5.展望(18)から続く。
(3)世界に知られた日本食
スキヤキやテンプラ、スシといった典型的な日本食は70年代のアメリカで少しずつ知られるようになった。あの頃は日本食だけでなく、スキヤキ・ソング(60年代初頭)や日本の経済成長を高く評価する“ジャパン・アズ・ナンバー・ワン”(E. F. Vogel著, 1979)など、日本への関心が高まった時代だった。
しかし、日系ホテルの高級日本食レストランは別として、当時のスキヤキやテンプラはかなりいい加減なものだった。もちろん、まれなことだったが日本人が経営する食堂が出すゴマ油のテンプラは日本の味そのもの、しかしその味が分かるのは日本人だけだと思った。やがて、スキヤキやテンプラだけでなく、庶民的な日本食、たとえばカツ丼やラーメンなどが世界各地域に広がった。
東南アジアでは日系工場の進出と共に、日本人を対象にする居酒屋風の小規模な店が見られるようになった。当時の日本食は特殊な食べ物、値段も高く、現地の人々には馴染みの薄いものだった。
そのような状況を打ち破るように、92年に石川県の8番ラーメンがバンコクに1号店を開いた。食べてみると味と価格は妥当、これで日本食の敷居が急激に低くなった。
2000年に筆者が訪れた8番ラーメンでは、テーブルにコショウ、グラニュー糖、赤い唐辛子のガラス容器を並べていた。お客はすべてタイ人、ラーメンの外観と味は日本と同じだったが、そのラーメンに大匙1~2杯の砂糖と唐辛子を振りかけて食べるのには驚いた。それがタイ流の食べ方、砂糖が唐辛子に合うとのことだった。現在、バンコクでは日系レストランがあちこちにオープンしている。刺身の盛り合わせを注文するタイ人グループや家族は珍しくない。
ここで「世界で愛されるMADE IN JAPAN 100」(大橋俊哉編集、英和出版、2015/5)を参考に、世界における日本製品の評判をチェックする。
この本は順位付けの根拠を説明していないが、01から10の品目は次のとおりである。
01=トヨタ・プリウス(誕生:1997年)
02=ウォシュレット(1980年)
03=紙おむつ(2007年)
04=カップヌードル(1971年)
05=ポキー(1966年)
06=青色LED(1993年)
07=デジタル一眼レフカメラ(プロフェッショナルの現場はMADE IN JAPAN一色)
08=味の素(1909年)
09=マンガ(1984年)
10=ハローキティ(1976年)
・・・以下99=数独(数字パズル2004)、100=アウトドア用品(MADE IN燕三条が有名)となっている。
さらに「MADE IN JAPAN 100」に含まれる食品と料理に関係する品目をピックアップすると28品目、下の一覧表に示すとおりである。
上の表に挙げるほとんどの品目は工業製品、「和食」と「吉野家」を除く26項目のうち、「サカタのタネ(種)」「フルーツ・野菜」「枝豆」だけが「農産物」である。
さらに別の参考書だが、「図解 世界に誇る日本のすごいチカラ」をチェックする。この参考書は104項目の日本の「すごいチカラ」を技術、発明、文化、自然、人に分けて紹介している。その中から食料・食品関係の項目をピックアップすると下の表になる。
下の表でも「MADE IN JAPAN 100」と同じように、筆者の判断で工業製品と農水産物を区分した。
上に示した2つの表から、日本で育てた農林水産物の味をそのまま海外の人びとに届けるという「日本の使命」は、この先の仕事といえる。前回の農産物の輸出統計からも分かるように、今日の日本の輸出額は微々たるものであり、世界の需要に応じるには一層の努力が必要である。
(4)エピソード
上の2つの表に挙げたいくつかの品目には筆者の思い出がある。そのエピソードは次のとおりである。
1)No.12 カルピス(MADE IN JAPAN 100)
1967年、ヒューストン大学のマーケティングの講座、製品の開発戦略の宿題で「カルピス」の広告宣伝を数ページの小論文にまとめて先生に提出した。
