コメントでご質問を受けまして。
「定山渓鉄道ED500が牽引していた貨車の写真をお持ちではありませんでしょうか」
と。
ありがたいコメント頂きました。
で、結果は
「そうです、無ぁいんでぇす!」(川平のように脳内再生してください)
ED500とは何か?
WIKIでも見ればいいのでしょうがおさらいです。
ED500は昭和32年に三菱三原で2両製造された50tクラスの私鉄としてはもっとも大型の部類の機関車ですね。
これ以上のクラスとなると、ほかではあまり例がなく西武鉄道のE851くらいしかなく、同クラスでは秩父鉄道・大井川鉄道などにあるB-Bタイプの主力級であり、地方私鉄の虎の子機関車にふさわしいものです。
何せ特徴はそのスタイリングであり、デッキの無い大型機関車はほかになかなかあるものではありません。
長野電鉄~越後交通を渡り歩き、平成6年に廃車となって消えました。
長々と勾配が続く定山渓鉄道ですから、逆に制動関係が強化がされており、最終段電空併用ブレーキ、自動撒き砂装置完備、さらにすべてにヒーターが付く重装備です。
出力は200KW×4の800KW。
ギア比は4.76の低速ギアを装備し引張力は8,900tを誇る山の電気機関車でした。
形式ED500
番号 5001、5002
軸配置 B-B
電動機 三菱MB-266-BFVR
出力 200kw×4
制御器 三菱KL-35
ブレーキ EL14AR自動直通・電磁空気式電気制動併用型 加熱器付撒砂装置併用
歯車比 81:17
運転整備重量 50.00t
最大寸法 13,800mm×2,830mm×4,100mm
固定軸距 2,400mm
ボギー中心距離 7,700mm
車輪径 1,070mm
製造 1957.3.4設計認可 1957.4.12竣工
製造所 新三菱重工三原製作所 製番463、464
製造目的は豊平川流域のダム建設資材輸送でしたが、結局この機関車による輸送は殆どなかった状態で、フライング製造の可能性が高いものです。
落成後は主に鉱石輸送と木材輸送にあたり、定山渓と藤の沢間を往復した記録が残っております。
が、それも僅か5年経過した昭和38年に中止され、基本的な仕事は定山渓の少ない資材輸送と
国鉄列車乗入れ牽引、
除雪とあまり良い活躍とはいえないものでした。
ED500はなぜ活躍の写真が少ないか?
実は発注した直後、豊平峡ダム計画は一時頓挫します。
コレがすべての原因と考えられます。
再開は廃止目前の昭和42年。
工事輸送の当てにされる時期ではありませんでした。
つまりは先行投資が外れた結果となり、実はこういったさまざまな過大投資が問題となり、昭和23年末に王子製紙から株式を受けて経営していた浅野一夫社長は結果的に五島慶太率いる東急に買収を受ける隙を作ることになります。
※真ん中が浅野社長
ちなみに浅野社長時代の車両新製は活発で、
モ800を2両、
モ1000系2両、
モ1010系ロマンスカー2両、
モハ1200系2両、
モハ2100更新車を4両と
キハ7000型3両
この機関車2台、
DD4501型1台。
合計15両+機関車3台の客用新製車両にも及び、過大投資とされた例となります。
果たして本当に過大であったのかは、疑問が残るのですが、隙を見せてしまったのはこの件であったようです。
あとで書きますが、このダム計画。
本 当 に 実 在 し た 計 画 なのでしょうか?
