前回の続きです。
この戯曲は1692年にマサチューセッツ州セイラムで起こった魔女狩り事件の歴史的事実に基づきアーサーミラーにより書かれた。
魔女狩りが起こった1692年以前の北アメリカはどのような状態であったかを簡単に振り返ってみよう。
1620年にメイフラワー号で102名のピューリタン(清教徒)を中心とする英国人の一群がプリマスに上陸した。英国人による移住の始まりであった。1629年には英国のピューリタンによるマサチューセッツ植民地建設が始まっている。その後アメリカがイギリス本国と独立戦争を戦うのは1775年のレキシントン・コンコードの戦いからである。1781年のヨークタウンの戦いで植民地側が勝利をしてアメリカはイギリスの支配を脱して自立国家として独立を遂げることになる。
メイフラワー号に乗り込んだイギリス人については世界史の教科書などでは次のように書かれることが多い。同号に乗っていた25~30名の乗員を除く船客102名のうち、およそ3分の1がイギリス国教会の迫害を受けた分離派に属していた。このピューリタンの非国教徒の一派が信教の自由を求めてこの船に乗った。そのため、アメリカ合衆国にとってメイフラワー号は信教の自由の象徴とされている。
さて、セイラムでの「魔女狩り」事件では村の少女たちによる森の中でのおふざけ遊びに端を発した「魔女裁判」により200名近い住民が魔女の疑いをかけられ、実際に裁判で有罪の判決が下され死刑に処された人物は19名にもなったそうであった。その中の一人がジョン・プロクターである。彼は30代半ばの実直な農夫であり妻と暮らしていた。彼の妻は病弱なこともあって、アビゲイルという少女を雇っていた。戯曲の上では彼女の年齢は17歳という事になっているが実際の「魔女裁判」の記録では14歳であったという。アビゲイルは雇い主のプロクターに好意を持ち、彼を誘惑した。プロクターは一度だけの過ちを悔いているのだが、それを知った妻のエリザベスはアビゲイルを解雇する。一度はよりを戻したいと願ったアビゲイルはそれをプロクターに拒否されてしまう。アビゲイルは一計を案じプロクターの妻を魔女に仕立て上げプロクターと妻とを引き離し、それにより自分の愛に応えることをしなかったプロクターに愛の仕返しをしたのであった。
さて、社会にはその社会の存続を守るための仕組みが備わっている。それは近代社会にあっては様々な律法であり、その底流には社会の成員が守らなければならない規範がある。セイラムはピューリタンにより造られた地域共同体なので、教会に通いピューリタリズムの教えに従う事が求められていた。1629年の入植開始から半世紀以上もたつと入植者の世代交代が進んでくる。プロクターの年齢からすると彼は入植者2代目にあたりアビゲイルは3代目の世代になるだろう。ピューリタンの厳格な勤勉さも、世代の2代目、3代目となるといささかそれも怪しくなってくる。
先祖が入植した時の厳しさの経験はその事態が過ぎ去ってしまえば、それは後の世代には忘れ去られてしまう。
共に新天地で頑張ってゆこうと誓い合った入植者たちの世代が交代すると当初の思いは現実の利益を優先する思考に変わってゆく。すなわち清教徒の清廉勤勉な生活理念は現世の利益を優先するようになっていったのだ。ある者は教区内での安定した聖職者の地位を求めるようになる。またある物は日々の生活に必要以上の資産の形成を自己の使命と考えるようにもなってゆく。
そのように入植者の間にも富の格差が生ずるようになり、広い面積の耕作地を得ることが出来た者とそうではない者との階層の分化が進んでいたと考える事が出来る。言葉を変えれば富の分配に関して村人の中に軋轢があっただろうと推測できるのだ。当時の魔女裁判で有罪となった者の資産はその後継者に引き継がれることはなく政府に没収された。その後にその財産は競売にかけられたこともあったようだ。土地を多く持つ農民が他の誰かから妬みを買い、その財産がなくなってほしいと願う人がいたとしても不思議はないだろう
この戯曲がフランスで1954年12月に上演された時、それを観たサルトルは、次のように評したとされている。
「この作品は、古くからの住民と新しい住民、富める者と貧しい者との土地の所有をめぐる争いである。・・・プロクターの死と彼が死を甘受したという事実は、もしその行動が社会的闘争にもとづく反逆として示されていたら、意味あるものになっただろう」
サルトルがそこで述べている<古くからの住民>とはイギリス人の入植者以前に居住していたアメリカ先住民(ネイティブ・アメリカン) だろう。イギリスからの移住者はそれまでそこにいた先住民を特定の居留地に移動させ、そこの土地を新住民である自分たちの土地とした。そして次は新住民の間で土地の囲い込みが起こっていったのだ。
さて、次は少女アビゲイルと農夫プロクターとの間の「愛情」の問題に立ち入ってみよう。プロクターの妻により解雇されたアビゲイルはそれによって妻を逆恨みして、いつかは何らかの仕方で報復してやろうと考えていたかもしれない。この戯曲によればアビゲイルは裁判でプロクターの妻を魔女であると証言している。そこにプロクターを苦しめてやるというアビゲイルの悪意を感じることが出来る。
ここで視点を変えてみれば、正と邪との判断能力が発達していない「自然児」のような少女たちの奔放なふるまいが引き起こした「大人たちへの反乱」をこの戯曲に見ることもできる。それについてはまた稿を改めたい。
さて話を戻そう。「富を得たいという経済上の渇望」と「愛を得たいという精神上の渇望」が同じ場所で同時に起き、結合したのがセイラムにおける「魔女狩り」の本当の姿だったのではないだろうか。本来、経済上の欲求と愛を得たいという心の欲求は別な位相の事柄だと私たちは考えているのだが、時としてそれは見事に結合することもあるのだ。
「富の渇望」と「愛の渇望」が同時に発生しその両者の結合はセイラムでは不幸をもたらすことになった、言えるだろう。もちろん「富の渇望」と「愛の渇望」を要求する人たちは同一人である必要はない。魔女裁判でその両者は図らずも同じ法廷内に居合わせて歩みをそろえてしまったのだ。
「愛の渇望」が「白雪姫」などのおとぎ話では不幸をもたらさなかったが、それは例外であろう。セイラムでの「愛を得たいという願い」は邪悪な「魔女の願い」として発露してしまったのだ。ついでながらここで言っておけば、「愛はいつでも崇高である」とは限らない。古今東西の物語や小説のテーマとして「愛の邪悪さ」は繰り返し描かれてきている。
今回は「セイラム魔女裁判」に関して「るつぼ」をこのように読んでみたのだが、当然のことながらこの論は当ブログの管理者であるわたくし個人の見解である。登場人物の年齢や歴史的な事柄の年号に瑕疵があってもそれは私の責任である。
「るつぼ」は様々に読み方のできる戯曲である。いつかは別な読み方を考えてみたいと思っているのである。
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