アートプラス京めぐり

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京都市外も始めました 先ずは京都南部から

石碑南0133  羅城門跡 道長はここの礎石を持ち帰った 

2017年10月07日 18時49分20秒 | 石碑

 

 

平安京のメインストリートである朱雀大路の南端に設けられた、都の表玄関にあたる大門で、この門を境に内外を分けた。弘仁7年(816)に大風により倒壊し、その後に再建されたが、天元3年(980)の暴風雨で再び倒壊した後は再建されることがなかった。11世紀前半に藤原道長が法成寺造営のため、門の礎石を持ち帰った記述が『小右記』にあり、この頃には門の礎石や基壇のみの姿となっていたと思われる。付近の発掘調査では、羅城門に関わる遺構は見つかっていないが、東寺の木造兜跋毘沙門天像(国宝)や三彩鬼瓦(重要文化財、京都国立博物館寄託)はこの門にあったものと伝えられている。平成20年3月 京都市

 平安京朱雀大路南端にあった正門。幅約35メートル,奥行約9メートル,高さ約21メートルの二重楼閣であった。弘仁7(816)年大風で倒壊し再建されるが,天元3(980)年暴風で倒壊,以後再建されることはなかった。東寺に所蔵する兜跋毘沙門天像は,羅城門上に安置されていたものと伝える。この石標は羅城門の跡を示すもので,明治28(1895)年の平安遷都千百年紀念祭の事業として建立された

明治28年3月 京都市参事會 建立

 木造兜跋毘沙門天像  ➡  東寺の天部像 守りと祈りのかたち 

石碑 前回の記事 ➡ 石碑右0132  名勝境界  文部省

五七五

都大路 桧扇すくう 絵巻物 /小巻

ことわざ

連木で腹切る

  


地蔵尊南039 矢取地蔵尊  道標南0131  

2017年10月07日 16時00分05秒 | 地蔵尊

 車 ・・・・ 津田八良兵衛

正しくは なんて書かれているのでしょうか

これも  三 は分かるのですが

 

道標南0131

右ハ   やなぎ谷   観世音菩薩

 

       

     やわた

 左               往来安全

        八幡宮

           甲

    嘉永七年秋      高辻とうり

             寅            石工   定清   (1854年)

         高辻通新町西江入

 施主            伊勢屋伝九郎

                   安森氏

 

地蔵尊にある 石仏群

駒札

本尊は矢取地蔵尊。石像で右肩に矢傷の跡が残っている。左手に宝珠、右手に錫杖、矢を持つ。かつては矢負地蔵とも呼ばれた。

天長元年(824)、日照り続きで人々は飢えと渇きに苦しんでいた。そのため淳和天皇の勅命により、東寺の空海(弘法大師)と西寺の守敏僧都が神泉苑の池畔で雨乞いの法会を行った。

先に守敏が祈祷するも雨は降らなかった。対して、空海が祈祷すると三日三晩にわたって雨が続き、国土が潤った。

これより守敏は空海を恨み、ついに空海を羅城門の近くで待ち伏せて矢を射かけた。すると一人の黒衣の僧が現れ、空海の身代わりとなって矢を受けたため、空海は難を逃れた。空海の身代わりとなった黒衣の僧は地蔵菩薩の化身であったため、その後の人々はこの身代わり地蔵を矢取の地蔵と呼び、羅城門の跡地であるこの地に地蔵尊を建立し、長く敬ってきた。現在の地蔵堂は明治18年(1885年)に、唐橋村(八条村)の人々により寄進され建立されたものである。

京都市

 江戸中期、矢取地蔵を祭る地蔵寺は誤って地蔵堂として届けられた。

市歴史資料館や東寺によると、江戸時代の文書では元文3年(1738)3月に東寺の末寺である長福寺が奉行所へ嘆願している。長福寺の末寺だった矢取地蔵が元禄年間(1688~1704)の寺社改めの際、寺であるのに地蔵堂として届けてしまったとして、末寺に戻したいと主張している。

明治時代の文書は、明治18年(1885)4月に、東寺と地元住民が京都府の北垣国道知事にあてた嘆願書。地蔵堂を再興して地蔵寺と認め

東寺の末寺とすることを求めている。

現在の地蔵堂は、明治18年3月に住民の寄進で再興した建物。

 

ここはむかし「京の南の果て」といわれたところで羅城門の跡に当たり、西へ行けば西国街道、南へ行けば鳥羽街道(大坂街道)に通じる。

 

 地蔵尊 前回の記事 ➡ 地蔵尊右038  梅ケ畑 石垣の中にありました

道標 前回の記事  ➡  道標下0130  新時代の道標 京都駅

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