侯爵井上馨(号世外,1835~1915)が揮毫した元人劉*作七言律詩の対句を表に記し,裏面には建立の経緯を記す。井上と伊藤博文は明治42(1909)年に木戸孝允(1833~77)の三十三回忌列席のため来京。中井慈眼が伊藤・井上の詩碑を東山に建立することを発意し建設された。伊藤博文の詩碑はこの碑の西方にあり姉妹碑とでもいうべきものである。
中井慈眼(1851~1932)は中井三郎兵衛と称し,三条東洞院で紙商を営んだ人物。府会議員・市会議員をつとめ明治京都の実業界で重きをなした。かたわら京都を観光都市として発展させるために東山の開発に尽力した。中井は近くの将軍塚の大日堂を明治41年に建立し,この碑一帯の整備にも意を注いだ。
山水増光
天懸海外三千界
月満人間幾百州
侯爵井上世外
碑陰記
碑面所勒世外井上侯句也建碑者中井慈眼翁也蓋
桓武帝奠都之地山水明媚美甲于寰宇翁欲以為一
大公園経営名区尽瘁不措今茲侯與春畝公来祭木
戸公乃有此作翁於是卜地勒碑以培風致欲深富国
之源其志美矣余惟園囿以招遠人不問雉兎芻蕘則
文王之仁必達遐陬厥美更無窮極耳乃為記之
明治四十三年八月 浪華南岳藤澤恒撰文
伊勢錦山矢土勝之書
設計監督 安田時秀 肝煎 辻坂楢吉
鐫刻 芳村茂右ヱ門 運搬 松山米吉
井上世外詩碑 碑文の大意(碑陰)
碑の表に彫ったのは世外井上侯爵(井上馨)の詩(の一部)である。碑を建てたのは中井慈眼翁である。そもそも桓武天皇が遷都された平安京の地は,風光明媚であること無類である。慈眼翁はこの山水をひとつの公園となし景観を整備することに力を尽していた。
このたび井上侯爵と春畝伊藤公爵(伊藤博文)がそろって木戸孝允の三十三回忌に列席するため来京した。井上侯の詩はこの時の作である。そこで慈眼翁は東山に土地を選び井上侯の詩を刻んだ碑を建て,それによって山水の美におもむきを加え,豊かな国土の基礎をさらに整備しようと考えた。その志は実に美しい。
わたし(筆者藤沢南岳)がおもうに,庭園は遠の人を招き寄せることがたいせつである。雉や兎やあるいは木こりであろうとも来る者を問わない周の文王の庭園(孟子梁恵王下)がお手本である。そうすればその名はすみずみまで知られ,その美はあせることがない。こういう重いが慈眼翁の趣旨だと以上のとおり記すものである
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