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京都市東山区本町15-806
文永年間(1264~75)南山士雲によって創建された山内塔頭の1つで、むかしは林泉の美を以って知られたが、惜しくも今は荒廃している。南山士雲墓は竹藪の生い茂る方丈背後の奥深い墓地の北にある。南山士雲は東福寺の開山聖一国師(弁円)の法をつぎ、のちに足利尊氏の要請によって鎌倉の建長寺に入り、また崇福寺の開山ともなり鎌倉武士の帰依をあつめた。のちに再び京都に帰り、東福寺の第11世住持となり、建武2年(1335)10月81歳の高齢で亡くなった。この墓は、花崗岩製、高さ約1.5mの石造無縫塔(南北朝)で、台座は8角形。笠の四方にみごとな四天王像を厚肉彫りにし、上の中台と下の基礎には鎌倉系統のすぐれた大きな蓮弁を彫り出している。泉涌寺の開山塔の中国風なのに対し、これは純日本風の無縫塔である。付近には江戸後期の儒医吉益東洞・南涯父子墓および中西深斎・鷹山父子墓や兵学家の柏淵石門の墓等がある
吉益東洞先生 墓 當寺
吉益東洞(1702~1773)
中国医学からの日本的脱皮は、曲直瀬道三(1507~1595)から始まり、東洞で完成したといわれている。東洞の「毒をもって毒を制する」というきびしい治療法には、病人は恐れて近寄らなかった。人形作りの内職で生活をつないでいたが、それが縁となって山脇東洋が東洞を世に送り出した。実験医学の道を開き、その著書のうち「類聚方」は、当時の医者たちの間で、ベストセラーになった。子の南涯、孫の北州の三代で、3000人以上の門弟を世に送り出したという。
宇佐玄雄 建立
昭和5年6月
のほほん寺子屋とうふくじ と書かれています
荘厳寺
関連記事 ➡ 石碑中0084 名医 吉益東洞 宅蹟
寺院 前回の記事 ➡ 寺院東0330 東福寺 中大門
五七五
おみくじが凶とでたので休みます /酒井
ことわざ
蟻の思いも天に昇る(ありのおもいもてんにのぼる)
小さく非力な蟻の願いでも、一心であれば天に通じてかなえられることがあるという意。弱小な者でも、一念発起して努力すれば大望を果たせるというたとえ。
類・一念天に通ず
・念力岩を徹す
・蚤の息も天にあがる
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