それまでの20年間で新製が譲渡含み電車9両(うち新製5台)、中古木造二軸客車10台、中古木造ボギー客車1台、蒸気機関車7台(うち新製1台)簡易な中古貨車50両余ですから、規模としては急激な投資と見られても不思議ではないのです。
(客用車両が寿命を迎えて約2年おきに計画的近代化したともいえますが・・・)
ちなみに東急傘下であった11年ではキハ7500型1台、モハ2200型3台(中古)、モハ2300型2台(簡易車体による更新)であり、設備投資のペースが一気に下がります。
東急総裁五島慶太の株の進攻はすばやく、
息がかかった北海道交通(現在の北交ハイヤー)・柴野安三郎の提案で、昭和31年11月に買収開始をします。
柴野曰く「浅野一族は同族経営に感けて経営に熱心ではない。これは(乗っ取るのは)どうでしょう?」
果たして浅野社長が熱心ではないと言えるのか疑問です。
「過大投資」を紋所にするなら「熱心ではない」というのは符合しません。
しかし。買収は始まりました。
国際興行・小佐野賢治(のちのロッキード事件被告)、北海道開発公庫総裁・松田令輔(元A級戦犯補佐弁護人のち大蔵省~専売公社~公庫~東急エージェンシー社長)、子会社だった東映社長・大川博、同じく子会社の日東タイヤ・蛯名忠雄らの協力により徐々に株を買収され、
更に町村元官房長官の父・町村金吾、広田弘毅内閣の前田鉄道大臣秘書官で当時建設大臣を退任したばかりの南条徳男も参加した大買収団が結成されることとなります。
徐々に地元株主・財界から見放された浅野社長は、最後の大株主・定山渓ホテル社主の林孝一の義理によって防戦を張りますが、上記代議士や有力政治家、更には北海道金融筋にも説得を受け浅野社長は降伏します。
まさに圧倒的な人脈によって四面楚歌となり、一族経営であった浅野経営陣を飲み込んで放出して行ったのです。
「過大投資」など言いがかりにしか過ぎないのです。
そして後任社長には五島側近の蛯名忠雄が座ります。
(ちなみに五島慶太は戦前、鉄道院総務課長として定山渓鉄道の開通式に参列している縁があります)
株式の実質買収完了は半年後の昭和32年5月20日、実にED500落成わずか26日後のことでした。
ちなみに株式正式譲渡は昭和32年10月1日です。
ED500は発注主の株式が続々と買収される中で建造されていたことになります。
赤色文字のをピックアップします。
北海道開発公庫は当然ながらダム建設関連資金に重要な力を持ちます。
浅野社長が着工計画が明らかになる前に機関車を建造。
「やや」不自然な部分も無いわけではありません。
当初は9200型SLか9600型SLの払い下げ予定が突然このEL新製に変わっています。
これは歴史の真相に隠れてしまっていますが・・・・。
あくまで独り言です。
先日、浅野社長の退任準備金を入れた封筒がヤフーオークションに出展され、驚きました。
あの封筒に、どれほどの恨み辛みが包まれたかを想像すると、昭和経済史の凄まじさを感じます。
http://page13.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/r60991737
さて、本題に移ります。
定山渓鉄道の最大在籍貨車は有蓋緩急車5台、有蓋車10台、無蓋緩急車9台、無蓋車41台、長物車13台(うち3軸無蓋車4台)、石炭緩急車が2台、石炭車が7台、業務用水槽車が1台、ラッセル車が2台で、ラッセルと特記以外はすべて小型の2軸貨車です。
※1112型SLに牽引される無蓋貨車の一列
ED500在籍中の貨車は
有蓋緩急車3台、有蓋車10台、無蓋車30台、長物車13台(うち3軸無蓋車4台)、業務用水槽車が1台、ラッセル車が2台です。
その殆どが定山渓~藤の沢~選鉱場の運用区間であり、藤の沢~選鉱場はDD4501の運転区間なのでおおよそ想像が付くと思います。
下り坂なので重連運用はなく単機が基本。
というか重連すると変電容量不足で動かなくなるので単機限定です。
なぜ、消費電力が過大な機関車が2台もあったのでしょうか。
客車でさえ重連が必要となる貧弱な電力施設にもかかわらず、仮にダム資材を定山渓に持ち上げることを考えると、本来的には重連も可能性があったことがわかります。
先の買収劇、そして見えない資金先を考えると妄想が膨らみます。
この機関車は本当に必要だったのでしょうか?
無蓋貨車は樺太の元南樺鉄道のナチ1型と元国鉄ト6000の各10t積みからなる古典貨車で、長物車もそれらからの転用であるので、おおむねの形態は2形式の源流となります。
ト6000と言われても・・・・。
ED500の華運用はなんといっても国鉄客車の温泉客乗り入れ列車牽引でしょう。
これがその列車。
8両の堂々たる編成です。
コレを見る限り、C12-1とDD4501の重連のようですが、C12が廃車になったあとはED500がDD4501と時に重連で牽引しております。
こちらは割りと平易な客車6連
定山渓に入る温泉列車。
スハフ42156 天王寺観光団
時期的にはこれがED500牽引かもしれません。
再び
これもそうですね。
コレにいたっては最後部がスロフ30では無いでしょうか?
中間もスロ33のようです。
よって、ご質問いただいた「ED500の貨物列車姿」はついぞ無いのでございました。
ごめんんさい。
ちなみにED500が単機で客車を牽引している写真は鉄道ピクトリアル232号15Pに星良助先生のものがあります。
↑歴史関係の記述はあくまで独り言です。