「オイデイプス王」岩波文庫を読んでみました。
この戯曲はギリシャ悲劇の白眉と言われている作品です。
ここに描かれている事柄には、人間世界での「運命」や「運命的出来事」に対処してゆく人間の壮大な「物語」です。
しかし、ここで述べられている「運命的出来事」だけが主人公に与えた「悲劇」だったわけではありません。
今、わたしたちの世界に起こっている事柄にも悲劇的な「出来事」は無数にあります。
大きな災害により多数の人命が失われる事や戦火の中で幼い命が奪われてしまうことなどです。
確かに、それらは「悲劇的出来事」ではあります。
また、例えばそれまで「幸福」であった人や家族に突然の「不幸」がおとずれる事があります。
例えば、かってのイギリスの皇太子妃であったダイアナ妃の事故死などを私たちは「悲劇」と呼んでいます。
さて、ソポクレスが「オイデイプス王」で述べた「悲劇」は、今の私たちが一般に考える「不幸」だけを悲劇としてはいません。
オイデイプスが自らの国を救った栄光が、出生の秘密が明らかにされてゆくのにつれて、アポロンの神託の通りに予言が進んでゆくことが「悲劇」と作者のソポクレスは言っているのです。
このことはどう考えたら良いのででしょうか?
ソポクレスはこの戯曲の中で次のように登場人物に語らせています。
テイレシアス <ああ! 知っているということは、なんという恐ろしいことであろうかー知ってても何の益もないときには>と。
オイデイプス王の「悲劇」は、自分の出目について「無知」であった時には栄光の王だったのに、自らの出生を「知ってしまった」事により不幸が訪れて行くのです。
テイレシアスの発した言葉を考えると、「無知」が「知」に転換されていく過程を「悲劇」と捉えることが出来ます。
歴史は「知りたい」という欲望が技術や学問や人間社会での「人びとの関係性」を発展させてきたとすれば、「無知」から「知」を得ようとする行為を支える「知の欲望」そのものが「悲劇の根源」と見ることもできます。
そうなんです。「知らぬが、ほとけ」という言葉もあるではないないですか。
人は全てを知る必要はないと、作者は言っているのかも知れませんね。
しかし、「悲しみの心を持つこと」は人に与えられた特権でもある事を、忘れてはいけないと思います。
この戯曲はギリシャ悲劇の白眉と言われている作品です。
ここに描かれている事柄には、人間世界での「運命」や「運命的出来事」に対処してゆく人間の壮大な「物語」です。
しかし、ここで述べられている「運命的出来事」だけが主人公に与えた「悲劇」だったわけではありません。
今、わたしたちの世界に起こっている事柄にも悲劇的な「出来事」は無数にあります。
大きな災害により多数の人命が失われる事や戦火の中で幼い命が奪われてしまうことなどです。
確かに、それらは「悲劇的出来事」ではあります。
また、例えばそれまで「幸福」であった人や家族に突然の「不幸」がおとずれる事があります。
例えば、かってのイギリスの皇太子妃であったダイアナ妃の事故死などを私たちは「悲劇」と呼んでいます。
さて、ソポクレスが「オイデイプス王」で述べた「悲劇」は、今の私たちが一般に考える「不幸」だけを悲劇としてはいません。
オイデイプスが自らの国を救った栄光が、出生の秘密が明らかにされてゆくのにつれて、アポロンの神託の通りに予言が進んでゆくことが「悲劇」と作者のソポクレスは言っているのです。
このことはどう考えたら良いのででしょうか?
ソポクレスはこの戯曲の中で次のように登場人物に語らせています。
テイレシアス <ああ! 知っているということは、なんという恐ろしいことであろうかー知ってても何の益もないときには>と。
オイデイプス王の「悲劇」は、自分の出目について「無知」であった時には栄光の王だったのに、自らの出生を「知ってしまった」事により不幸が訪れて行くのです。
テイレシアスの発した言葉を考えると、「無知」が「知」に転換されていく過程を「悲劇」と捉えることが出来ます。
歴史は「知りたい」という欲望が技術や学問や人間社会での「人びとの関係性」を発展させてきたとすれば、「無知」から「知」を得ようとする行為を支える「知の欲望」そのものが「悲劇の根源」と見ることもできます。
そうなんです。「知らぬが、ほとけ」という言葉もあるではないないですか。
人は全てを知る必要はないと、作者は言っているのかも知れませんね。
しかし、「悲しみの心を持つこと」は人に与えられた特権でもある事を、忘れてはいけないと思います。
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