小塩山と号する天台宗の寺で、境内に桜の木が多いので「花の寺」といわれる。寺伝によると白鳳8年(680)天武天皇の勅により役小角が創建したのが始まりといい、その後伝教大師最澄が比叡山の坤(西南)にあたるこの地に霊威を感じ、薬師如来像を安置し、天台の道場としたとつたえる。
はじめ小塩山大原寺と号したが、仁寿年間(851~54)仏陀上人(千観
僧都)が文徳天皇の帰依を得て伽藍を再興し、名も大原院勝持寺と改め、大原野神社の別当寺とした。それより伽藍が造営され、塔頭子院だけでも49院を擁する大寺になったという。足利尊氏は六波羅攻略にあたって当寺に立ち寄り、ときの住僧から「勝持」としるした旗竿を献じられ、戦勝の吉瑞なりとして嘉納した。
足利氏の庇護を得、寺運は隆盛におもむいた。寺宝に歴代足利将軍の古文書を所蔵するのはこのためである。その後、応仁の乱によって罹災し、境内は荒廃した。天正11年(1583)青蓮院宮尊澄法親王は当寺の再建につとめ、織田・豊臣両氏もまたその保護にあたった。とくに徳川桂昌院は崇仏の念あつく、堂宇の重修につとめた。
寺は東南に開け眺望よく、広い境内には西行手植えの桜をはじめ、幾多の桜の木があり、近江の守護大名佐々木道誉の当寺における花見をはじめ、中世には洛東の花頂山や若王寺とともに花の名所と称せられた。
瑠璃光殿の堂内厨子内に安置する如意輪観音半跏像(国宝・平安)は西山屈指の像・高さ88㎝、右足を垂れ、榧の一木彫りからなっている。
衣文はきわめて複雑で、本像は宝菩提院の本尊であるが客仏として現在当寺に保管中。
細川幽斎も近くの長岡勝竜寺城在城の時、当寺で連歌を興行した。特に元亀2年(1571)2月5日の歌会は世に「大原千句」といわれ、その時の懐紙は、寺宝となっている。
仁王門は3間一戸、寄棟造り、桟瓦葺の八脚門で、正面一間を通路としている。寺伝では仁寿年間(851~54)の建造とつたえ、応仁の兵火に免れた当寺最古の建物であるがその後改築によって旧構を喪っている。左右の安置される金剛力士立像二体(重文・鎌倉)は、弘安8年(1285)法眼慶秀・法橋湛□両仏師によって作られた墨書銘があり、本市最古の仁王像とみられている。
西行桜は鐘楼の近くにある。西行は世を捨ててのち当寺に入り、出家剃髪したといわれ、その折に植えた桜とつたえる。桔梗形の八重桜で、枝は四方に広がっている。
花の寺と西行桜
平安の末期、鳥羽院の北面の武士であった佐藤兵衛義清が、この寺に入って出家し西行法師となる。その折鏡石と姿見池が残されている。武勇で知られた西行がなぜ出家したのかその原因はさだかではないが、石に向かいながら髪をおろしたその気持ちは如何であったのだろう。
西行はここに草庵を結び一株の桜を植えて吟愛していた。世人はその桜を「西行桜」と称し、寺を「花の寺」と呼ぶようになり、古来から有名な花の名所として知られるようになった。南北朝の時代、婆娑羅大名として知られる佐々木道誉が闘茶会を宴すなど数々の花見の宴、茶会で賑わったようである。謡曲「西行桜」は、この隠栖している西行法師と、庵室の庭に咲いている桜をからませて、春宵の閑寂な情緒をえがいたもので、当寺が舞台になっている。謡曲史跡保存会
西行姿見ノ池・鏡石
不動堂の前にある。鏡石は珪石質で光沢があり、西行が剃髪に用いたものといわれ、その傍に「姿見ノ池」と称する小さな池がある。
翁滝は本堂の背後にある。開山仏陀上人が山王権現に出会ったところと伝え、今も岩の間から水がしたたり落ちている。
関連記事 ➡ まとめ036 花の寺・勝持寺
寺院前回の記事 ➡ 寺院西0509 花の寺・勝持寺
下の地図のユーザー地図 の囲みをクリックすると 付近の記事が探せます