらず、人は「情」を持つこともあり、また「理」によって、行動することもあることを示しています。
昨今、週刊誌やマスコミ上で芸能人などの「不倫行動」が明らかにされる事を眼にします。
「恋慕の情」という本来ならば「個的な心情の働き」がマスコミなどで明らかにされてしまうと、その人たちの行動は、たちまち「公的な性格なもの」となってしまっているのです。
これは理屈から考えても、私などにはどうにも合点が行きません。
個人たちの自由意思で行ったことに対しては、それの「釈明会見」などというものを行う必要があるのかが、不思議に思うのです。思慕の情などは、どう考えても「個的」な事柄です。
「個人が行ったことはその当事者の自己責任である」のが民主社会の基本的なルールのはずなのに、昨今の社会現象を見ると、どうもそのようには機能していないように思われるのです。
フランスのある大統領がやはり不倫問題が明らかにされた事がありました。
その時その大統領は「それが、どうした?」と言ったと伝えられています。
どうも、日本人の今の社会現象には、大衆が持つ不満足なエネルギーを解消する手段として「不倫問題」が取り上げられているような気がするのです。
社会学者に言わせれば、社会の成員の中に不満足な部分があれば、それを解消しようとする「無意識的な現象が発生しがち」であるとする考えがあります。
言葉を変えれば「スケープゴートが表れること」を期待しているのかもしれません。
「理」はいろんな考えを巡らせば「ある程度まではわかること」に属します。
それに対して「情」のほうは「なぜかわからないところ」にあるようなので、こればかりはどうにもならないのでしょうね。
本日の記事は表題とはいささか離れた結末になってしまいましたが、ご容赦を!
わたしたちが学生の時分には、東映が「任侠映画」路線をとっていた時代で、多くの「任侠映画」が創られておりました。
私なども友人と連れ立って、当時池袋にあった文芸座に出かけ、それらの深夜興行を観たことがあります。
さて、今日の話題はそれらの任侠映画で扱われていた「義理と人情」に関することです。
この「義理と人情」の言葉から、義と人を取り去ると、「理と情」になります。
「理と情」とが漢語であるのは文字を見れば、わかります。
「理」は漢語では、「理屈、原理、真理」などのように使われているように、「ことわり」を意味します。
「ことわり」とは存在することや事象が起こることへの、その原因や「なぜ、それが発生するのか」の起因を考えることです。
一方、「情(じょう,なさけ)」は物を見た時に美しいと感じたり、ヒトの容姿や振る舞いに親しさを感じる心の働きです。
「情」は「恋慕の情」などと使われることもあるように、実は個的な「心の働き」と理解することが出来ます。
「理(ことわり)」はそれに対して、個よりはもっと広く公(おおやけ)としての意味を持っています。
それは「理」が人々の多くが「納得できるだけの事由」を説明できなければならないからです。
任侠映画では主人公を慕っている女性の心情を分かっているにも関わらず、敵陣に単身で行き相手側と対決します。
その結果は多勢に無勢なので多くの場合は敗北に終わります。
此処での主人公がとる行動の意味を考えてみましょう。
大勢の敵方に単身で切り込むことは、常識的に見れば勝つ見込みが少ないのは明らかです。
勝つ見込みのないことを分かっている事を「理」と考えることにします。それは勝てないことが「理屈」で理解できるからです。
そして、その主人公は単身で切り込めば「死が待ちうけているので行かないでくれ、という女性の心情」をもわかっている事とします。
これも「理」と解釈することが出来ます。
それにも関わらず、単身で敵陣に向かう行動を支えるものは何なのでしょうか?
映画「唐獅子牡丹」で主人公は主題歌を次のように唄っています。
「♬ 義理と人情を秤にかけりゃ、義理が重たい男の世界 ♬」と。
次の物なども参考になるかと思いますが、かってこんなポスターがありました。
1968年の東大駒場祭でのポスターです。このポスターの作者は橋本治という人で、東大在学中のものです。
彼はその後、小説家として活躍しております。
このポスターにも任侠映画の影響を見ることが出来ますね。
当時の世相をうかがい知るのには、うってつけと思い載せてみました。
「情」に訴える母親の姿に対して「とめてくれるな、おっかさん」と言っているのです。
任侠映画やこのポスターからは「情は理とは異なる位相での人の心の働き」とみることが出来ます。
「理」と「情」とでは人間が持つ全く異なった思惟の活動なのだと思われます。
にもかかわらず、人は「情」を持つこともあり、また「理」によって、行動することもあることを示しています。
昨今、週刊誌やマスコミ上で芸能人などの「不倫行動」が明らかにされる事を眼にします。
「恋慕の情」という本来ならば「個的な心情の働き」がマスコミなどで明らかにされてしまうと、その人たちの行動は、たちまち「公的な性格なもの」となってしまっているのです。
これは理屈から考えても、私などにはどうにも合点が行きません。
個人たちの自由意思で行ったことに対しては、それの「釈明会見」などというものを行う必要があるのかが、不思議に思うのです。思慕の情などは、どう考えても「個的」な事柄です。
「個人が行ったことはその当事者の自己責任である」のが民主社会の基本的なルールのはずなのに、昨今の社会現象を見ると、どうもそのようには機能していないように思われるのです。
フランスのある大統領がやはり不倫問題が明らかにされた事がありました。
その時その大統領は「それが、どうした?」と言ったと伝えられています。
どうも、日本人の今の社会現象には、大衆が持つ不満足なエネルギーを解消する手段として「不倫問題」が取り上げられているような気がするのです。
社会学者に言わせれば、社会の成員の中に不満足な部分があれば、それを解消しようとする「無意識的な現象が発生しがち」であるとする考えがあります。
言葉を変えれば「スケープゴートが表れること」を期待しているのかもしれません。
「理」はいろんな考えを巡らせば「ある程度まではわかること」に属します。
それに対して「情」のほうは「なぜかわからないところ」にあるようなので、こればかりはどうにもならないのでしょうね。
本日の記事は表題とはいささか離れた結末になってしまいましたが、ご容赦を!
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