ヒマジンの独白録(美術、読書、写真、ときには錯覚)

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こんな本を読んだ(インドネシアの文学、その1)

2018年08月26日 21時12分33秒 | 読書
いま、こんな本を読み終わったところです。
著者はインドネシアの著作家、詩人、劇作家、舞台人である「レンドラ」という人です。
彼に関してはわが国では多分、知る人は少ないでしょう。私も最近、この名を知ったばかりです。
インドネシアではその名を知らない人は少ないと言われている人だそうです。
この本の著者紹介によると、生まれた年は1935年です。彼が7歳の時、日本軍がインドネシアに侵攻した。その後、太平洋戦争が終わるまで、日本による軍政が続き、戦後は再侵攻してきたオランダとの間で戦争になった。
レンドラの表現者としての活動は中学生の時の詩作が始まりです。高校生の時には詩の朗読ですでに名を成していたとの事なので、ずいぶんと早熟な文学少年だったようである。ジョグジャカルタの大学に進学してそこでは詩作や戯曲の執筆や劇団を作っての演劇活動もしていました。
さて、この本の書名ともなっている「ナガ族の闘いの物語」について触れておこう。これには訳者の村井 吉敬(むらい よしのり)氏の紹介文が最も適切だと思われるので、その文を引用したい。
「やはりこれは一つの『危険な』芝居であり、その浸透力は『恐ろしい』ものであろう。インドネシアに残されている数少ない批判者としてのレンドラへの期待感が大きいことが分かる。金芝河を思い起こす」と訳者は述べています。
また訳者はまた次のようにも述べています。
「レンドラはインドネシアでは『反体制」文学者とか詩人とか戯曲家と呼ばれている」と。

この本を読み、「ナガ族」とはいったいどんな人たちななのかと調べてみたら、なんとインドネシアの民族ではなくインド大陸の民族であったのだ。これはどうゆう事なのだろうか。
レンドラはインドネシア人なのだが、この戯曲を書くにあったって、登場する民族をインドネシアではなくインドにしたのにはきっと何かの理由があったに違いない。
これはわたくしの推察なのだがインドネシアの実在する民族を登場させ、政府批判と取られる戯曲は発禁の恐れがあったためかと思われます。それほどレンドラが発表する作品は反政府的だったのでしょう。
しかし、レンドラはインドネシア教育文化省より1957年と1996年の二度にわたり最優秀詩人賞をもらっているのである。彼の表現活動は政府にとっては反政府的とみなされたのだが文化的に見れば優秀だったと目されていたのであろうか。
このあたりのいきさつには興味をそそられるのであるが、私自身はレンドラについてはこの著作の一冊だけなので、ここでは多くを語る資格などあるはずもない。

さて、レンドラはこのように多彩な活動をした人なのだが、わが国にもそのような人がいたことを思い出した。寺山修司氏である。ともに同じ1935年に生まれている。
レンドラと寺山には多くの共通点が見られます。
創作活動の出発は寺山は俳句、レンドラは詩作であった。寺山は中学生の時に俳句を始めた。
レンドラも寺山も表現活動において多彩な活動をした人であった。
ここでレンドラと寺山の生年と没年を見てみよう。レンドラは1935-2009、寺山は1935-1983です。
レンドラの没年での年齢は74歳、寺山のそれは48歳であった。長生きをすれば良いというわけではないが、寺山もレンドラほどの生が与えられれば、わたしたちは別の寺山を見ることが出来たかも知れない。

まとまりがつかなくなってきたので、ここらでお終いとしよう。
別の機会にこの続きを書けるようにもう少し、勉強しなければ。


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