セミの終わる頃(5)

2016-12-26 21:25:18 | 小説
  第二章 逃避

 失意の治子は、自分を癒す旅行を思い立ったが、今まで仕事一筋の生活となっていたので、取引先への海外出張以外にゆったりと心を癒す国内旅行をしたことがなかった。
そんな時に、入社時に訪れた湯治場を思い出し、近くへ行ってみることにした。

 予約などの連絡をしていないので、当時と変化が無いのか、いや旅館そのものが存在しているのかさえ分からないまま列車の座席に身を任せていて、今は焦点の定まらない目で窓の外を眺めている。

 やがて、日が落ちて遠くに見える家に電気が点き始めたころに上田駅に降り立ったち、治子は昔の記憶がよみがえり、懐かしく感じられた。

 駅員に山間に有る湯治場への交通手段を確認し、教えてもらった路線バスで向うことにした。
一時間を超える道のりを行き、路線バスが湯治場の温泉街に近付くにつれて、初々しい時の自分が思い出されて懐かしく感じられた。
 そして、旅館の前のバス停で下りた治子は、旅館には入らず元来た道を、過去を確認するようにゆっくりと歩いて行った。

「ねえ、治子。随分田舎よねえ。」
「そうよね、湯治場はどこも山奥に在るんじゃないの。」
「こんな場所だと、夜になると真っ暗よね。」
「クマとか出ないのかしら。」
「警告の看板が無いから、この辺はまだ大丈夫なんじゃない。」
「鹿なら可愛いけれど熊は怖いわよね。」
「私、結婚する前に死ぬのは嫌だわ。」
「そうよねえ、乙女のままで死にたくないわよね。」
「あらっ、この川魚美味しいわよね。」
「イワナの塩焼きだと思うわ。」
「このお肉はイノシシの肉だって書いてあるわよ。豚より少し硬いわね。」
「同期入社の令子もユリも止めてしまったわ。私だけが頑張っていたのよね。」

 治子は誰に話すのでもなく、自分に同意を求めるように呟いた。
「そうよ、会社が悪いのではなく、私も悪くないのよ。そういう時代なのよ。」

 そして、治子は引き返して旅館に向ったが、相変わらず足取りは重かった。
治子の目の前の旅館は、木の雨戸と茅葺き屋根の歴史を感じさせる造りであった。
治子は記憶と変わらない造りに安堵感を覚えた。

「ここだわ、昔と変わっていない。」
「すみません、先程電話しました桐谷治子です。」
「はいはい、よくいらっしゃいました。永い時間バスに乗っていたので疲れたでしょ。どうぞお上がりくださいな。」

 そして、温泉宿のおかみさんに運転免許証を見せて宿泊させてもらうことにした。
若い女性が一人で予約も無く宿泊するので、おかみさんが心配するのは当たり前である。

セミの終わる頃(4)

2016-12-25 11:28:35 | 小説
 治子は相変わらず分刻みの仕事に追われている中で、見積金額のレートを間違えてFAX送信してしまった。
そして、間違いに気が付いたので訂正のFAXを発信しようとしていた時に先方から取引承諾のオッファーが来てしまった。

「ねぇ白石さん、どうしたら良いのかしら?」
「オッファーが来てしまったので、信用に影響するから取引をしなければいけないよ。だから、方法としてはメーカーに今回だけ特別価格にしてもらって、幾らかでも損失をカバーするしかないよ。だけれど、次回のオーダーの時に損失分をカバーすると言って、メーカーに借りを作るのは止めた方が良いよ。貸し借りを行うと雪ダルマ状態になり、何時しか破綻するからね。」
「分ったわ、メーカーに交渉してみるわ。」

 しかし、永い付き合いのメーカーであるが、価格交渉に応じてくれたのは三百万円が限度であった。損失金額はその十倍近くであり、残額は会社が負担することにして上司が稟議を取締役会に上程してくれたが、上司に大きな汚点を被らせてしまった。
当然上司からの信頼を失墜してしまい、治子は営業の最前線から後方支援の事務処理担当に配置換えとなってしまい、業務時間帯のズレから治子は白石と話しをする機会も減ってしまった。

 そして、今まで他の女子社員とのコミュニケーションの悪かった治子は、今回のミスにより自分の周りには誰も居なくなってしまったとの寂しさがこみ上げてきていた。
しかし、上司の信頼を失った社員などに気づかいする雰囲気も無く、今まで自分の時間を犠牲にしてまで仕事をしてきたことが何だったのだろうかと自問自答を繰り返していった。

