恋塚浄禅寺
恵光山と号する浄土宗西山禅林寺派の寺院である。寺伝によれば、寿永元年(1182)の文覚上人の開基で、境内に袈裟御前の首塚(恋塚)といわれる五輪石塔があることから、恋塚の名で知られている。平安末期の北面の武士・遠藤盛遠は、渡辺左衛門尉渡の妻・袈裟御前に恋し、渡と縁を切ることを迫ったところ、袈裟御前は夫を殺してくれと森遠にもちかけ、操を守るため自分が夫の身代わりとなって盛遠に殺されてしまうという悲恋の物語が伝わる。自分の罪を恥じた盛遠は出家して文覚上人となり、袈裟御前の菩提を弔うために当寺を建立したとされている。本堂には、12世紀に作られた本尊阿弥陀如来立像を安置し、観音堂には、10世紀の作とされる11面観音立像(市指定有形文化財)を祀っている。
また、地蔵堂に安置する地蔵菩薩は、平安時代の初め、小野篁が一度息途絶えて冥土へ行き、生身の地蔵尊を拝して蘇った後、一木から刻んだ六体の地蔵の1つと伝えられ、一般に「鳥羽地蔵」と呼ばれている。毎年8月22・23日の京都六地蔵巡りには、多くの参拝者で賑わう。 京都市
地蔵堂
『源平盛衰記』には、保元年間(1156~59)西光法師によって七道の辻に六体の地蔵尊を安置し、廻り地蔵と名付けたのが六地蔵巡りの起こりとしるしている。
11面観音像は左手に水瓶をもち、右手は垂れて与願印をあらわす。
本堂は正徳3年(1713)の火災後、天保年間(1830~44)の再建
恋塚、後世、袈裟は貞女の鑑とみなされ、正保4年(1647)には領主永井日向守直清によって顕彰碑が建てられた。一説にはむかしこの付近の池に棲んでいた大鯉を埋めた「鯉塚」が、あやまって「恋塚」になったともいわれる。
袈裟御前の墓は「鳥羽の恋塚」とよばれ、鴨川を挟んで上鳥羽と下鳥羽の2ケ所にある。1つは首、1つは胴体を埋めたからだといわれる。ただし上鳥羽の方は「鯉塚」をあやまって恋塚と称したもので、下鳥羽の方が正しいとも言われ、古来諸説ふんぷんとして一向に定まらない。
物語とは
渡辺橋の供養の日、訪れていた一人の美女を見初めた城南離宮北面の武士・盛遠は、彼女の乗った輿を追う。自分の叔母、衣川の娘で、渡の妻となっていた袈裟と知る。
一時ではあるが、共に同じ屋根の下で暮らした間柄、しかも菩薩のような「観音勢至の垂跡か」と称される美しさ。盛遠は衣川に刃を突きつけ、「袈裟を女房にと内々申し侍りしを聞き給わず・・・。
身は蝉の抜け殻の如く成りぬ・・・・。敵の一所に死なんと・・・」
と、袈裟との密会を詰め寄る。
衣川は仮病を装って袈裟を呼び寄せ、事の次第を涙ながらに語る。
年老いた母の命には代えられず、意を決した袈裟は、「思い切って左衛門尉を殺し給え、我家に帰り、左衛門尉が髪を洗わせ、酒に酔わせて高殿に伏せたらんに、濡れたる髪を捜って殺し給え」と盛遠を口説く。
家に戻った袈裟は、渡に普段より多めの酒を勧める。やがて酔いつぶれた渡を奥の間に寝かせると、自分の髪を濡らし、夫の烏帽子をまくら元に置き、
露深き 浅茅が原に迷う身の いとど暗路に入るぞ悲しき
辞世の句を書き終え、燭台の火を消す。
そうとは知らぬ盛遠は、示し合わせた通り濡れ髪を握り、一刀のもとに首を切り落とす。月明かりに見直す顔は、なんと袈裟その人であった。
袈裟御前は江戸時代大いに歓迎された。
浄禅寺の「恋塚碑」は正保4年(1647)この地の領主であった永井日向守直清が建立した碑であって、林羅山撰文の漢文体の銘を刻んでいる。
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五七五
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