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寺院長0170 光明寺 西山浄土宗  法然上人 蓮生上人

2016年08月24日 07時00分06秒 | 寺院

 

 寺号標

 昭和16年9月建立

 

 光明寺 全景

 

 

光明寺

長岡京市指定文化財 有形文化財

・御影堂(本堂)附棟札3枚、渡廊下(本堂・阿弥陀堂間)

・阿弥陀堂・釈迦堂・勅使門・経蔵・観音堂・鐘楼・總門

・薬医門・御廟・御廟拝殿・勢至堂・納骨堂・大書院・講堂・食堂・衆寮門

当寺は西山浄土宗の本山で、寺伝によれば、建久9年(1198)に蓮生法師(熊谷次郎直実)により創立され、法然上人を開山第一世としています。境内は広く、洛西一の伽藍を誇り、主要な建物は山内に点在して廊でつながれています。応仁、元亀、天正の兵火にあい、江戸時代には享保19年(1734)の火災により焼失し、大半の建物はそれ以後の建立です。

總門をくぐり、美しい石畳の参道を登ると、正面に壮大な御影堂が、その右奥には阿弥陀堂があります。御影堂は宝暦3年(1753)の再建で、派手な装飾はないが全体的構成の精美性を意匠の主眼としたものです。阿弥陀堂は寛政11年(1799)の建立で、本堂より少し華やかな造りになっています。御影堂の後方にある御廟は明暦2年(1656)の再建で禅宗様を基調とした華麗な造りです。軒下回りの組物には多くの彫刻が施され、廟内の板壁は飛天や雲、蓮の花などが極彩色で描かれています。その前にある拝殿は山内では最も古い承応2年(1653)の建築です。御影堂の左下には、元文元年(1736)の釈迦堂、勅使門があり、庫裏、講堂へと続きます。天保4年(1833)に建立された講堂は食堂とともに浄土宗寺院でも壇林(仏教の学問所)に関する類例の少ない遺構群であります。平成5年2月 長岡京市教育委員会

 

 

 

 

 

 

 

西山浄土宗総本山。建久9年(1198)、法然上人の弟子蓮生法師(熊谷次郎直実)が、師のすすめによってこの地に草庵を開いたのが始まりです。

その後、法然上人の高弟である證空上人とその弟子達に受け継がれてきました。

光明寺の周辺、粟生広谷の地は、法然上人が初めて念仏の教えを説いたところです。総門の前に「浄土門根本地」の石碑が建てられているのは、正親町天皇より「法然上人ノ遺廟、光明寺ハ浄土門根本之地と謂イツベシ」という綸旨を賜ったことに由来しています。

総門をくぐり、ゆりやかな石段を上ると宝暦3年(1783)に建てられた御影堂が見えてきます。この御影堂には、建永の法難で四国へ流罪ときまった法然上人が、弟子の願いに応えて自らお作りになったといわれる「張り子の御影」が祀られています。また、その背後の丘の上には、法然上人の御遺骨を納めた御本廟(非公開)があります。

多くの寺宝には木像千手観音立像や絹本着色二河道図(鎌倉期:東京国立博物館勧告保存)などの国指定重要文化財も含まれています。

境内には樹齢150年を超える楓の木々がたくさんあり、西山の紅葉の名所として有名です。

 

 

蓮生法師(熊谷次郎直実)と法然上人

寿永3年(1184)、源平一の谷の合戦。関東一の剛の者と呼ばれた熊谷次郎直実は、源義経率いる奇襲部隊に所属し、戦に臨んでいました。

この戦いで良き敵を探し求めていた直実は、波際を逃げようとしていた平敦盛(平清盛の甥・当時16歳)を呼び止め、その首を討ち取ります。しかし、自分の息子ほどの年齢の若武者を殺めたことで、直実は悔恨の念と世の無常を感じることになります。

 建久4年(1193)、直実は犯した罪を償うために武士を捨て、東山吉水の法然上人を訪ねて仏門に入ります(法名・法力房蓮生)。建久9年(1198)修行を経た蓮生上人は、喧噪の吉水を離れ、静かに念仏を称えられる地を求めて、ここ粟生の地に寺を建立します。そして、法然上人を招いて落慶法要を行い、上人を開山第一世、自らを第二世とし、上人から「念仏三昧院」の寺号を頂きました。これが光明寺の発祥です。

法然上人は建暦2年(1212)に亡くなりました。晩年は、奈良や比叡山の古い教団から迫害を受けていたといいます。死後の嘉禄3年(1227)、比叡山の僧徒が、東山大谷の上人の墓を暴き、遺骸を鴨川に流そうと企てます。

この企てを知った弟子達は、秘かに遺骸を太秦の西光寺に移しました。

翌安貞2年(1228)、上人の石棺が光明を放ち、粟生の地を照らすという不思議な事が起こったため、遺骸をこの地に移し、火葬にして裏山に御廟を立てました。この時の奇瑞にちなみ、念仏三昧院は四条天皇より「光明寺」の寺額を賜り、以後、光明寺と呼ばれるようになりました。

 

 

高麗門

 閻魔堂

 

 

 

 鐘楼

 御影堂

 手水舎

 

 皇太子殿下 御手植之松

 大正7年4月6日 行啓

円光大師の棺 

 

 

阿弥陀堂 

庫裡 

円光大師火葬跡 

 

柏槙(びゃくしん) ヒノキ科の常緑針葉樹

柏槙は茨城県のイブキ山に多く自生してることから、イブキともいう。

材は緻密で堅く、よい匂いがする。

高さは15メートルで、目通りの幹周りが3.8メートル、根元の周囲が4.6メートルにも達する巨木で、樹齢4、5百年といわれ、京都府下においても学術的価値が高く、

昭和52年に本市の天然記念物に指定された。

勢至菩薩をまつる円光大師(法然上人)の火葬跡前のあるこの木は、享保19年(1734)年ごろに描かれた「光明寺焼失絵図」などから、

火葬跡前に献樹として植えられた一対のうちの向かって左側にあたるとみられる。

応仁の乱や山崎の合戦などで焼失を繰り返した光明寺の境内にあって、

青々と茂る葉を天に向け、大地に根をおろしたその姿は、

歴史の重みと計り知れない生命力を感じさせてくれる。

平成10年3月 長岡京市教育委員会

専門寮 

庫裡 

鎮守 

 

 

 

 

薬医門 

 

 

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