表題の言葉は種田山頭火の句である。山頭火は漂泊の俳人と呼ばれている。
お天気が「良すぎる」ので「独りぼっち」さを余計に感じてしまうというのがこの句の常識的な解釈であろう。だがこの句には不思議と寂寞感を突き抜ける爽快さを感じる。
それはなぜなのであろうか。この句には余計なものが一つもない。そして足りないものも一つもない。この句には、定型を超えた「言葉の潔さ」を感ずるのである。
また、次のようにも言えるだろう。独りぼっちの「孤独感」よりも天気の良さを感ずる「幸福感」が伝わってくる。
種田山頭火の句は自由律俳句と呼ばれている。彼の創る俳句は自由律であったのだが、その生活もまた自由であったのだろうか。「自由であれ」と彼の「意志」から命じられたのであったようにも思われるのである。
しかし、自由の理想郷を求めるのが人の本能であると考えれば、私たち凡人はどんなに逆立ちをしたって、山頭火の足元にもたどり着くことはできない。偉大な巨人を遠くからただ望むだけなのです。
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