圓光寺
瑞厳山と号する臨済宗南禅寺派の寺で、徳川家康が関ヶ原の戦役後の慶長6年(1601)、伏見城に近い指月の地に学問所をひらき、元佶三要和尚を招いて校主としたのが当寺の起こりである。元佶和尚は下野国(栃木県)足利学校の僧で、徳川氏創業のはじめより家康の知遇をうけ、畿内社寺の訴訟を公聴し、また学問をすすめた。この縁により、家康は朝鮮文書200部・日韓の書籍ならびに木製活字10万の管理にあたらせ、世に円光寺版または伏見版とよばれる多くの書籍を刊行した。この木活字は朝鮮役に際して輸入されたものである。慶長11年(1606)家康の駿府隠居によって当寺も駿府に移ったが、寺籍は相国寺内に移された。しかし、元和6年(1620)相国寺の大火によって円光寺も類焼し、寛文7年(1667)現在の地に移るに至った。当寺はわが国印刷文化史上、特筆されるべき寺である。境内には、千手観音坐像を本尊とする本堂や家康を祀った東照宮等があるがも以前はもっぱら尼僧の修行道場だった。
洛北の眺めがよい
圓光寺伝来の木活字(約400年前)
近世初期には活字版印刷が盛行し、印刷された書籍は古活字版と称されており、わが国の出版文化史上名高い。その1つである伏見版は徳川家康が足利学校校長であった閑室元佶に京都伏見の円光寺において漢籍印刷を行わせたもので、それに用いた多量の各種活字は我が国の印刷技術を跡づける上で貴重である。52320個
大勢の人でした
現代の作家による 屏風
富岡 鉄斎 の作品
墓地
オマールの墓 戦争時の留学生 広島の原爆で被爆・被曝した
村山たか女 の墓
寺からの眺め 遠くに見えるのは 愛宕山
愛宕山は 右の方 正面の山は 船岡山
池に写る景色
こちらは 見上げた 紅葉
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