1.ハノイ訪問(1)
一つの街を思うとき、建物、空の色、食べ物などの記憶がよみがえる。ロンドンは灰色の空にそびえ立つビッグ・ベン、アムステルダムは運河に面したアンネのレンガ造りの家、アントワープは紫色に暮ゆく空と遠くに林立するクレーンがキリンの首のように見えた。なぜか、この光景はチョコレートの香りがする。
ミュンヘンの広場でロマ(ジプシー)の祭、焚き火の周りに立てた串刺しのサバ、丸焼きのいい匂いにつられて買おうと近づいたら同行のドイツ人に、あたるかも知れないと制止された。ベニスはサンマルコ広場のドーナツ屋台、煮えたつ油の中に小麦粉の団子を入れて、4~50cmの棒で中心に穴をあけてドーナツに仕上げる、巧みな棒さばが手品のように見えた。もちろん味はグッドだった。
アメリカの雰囲気は、ヨーロッパと大きく変わる。サンフランシスコのケーブル・カー通りの行列ができるステーキ・ハウス、入口でオーダー、出来上がりをカウンターで受け取るセルフサービス、各テーブルのキッコーマンの醤油差しが印象的だった。また、アリゾナの大きな野外ステーキ・ハウス、ステーキはやはりティー・ボーン(T-bone Steak)が最高・・・と思い出は尽きない。
今年3月30日から羽田からハノイに直行便が飛ぶようになった。ハノイは、昨年夏に娘一家が転勤した所、一度は行きたいと思っていたので、夫婦で航空券を手配した。この機会に今と昔のベトナムを比較したい。
2002年にバンコクからホーチミンに出張した。初めての出張、仕事の合い間に旧大統領官邸を訪れた。そこは、75年4月30日のサイゴン陥落の舞台だった。
陥落直前に官邸2階のヘリ・ポートに群がる人々、米軍の艦艇に向かって飛び立つ機体からこぼれ落ちる人々、4月30日の午前中に官邸の正門を突破して前庭に侵入する数台の戦車、街を走り回る戦車と赤い鉢巻の兵士、サイゴン陥落の生々しいビデオを映写室で見た。
庭園の戦車は突入した当時のまま、官邸地下壕の暗い通信室、監獄と拷問の図解・・・人はどのような権限で罪のない人々を殺すのか?また、殺される人々の無念さを思った。街の名前が、サイゴンからホーチミンに変わったことにも抵抗がある。ホーチミンは北側の英雄かも知れないが、筆者にとってはそうではない。
ホーチミンと聞くたびに南北数百万の犠牲者を思い出す。サイゴン陥落後にアメリカやカナダに逃れた百万人を超える難民、アメリカの難民受入れキャンプの一つを2003年にヒューストンでみた。またあの頃、数百万人を虐殺したといわれるカンボジアのポルポトとボート・ピープルも思い出す。
南北の戦いに明け暮れたベトナムの代償は大きく、サイゴン陥落から27年後の2002年でも経済は低迷していた。特に、人的な損失は短期間で回復しない。
ホーチミンの朝夕はバイクの大群、布を顔に巻きつけ眼だけ出し、腕には長い手袋、異様な光景だった。その理由は、道路が未整備、車よりバイクの方が安上がりで便利とのことだった。この点で、タイと比較すると、道路網の整備に20年は必要と思った。
この頃のタイは、戦乱もなく賢明な国王のもと、外資の導入で着々と産業の近代化を進めていた。街には食べ物や衣類・雑貨が豊富、深夜まで開店するスーパーやコンビニが現れた。繁華街の店などに物を忘れても返ってくるバンコク、油断禁物のホーチミン、二つの都会の人心には違いがあった。しかも、唯の「微笑みの国」でなく、バンコクの心臓病センターは知る人ぞ知る世界のトップクラス、2004年夏に心筋梗塞発症後5時間の筆者はセンターの医療チームに救われた。【参照:道路-304(サムスンシー)---タイの運命の道(2010-09-30)】
2002年からすでに12年の歳月が流れたが、今回のベトナム再訪、そこに何を見るか?楽しみである。
次回のハノイ紹介に続く。