こ も れ び の 里

長崎県鹿町町、真言宗智山派、潮音院のブログです。平戸瀬戸を眼下に望む、人里離れた山寺です。

俺らの学校

2007年02月25日 | 教育
自分の子どもは当然ながら、
ふるさとで育つ子どもたちには、
すてきな地域、すてきな学校で豊かに育まれてほしいと、
切に願う。
子どもの居るいないに関わらず、
至極当然の思いだろう。

だから、地域の子育ちは、
地域全体で共有したいし、
その思いにかなった学校や地域教育を創造していきたいという思いも
とても当然な事だと思う。

そんな地域の思いを吸い上げて、
分析し調整して、実際の形にしあげていくのが、
町の教育委員会や学校責任者である校長先生の仕事。

とまあ、この理屈は、おそらく正しいことだと感じるが、
でも、現実は、全く違う。

こんなすてきな先生には、もっともっと勤めてもらって、
より多くの子どもたちと接してほしい、と皆が願っても、
決して思い通りにはならない。
校長先生が思っても、
教育委員会が思っても、
決して思い通りにならない。

俺らの学校から、
遠く遠く離れたビルディングの中にある一室の、
見たこともない顔をした人が操る、
パソコンが決定する。
このパソコンは、
俺らの学校でどんな先生達が、どんな子どもたちが、
どんな環境の中で、どんな学校教育がなされているのかを、
・・・知るはずもない。

そんなパソコンに操られながら、
こまのように異動する。
そこには、現場の実状や、
よりよい教育環境のための配慮は、
・・・皆無。

この季節になると、
毎年この思いが、ふつふつと涌いてくる。

企業人事は、
健全な会社の発展のために、
社員の能力や人格を充分見極めながら、
なまの人間が総合的に判断し方向性を示し、
管理職が決定していくだろう。
それは、会社の存続と発展に関わるとても重要な事柄だから、
神経を使うだろうし、大きな責任も伴う。

でも、公教育っていう組織には、
責任の所在がとてもあいまいというか、
はっきり言って、なさそう。
いろんな事件や問題が起こっても、
時間の経過とともに、
煙に巻かれて何となく過ぎていってしまうことが、
如実に現している。

とはいえ、
今のようなシステムじゃ、
責任とれ!っていわれても、
地方の教育委員会や校長先生には、
あまりにも残酷だ。
責任をとるからには、
地域の意思を代表する者として、
自ら決定した人事や学校運営内容でなければ、
とりようもない。

こんなこと言いながらも、
一方では、無理な話かなあ?
っていう思いもある。

それは、「地域格差」。
たぶん地域の行政力や、教育力の違いで、
どんどん格差が増大し、ボロボロになっていく学校が出てくる。

・・・

あ~、難しい話しになった。
しなきゃよかった。



でも、俺らの学校は、

地域の義務と責任で支えたいものだ。




コメント (6)
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