 また、社内では白石との不倫も噂され、妻子有る白石も潮時と考えたのか、治子から遠ざかるようになってしまい、治子は気を紛らわすものを全て失ってしまった。

 そして、一人で住んでいるマンションに戻っても話し相手も無く、治子は精神的に落ち込んでいった。

セミの終わる頃(3)

2016-12-24 17:21:37 | 小説
そして、いつしかお互いに気分転換をする間柄から男女の付き合いになり、ある日、妻子の有る白石と一線を超えてしまった。

「あ~あ、もう十時だわ。毎日時間が経つのが早いわね。また今晩も外食だわ、帰ったらお風呂に入って寝るのが精一杯よね。」
「そうだね、うちも帰ったらみんな寝ているよ。一応、食事の用意はしているけれど、寝る前に食事をすると、朝、胃の調子が悪いんだよね。」
「本当よね。よその会社より給料が良いから我慢しているけれど、毎日こんなに遅いと恋人もできないわ。」
「俺も、子供の起きている顔を見るのは、週に一日だけだよ。それも、仕事を持って帰っているので、実際は半日くらいかな。」
「でも、結婚できたから良いわよね。」
「忙しくなる前だったからね。」
「あ~あ、恋人と食事に行くようになりたいなぁ。」
「時々俺と食事をしているからいいじゃないか。」
「白石さんは恋人じゃないでしょ。」
「じゃ、今晩飲みに行こうか、恋人代理で?」
「恋人じゃないけれど、今日は何だかお酒を飲みたい気分だから良いわよ。でも、変な事をしたらダメよ。」
「何もしないよ。飲むだけだよ。」
「じゃ、早く片付けましょう。」
「ああ、いいよ。」

治子はうっぷんばらしに白石とバーのカウンターに座って居た。
「終電が無くなるから、もう出ようか?」
「白石さんは奥さんが怖いんでしょ。」
「怖くないけれど、君も、もう帰らないと親が心配するだろ。」
「あらっ、知らなかったの、私、家を出て一人でマンションに住んでいるのよ。」
「一人で住んでいるのか。」
「見に来る?」
「行っても良いけれど。」
「良いけれど、何なの?」
「終電が無くなるから泊まってもいいかなぁ? 寝る場所は有るかい?」
「私のソファで寝ればいいのよ。だけれど、何もしないでよ、約束して。」
「ああ、いいよ、なにもしないよ。」
「では、お店を出ましょう。」

そして、二人は治子のマンションに着いたが、室内がきれいに片づけられているのに驚いた。
「きれいな部屋だね。うちなんか物がいっぱいで片付いていないよ。もっとも、子供の物が多いのだけれどね。」
「小さな子供が居ると仕方ないんじゃない?」
「そうだけれど、君は綺麗好きなんだね。」

白石は改めて治子の魅力を意識していた。
「もう遅いからシャワーでいい?バスタブにお湯を入れるのに時間がかかるから。」
「押しかけて来たんだからシャワーで十分だよ。」
そして、白石が先にシャワーを浴び、ソファに横になって、治子も浴室から出てベッドに入ったが、暫くしてベッドの横に置いてあるソファから白石の手が動いてくるのを感じた。
しかし、治子は恋人のいない寂しさから、拒否をせずに寝ているふりをしていた。そして、白石が急に抱きついてきた時、治子は頭と体がバラバラになり、白石のなすがままに、白石の体を受け入れてしまった。

こうして治子は白石と初めてベッドを共にしたが、同僚に怪しまれないように、翌朝はいつもより早くにマンションを出て、別々に出社した。

その日から、治子と白石はメモを使ってマンションで会う確認を行っていた。
「OK?」
「OKよ。」
「OK?」
「NG、月一よ。」
「What is月一?」
「女性の日。」

こうして、治子は恋人ごっこで仕事のストレスを減らし、白石はセックスの不満を解消していた。
しかし、治子のストレスは解消されずに白石とのセックスで麻痺していたにすぎなかった。

セミの終わる頃(2)

2016-12-23 11:42:38 | 小説
    第一章 商社勤務

 治子は入社した時の社員旅行で、会社の保養施設である長野県上田市の鹿教湯(カケユ)温泉の湯治場に来た事があった。

「それでは、新入社員の美人三人を紹介します。」
「幹事、三人とは桐谷治子さんと山﨑令子さんと岡村ユリさんだろう。美人なのはみんな知っているよ。三人には後で歌ってもらうから飲もう飲もう。」
「はい、はいっ、それでは本部長、乾杯の発声をお願いします。」
「それでは美人の三人のこれからの活躍を祈念して乾杯。」

