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日本の将来---5.展望(8):東海道線(京都-浜松)

2014-09-25 | 日本の将来
前回の6)鉄道の正確な時刻表から続く。

7)京都から浜松までの東海道線
8月15日、午後2時に京都駅から米原行き新快速に乗った。この新快速は山陽線の姫路から東海道線の米原を経由、北陸線の近江塩津行きの長距離列車だった。

京都 14:00発 姫路駅始発(12:57)-近江塩津駅終着(15:34)行き新快速
米原 14:53着 所要時間53分

京都から大津(市の人口=34万人)、草津(13万人)、守山(8万人)、野洲(5万人)、近江八幡(8万人)、彦根(11万人)に停車、次に米原(4万人)に到着した。京都から米原は53分、その間に大津市を始めとして、7つの市を通り抜けた。のどかな郊外を時速100km前後で走る快適な旅、民家、会社、学校などの建物が途切れることなく車窓を流れて行った。途中、車内に人が立て込むこともなく、時刻表とおりだった。

この新快速は米原で後部4両を切り離し、前の数両は北陸線の近江塩津に向かった。

6分の待ち時間、米原始発の大垣行き普通列車に乗り換えた。大垣行きの4両編成には、多くの人が乗換えたので車内は人と人が触れ合うほどに混雑した。途中駅での乗り降りは少なく、大垣までの34分間は立ち通しだった。

米原 14:59発 米原-大垣行き普通
大垣 15:33着 所要時間34分

この大垣行き各停は米原から約20分で関ケ原駅に到着する。関ケ原から次の垂井駅までは山の中、民家もまばらになり、関ケ原の戦い(1600)という史跡は東海道線の中で一番の過疎地にみえた。車外は過疎、車内はやや過密、これで東海道線は採算を取っていると思った。ちなみに、関ケ原町の人口は約7,600人(2014)、垂井町の人口は約28,000人(2014)である。

関ケ原から垂井を過ぎると急に視界が広がり、大垣駅に7分で到着した。大垣駅には養老線(養老鉄道)が乗り入れている。

8分の待ちで大垣始発の豊橋行きの新快速に乗った。車内の半分は空席だったが、名古屋に近づくにつれて乗客が増え、名古屋(16:13着)ではほぼ満席になった。名古屋駅の東海道線プラットホームはガランとしていた。

大垣 15:41発 大垣-豊橋行き新快速
豊橋 17:09着 所要時間88分

濃尾平野は名鉄のテリトリー、岐阜から豊橋までは名古屋本線と東海道線がほぼ並行で走っている。東海道線より駅間距離短が短い名鉄は、地元に欠かせない身近な足になっていると感じた。

15分の待ちで岐阜始発の普通列車に乗車、浜松に向かった。

豊橋 17:24発 岐阜駅始発(14:58)-浜松行き普通
浜松 17:58着 所要時間34分

浜松に着いたのは午後6時ごろ、京都から快速電車の旅を切り上げて、新幹線こだまに乗り換えることにした。京都-豊橋257kmを4時間で移動したが、電車の走行スピードは100km/時前後で揺れも少なく、線路の状態がシッカリしていると感じた。

浜松 18:11発 ひかり
新横浜19:22着 所要時間71分

以上で横浜にたどり着いたが、京都を14:00に出発して新横浜まで5時間22分の旅だった。

参考だが、京阪神と名古屋を比較すると次のようになる。

京阪神都市圏のJR東海道線:
東端の大津(滋賀)から西端の西明石(兵庫)の距離=105km
新快速所要時間=78分
大津、西明石、南端の関西空港を含む地域の人口=約1,500万人(2012)

名古屋都市圏のJR東海道線:
北端の大垣(岐阜)から南東端の豊橋(愛知)の距離=116km
新快速所要時間=88分
大垣から豊橋を含む地域(三重県を除く)の人口=約700万人(2012)・・・京阪神都市圏の約半分

今回の東海道線での旅行は、京都-米原、米原-大垣、大垣-豊橋、豊橋-浜松の4回の乗り継ぎ、乗り継ぎの待ち時間は長くもなく、短くもなくちょうどいい間隔だった。

幸い、東海道本線の線路は途中で途絶えることなくつながっていた。しかし、今の日本では線路が終点までつながっているとはいい切れない。過疎地を走るかつてのメイン・ルート(本線)の中には、途中の線路が消滅したケースもある。

学生時代の記憶だが、1960年の夏休み、初めて東京までの一人旅にでた。そのルートと目的は、次のとおりだった。
◇京都-小渕沢(中央本線のスイッチ・バックの見学)
◇小渕沢-小諸(小海線の野辺山駅=1,345.67m日本最標高の通過+小諸城址訪問)
◇小諸-高崎(信越本線碓氷峠のアプト式線路の見学、赤城山登山)
◇高崎-大宮(高崎線の桑畑)
◇大宮-東京(京浜東北線)
◇東京-京都(東海道本線の東京23:40発大垣行き夜行列車+大垣発姫路行き電車で帰京)
以上、5~6日の旅程だった。

【補足説明】
スイッチ・バック=山の斜面をジグザグ状に登る。九十九折(ツヅラオリ)坂道のイメージ
アプト式線路=レールとレールの中間に鋸歯状のレールを敷き、機関車の歯車で急勾配を登る。

京都発の夜行列車、薄暗い客車、スイッチ・バックで停車を繰り返す列車、日本一標高が高い駅と書いた白い標識柱、小諸城址の石垣を背にした黒い忍者姿の人が吹く草笛、眼下の千曲川、アプト式の線路、高崎駅の立ち食いソバ、赤城山登山のボンネット型路線バス、バスの終点でただ独り雨に降られ若い女性車掌さんに雨傘をもらったこと、あの身に沁みる親切(今も忘れない)、車窓にどこまでも広がる桑畑、23時40分発大垣行き普通列車の4人掛けボックスを占拠したこと
・・・一コマごとに周囲にぼかしが入ったような記憶が筆者の頭に残っている。

一生に一度だけ訪れた懐かしいルートだったが、かつての信越本線の一部はすでにこの日本から消えてしまった。その結果、現在の姿は次のとおりである。

昔:
信越本線=新潟-篠井-小諸-軽井沢-(碓氷峠:アプト式線路)-横川-高崎(下線は乗車区間)
今:
信越本線=新潟-篠井
しなの鉄道(第3セクター)=篠井-小諸-軽井沢、JRバス=軽井沢-横川(廃線):長野新幹線が代替
信越本線=横川-高崎

中央本線のスイッチ・バックと碓氷峠のアプト式線路は、困難に立ち向かう先人たちの貴重な足跡だった。その足跡をさらに改善しようとする努力が現在の日本を築いたと誇りに思う。

中央線と信越線の変化は、たまたま筆者の回想が発端で気付いた。しかし、他にも不採算路線の第三セクターへの切り離しや廃線が進行している。これは、利用者の減少による鉄道ネットワークの一種の新陳代謝である。

現在の鉄道ネットワークの整理統廃合は採算性ベースで進んでいる。しかし、「Gデザイン50」においては採算性だけでなく、いうまでもないが、ナショナル・ミニマム(National Minimum:国家が備えるべき最低限の要件)の判断基準を加えて日本の姿を描くべきである。

次回は、8)コンパクト・シティーに続く。

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