琵琶湖疏水は、明治維新で東京に都が移り、活気を失っていた京都の復興を目指してつくられたもので、明治18年(1885)に、第1疎水の工事がはじまりました。第1疎水の第1トンネルは、大津の三井寺下と藤尾の両側から掘りすすめられました。同時に、藤尾側から約740m(第1トンネル全長の3分の1の地点)のところに第1竪抗を掘り下げ、その底から大津の三井寺下・藤尾の東西両側の出入口に向けて掘り進め、東西のトンネルが貫通しました。このようにして明治23年(1890)に完成した第1トンネルは、当時日本で1番長いトンネル(全長2436m)となりました。
竪抗とは、地表から垂直に掘り下げた坑道で、工事の促進・換気・採光のためにつくられました。竪抗の深さは約50mあります。また、地上から5.5mまでの抗口上部は、直径5.5mの円形、それ以下の部分は3.2m×2.7mの楕円形になっています。琵琶湖疏水工事の責任者であった田邉朔朗は、昭和14年(1939)疏水工事を振り返って、「一番苦しんだのは竪抗ですけれども、それと同時に工事上で安心を与えてくれたのがあの竪抗です」とかたっています。
なお、平成8年(1996)6月には、第1疎水のトンネル(第1、第2、第3)の各出入口、第1竪抗、第2竪抗、第11号橋(本邦最初鐵筋混凝土橋)、山ノ谷橋、蹴上インクラインか、南禅寺水路閣の12箇所が国の史跡に指定されました。
田邉朔朗 1861年(文久元)~1944年(昭和19)
明治10年(1877)工部大学校(現在の東京大学工学部)に入学し、同16年、卒業しました。卒業論文が琵琶湖疏水にかかわるもので、右手を怪我しながらも、左手で製図し、論文を書いたという有名なエピソードがあります。卒業してすぐに琵琶湖疏水工事のために京都府に採用され、同20年琵琶湖疏水工事全ての責任者となりました。
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