 入社したばかりの時は、同期入社の仲間でボーリングやコンパで和気あいあいの時間が有ったが、山﨑令子も岡村ユリも既に退職して治子の周りに今はいない。

「令子、この前の社内ボーリング大会で二百アップして優勝したわよね。私なんか百五十がいいところよ。」
「私も百七十が限度よね。」
「ユリはお酒が強いわよね。どれくらい飲めるの?」
「カクテルなら五杯くらいで、ビールなら三本かな。」
「酔っぱらったことは無いの?」
「実を言うと、二日酔いになる時があるのよ。会社へ来てもキツイわよ。」
「私なんかカクテル一杯がいいところよ。」
「私も一杯くらいかな。」

 しかし、競争の厳しい商社では社員の評価は、数字が絶対的であり、勝ち誇っていた治子は令子やユリや他の男性社員とのコミュニケーションは殆ど無かった。いや、治子自身から『私と一緒にしないで。』という態度によって、孤立していった。
 治子の上司も治子を頼もしく思い、取引先との時差による長時間の勤務にも対応する治子に頼らざるを得なかった。
治子はこの商社で一つの商品を任されて、多くの国に輸出を行っていた。
その頃は世界経済が好景気の恩恵を受けて、毎日夜遅くまで仕事をしていて、自分の生活を考える時間的な余裕が無かった。

 治子は有能な女子社員として上司の絶対的な信頼を得ている反面、他の女子社員とはコミュニケーションが悪く、会社を出て仕事を離れた時の治子には空虚感が漂っていたのである。
治子は自炊する時間が取れないので、夜遅くに外食をして帰っていたが、同じように夜遅くまで勤務している男性同僚の白石と時々夕食を共にしていた。

セミの終わる頃(1)

2016-12-22 13:11:47 | 小説
 序章 目覚め

 夏の暑い日であるが、まだ昼前なので木々の間を渡って来る風が心地よい。

 長野新幹線の上田駅から千曲バスで70分ほど走った鹿教湯温泉(カケユ)に在る湯治場では、都会の街中に比べて過ごし易さが格別である。

 また、この地に有る旅館は温泉の効能と共に、人情味溢れる土地柄と、おかみさん達の飾らないもてなしとで、湯治に来た年配者は、来たというよりも帰って来たという親しみからリピーターが多く、ご主人を亡くされて年配の奥様からは
『おもてなしの気持ちがひしひしと感じられ、寂しい思いも無く、退屈もせず、楽しく過ごすことができ感謝いたしております。』
との御礼状が寄せられたりしている。

 食事は、特別な料理は無いが、地元で採れた山菜と、新鮮な川魚料理が楽しめるのも湯治客にとっては大きな魅力となっている。

 そして、人間と共存している動物達も猿と鹿が多いが、ここは人間の領域なので熊の出没は殆ど無く、夏になると多くのセミが種の存続のために力強く雌を求めて叫び始め、夏真っ盛りの今、湯治場の温泉宿の木々のセミができるだけ遠くの雌に愛が届けられるように忙しく鳴いている。

 その時、治子は窓の外の鹿の「ギューイ、ギューイ。」という鳴き声で目を覚ました。
治子は温泉宿の朝食の片付けと部屋の掃除も終り、転寝をしていたのだった。
治子は体がまだ寝ている中で、何時ものように自分が辿ってきた道のりを思い起こしていた。

 治子がこの温泉宿に来てから十年になるが、辿り着いた時の死への願望から、生きることの執着への変化の過程に、窓の外に居る雄鹿が大きくかかわっている。

 それは、この雄鹿がまだ小鹿の頃に、猟師によっては母鹿が命を落とし、この小鹿も頭に傷を負っていた時に、その小鹿を治子が温泉宿に連れて帰って介抱してやり、自殺をしようと考えていた自分が、生きるということを小鹿から学んだのであった。

 そして、この鹿とはそれ以来ずっと一緒で、小鹿は治子を母親のように慕っており、治子もこの鹿がいとおしくてしかたがなかった。
小鹿は次第に成長して立派な雄鹿となってからは、治子に対して次第に恋人への想いに近いものを持つようになって、治子を潤んだ瞳でじっと見るようになっていった。
治子も母親の代わりとして成長を見守ってきたが、鹿の潤んだ瞳に戸惑うことがあった。