先日、「ある天文学者の恋文」という映画を観たことを、記事にしましたが、それを小説にしたものがあったのでで購入しました。
こちらの文庫本です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/38/31/2dfdbc442435cf51fd504c1366956c1a.jpg)
小学館文庫から出ていました。
この小説は監督自身が、自ら書き下ろしたものなのですが、映画そのものの脚本も、トルナトーレが書いていますので脚本に少し味付けしたものなのでしょう。
映画を観た後でこの小説を読むと、映画の場面が思い出され、また深く映画の印象をよみがえらせてくれます。
まるで映画を見ているかのように(当然のことですが)早い場面の展開で小説は進んでいきます。
映画の監督が小説を書くとこのようになる、という見本のような小説でした。
映画の話に戻りますが、場面のほとんどの処で使われている小道具として、アイフォン、パソコン、DVDがあります。
天文学者エドからメールがアイフォンに届かなければこの物語はは成立しないのです。パソコンにビデオメールが届かなければエイミーはエドからの愛のメッセ―ジを受け取ることが出来ないのです。
不滅の愛の物語なのに、この映画の製作者は現代的な小道具を用意したものだなと、映画を見ながら感じました。
さて、トルナトーレは「マレーナ」という映画を過去に制作しています。
よほど前にこの映画のDVDを入手していたことを思い出しました。
これです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/16/e1/4112410338799650aa492adc3a5fa605.jpg)
この映画のDVDを所有し、何回か見たのですが、今はどこかに行ってしまい見当たりません。
微かな記憶をたどれば、第二次大戦中のイタリアの町での美貌の女性の半生を、彼女を慕う少年の目を通して描いた作品でした。美貌の大人の女性を慕う少年の心情の切なさが伝わってくる作品だったように思います。
この二つの映画に共通するものとして、トルナトーレは歳の離れた男女の関係を設定しています。
トルナトーレは何故、このような設定の映画を作るのでしょうか?これは偶然なのでしょうか?
歳が大きく離れている人との関係には、同世代の人々との関係より、より根源的なものが多くあるとトルナトーレは考えているのかもしれません。
私たちの身の回りのことを考えてみましょう。同年代の配偶者や同年代の友人とは、話が合いますよね。
そしてその「話が合う」ことを私たちは自然なことと思っています。
実はそれは同時代を過ごしてきたという「記憶の共有」や「生活の共有」があるからなので、もしそれらを取り去ってしまって、裸の人間になったらどのような関係性になるのか?
「記憶の共有」や「生活の共有」が無い人との間に関係性があるとすれば、それはは何を基軸に成り立っていくのか?
それは無理だろう。「共有するものがない」人とは関係性を切り結ぶことすら難しい。という考えもなりたちます。
この二つの映画のテーマからは大きく離れたことなのですが、こんなことをふと考えてしまいました。
追記
「ある天文学者の恋文」の原題はイタリア語では La corrispodenza となっています。
これを英語に翻訳するとThe correspondence となります。
この意味は「通信、文通」という意味だそうです。
なるほど、I phoneやPCがたびたび登場している訳ですね。「恋文」という題名もなんか古めかしいのですが、「通信」よりはましで しょうか。
こちらの文庫本です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/38/31/2dfdbc442435cf51fd504c1366956c1a.jpg)
小学館文庫から出ていました。
この小説は監督自身が、自ら書き下ろしたものなのですが、映画そのものの脚本も、トルナトーレが書いていますので脚本に少し味付けしたものなのでしょう。
映画を観た後でこの小説を読むと、映画の場面が思い出され、また深く映画の印象をよみがえらせてくれます。
まるで映画を見ているかのように(当然のことですが)早い場面の展開で小説は進んでいきます。
映画の監督が小説を書くとこのようになる、という見本のような小説でした。
映画の話に戻りますが、場面のほとんどの処で使われている小道具として、アイフォン、パソコン、DVDがあります。
天文学者エドからメールがアイフォンに届かなければこの物語はは成立しないのです。パソコンにビデオメールが届かなければエイミーはエドからの愛のメッセ―ジを受け取ることが出来ないのです。
不滅の愛の物語なのに、この映画の製作者は現代的な小道具を用意したものだなと、映画を見ながら感じました。
さて、トルナトーレは「マレーナ」という映画を過去に制作しています。
よほど前にこの映画のDVDを入手していたことを思い出しました。
これです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/16/e1/4112410338799650aa492adc3a5fa605.jpg)
この映画のDVDを所有し、何回か見たのですが、今はどこかに行ってしまい見当たりません。
微かな記憶をたどれば、第二次大戦中のイタリアの町での美貌の女性の半生を、彼女を慕う少年の目を通して描いた作品でした。美貌の大人の女性を慕う少年の心情の切なさが伝わってくる作品だったように思います。
この二つの映画に共通するものとして、トルナトーレは歳の離れた男女の関係を設定しています。
トルナトーレは何故、このような設定の映画を作るのでしょうか?これは偶然なのでしょうか?
歳が大きく離れている人との関係には、同世代の人々との関係より、より根源的なものが多くあるとトルナトーレは考えているのかもしれません。
私たちの身の回りのことを考えてみましょう。同年代の配偶者や同年代の友人とは、話が合いますよね。
そしてその「話が合う」ことを私たちは自然なことと思っています。
実はそれは同時代を過ごしてきたという「記憶の共有」や「生活の共有」があるからなので、もしそれらを取り去ってしまって、裸の人間になったらどのような関係性になるのか?
「記憶の共有」や「生活の共有」が無い人との間に関係性があるとすれば、それはは何を基軸に成り立っていくのか?
それは無理だろう。「共有するものがない」人とは関係性を切り結ぶことすら難しい。という考えもなりたちます。
この二つの映画のテーマからは大きく離れたことなのですが、こんなことをふと考えてしまいました。
追記
「ある天文学者の恋文」の原題はイタリア語では La corrispodenza となっています。
これを英語に翻訳するとThe correspondence となります。
この意味は「通信、文通」という意味だそうです。
なるほど、I phoneやPCがたびたび登場している訳ですね。「恋文」という題名もなんか古めかしいのですが、「通信」よりはましで しょうか。
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