「パナマ帽の黒人とストロー」と「初恋の味」が非常にエキゾチックで清涼感があり、こころのときめきと夢があるといった内容だった。根強い人種問題を抱えるアメリカ南部(テキサス州)の大学だったが、あの「黒人マーク」を人種差別とは違った立場で論じた。その理論展開はアメリカでは意外だったらしく、評価はAだった。ただし、筆者の小論文の内容は筆者のオリジナル、カルピス社の意図するものだったかどうかは分からない。
あの「黒人マーク」の小論文からすでに50年、今ではカルピスは世界に愛される立派なブランドに成長した。
参考だが、あの講座のテキストはPhilip Kotler," Marketing Management," Prentice Hall, 1967、工学部修士課程(graduate school)の必須単位だった。
65年の初代マスタング(Mustang)は若者をターゲットに、スポーティーかつ低価格車を目標にして大ヒットしたこと、ドイツ人はお風呂好きでないので下着より香水を売り込めとか、コルゲイト(歯磨き)のテスト広告と売り上げの関係など、非常におもしろい講座だった。また、真空管工場は月面に作るべき、街全体の空調は効率的など、夢のある話は今もその通りと信じている・・・街(区)全体の空調は、90年代初頭のアメリカ各地に現れたショッピング・モール(全体の空調)が実現したと筆者は思っている。
この書物は、コンピューターによる市場調査とデータ分析の重要性をフローチャートで解説している。マーケティング戦略と顧客満足度の分析、ブランド・ロイヤルティー、製品の価格設定、お客様は常に正しい(The customer is always right if she thinks she is right.---Marshall Field & Co.シカゴの百貨店、従業員マニュアル、p.11, P.Kotler)・・・後に「お客様は王様/神様」に変化した)など、製品開発に携わる工学部の学生に必須の知識、日本の理工系でもこの種の教育が必要だと思った。(日本でよく耳にする“文系”“理系”という言葉は早く“死語”なって欲しい。)
なお筆者の経験だが、日系工場ではB/S、P/L、G/Lなど、財務諸表の読み方が分からない日本人社長や管理職にときどき出会った。理工系でも、工業経済/簿記(Engineering Economy/Accounting)を必須とし、採算性や原価に対する基礎知識を常識として教育すべきである。(アメリカのプロフェッショナル・エンジニアの資格試験には経済、簿記、倫理(Ethics)が含まれる。)
【参考:B/S=Balance Sheet貸借対象表、P/L=Profit and Loss Statement損益計算書、G/L=General Ledger総勘定元帳、以上が主な財務諸表。複式簿記を理解すれば財務諸表の計算・作成は簡単】
筆者が学んだ初版(628頁)は50年も昔だが、今は15版で日本語もある。国内外で今も初歩的なミスを犯す世界的に知られた日本の大企業、少しは世界の潮流と基礎的な知識を学ぶべきである。このままでは、日本企業とその人材供給源たる大学は世界舞台で淘汰される恐れがある。日本も心機一転蒔き直しの時期にきている。
今の日本企業に感じることは、世界各地に展開する拠点からの情報収集とデータ分析のスピードが遅い。また、情報処理のスピード化に対する経営陣の反応も鈍い。・・・もしかすると、反応が鈍いので情報処理の迅速化も必要でないのかも知れない。・・・IT部門は、生々しい情報を経営陣に提供するのが責務、一週間も遅れたコンピューター・アウトプット(経営情報)は死亡診断書に等しい。もちろん、死亡診断書では打つ手はなく手遅れ、折角のコンピューターも「紙くず製造マシーン」に成り下がる。
2)No.15 サバ缶詰
60年代前半の頃、「ほのるる丸」の寄港地の一つは清水港だった。その主な積荷はオートバイとゲイシャ印のミカンの缶詰だった。4ヶ月ごとに寄港して大量に積込むミカンの缶詰を見て、よくこれだけの需要があるものだと感心した。ゲイシャ印の缶詰はミカンだけと思い込んでいたが、他にもサバ缶があり、そのサバ缶がガーナやナイジェリアの国民食とは想像もしなかった。
社史によればGEISHA印は1912年にアメリカで登録したノザキのブランド名、日本より世界が良く知る缶詰である。また、ノザキの牛マークのコーンビーフは48年発売、日本ではお馴染みの牛マークの缶詰である。現在はタイ工場で生産、日本と同じ缶詰をバンコクの大手スーパーでも販売していた。しかし、牛肉がポピューラーでないタイ、そのせいか08年頃から大手スーパーからあの牛マークの缶詰が消え、今では日系のフジ・スーパーだけが販売している。
3)No.20 ラーメン(ハワイのインスタント・ラーメン)
1962年7月、商船学校の実習生90人を乗せた練習船「海王丸」はマウイ島カフルイに入港した。
1962年頃の海王丸*
出典:筆者所有の写真
【*参考:運輸省航海訓練所の海王丸2,238総トン、全長97m全幅13m、1930(進水)-1989(引退)、4本マスト、バーク型帆船,メインマスト水面高46m、総帆数29枚2,050㎡,機走用ディーゼル・エンジン2基。帆走実習:1962/4/1-9/1東京-シアトル-カフルイ(ハワイ)-東京,実習生=東京(41名)/神戸(29名)両商船大学/商船高等学校(20名)=計90名:現在の海王丸Ⅱ(二世)は2,556総トン、全長110m全幅13.8m、1989(進水)-現在就役中】
一週間の停泊、朝は早くから岸壁に人びとが集まった。島内案内のために学生たちをピックアップする人、船内を見学する人、メイン・デッキの急ごしらえのテーブルとベンチでセルフサービスのコーヒーを飲みながらいつまでも談笑する日系お年寄りたち、「海王丸」全体が即席の社交サロンに変化した。
船内を案内すると別れ際(ギワ)に、胸ポケットのボールペン、万年筆や帽子など、自分の持ちものを感謝の印(シルシ)としてプレゼントしてくれるアメリカ人、お互いに初対面ながら非常にフレンドリーな日米交流だった。
ハレアカラ火山やパイナップル工場の見学は団体行動だったが、日系人家庭にも分散して招かれた。パイナップル工場の大きな作業室を見学した時、作業中の女性たちから口笛で歓迎されて驚いた。今でもスーパーなどでパイナップル缶詰を見ると、あの口笛と白い作業服の女性たちを思い出す。日本では考えられない光景に、文化が違うと思った。
日系家庭ではステーキやハム、ソーセージなどの他にインスタント・ラーメンもご馳走になった。その時、「ワシ(私=I)」と男言葉を話す妙齢の可愛い娘さんが器用な手つきでフォークとスプーンでインスタント・ラーメンを食べるのを見て、大きなカルチャー・ショックを受けた。
帰りには、庭に成るマンゴーやパイナップル、MJB(モカ・ジャワ・ブラジルのブレンド・コ-ヒー)の大きな缶詰、パイ缶、ハーシーのキスチョコなどの食料品に衣類まで、手に余るお土産を持たされた。敗戦した日本では、もの不足ではないかと心配する日系人たち、その心遣いはありがたく、今も忘れない。
ハワイの思い出は「ワシ(I)」「ハマネゴ(日本語のような英語=Ham and Egg)」「ハワイ大学生のフラダンス」「豊かな南の国」である。日系人の家庭で初めて食べたマンゴーは少し松脂(マツヤニ)のような匂いがしたが、今では一番好きな果物である。
4)No.16 & No.17 マグロ & ウナギの完全養殖(日本のすごいチカラ)
マグロは1970年に研究着手、2002年の近畿大学水産研究所で完全養殖に成功、32年にわたる地道な努力が実を結んだ。現在は年間2000尾ほどの出荷だが、10年には豊田通商が参入、商業化に拍車がかかっている。近畿大学で完全養殖した近海もののシマアジ、マダイ、ブリ、マグロを直営の銀座店で提供している。
ウナギは60年代に研究着手、73年に北海道大学で人工孵化に成功、2010年に水産総合研究センターが完全養殖に成功した。12年からシラスウナギ量産技術に取り組み中、20年に商業化を目指している。
生命の謎にも触れる奥深い事業、完全養殖で生まれる安全なマグロとウナギへの期待は大きい。
続く。