本光寺 日蓮宗
伊東甲子太郎外数名殉難跡
安寧自治連合会 油小路町 昭和四十六年十一月 京都市
伊東甲子太郎外数名殉難跡
伊東甲子太郎(1835~67)は常陸国出身の新選組隊士。学問もでき、剣は北辰一刀流の名手であった。近藤勇(1834~68)とともに新選組を結成したが,元治元年(1864)に門弟ら7人を率いて新選組に入隊し参謀として重視された。尊王派であった伊東は次第に隊長の金銅勇と対立するようになり、慶応3年(1867)3月に同志15人とともに新選組を脱退して孝明天皇山御陵衛士と称する別組織をつくり高台寺月真院を屯所とした。その後薩摩藩の援助を受け、盛んに討幕を説いた。しかし,新選組との対立は深く慶応3(1867)年11月18日 近藤勇らは伊東を招いて酒をふるまい酔った伊東をその帰路この地で襲撃され,駆け付けた同志3名も待ち伏せていた新選組数十名の隊士に襲われ共に倒れた。世にこれを油小路七条の変という。
伊東甲子太郎 墓は即成院 泉涌寺山内
即成院の墓石には「常州志筑之人 慶応三丁卯十一月十八日於油小路戦死、年三十二」と刻まれている。その左右には服部武雄(36歳)、毛内監物(33歳)、藤堂平助(24歳)の墓がある。いずれも同日夜、七条油小路に於いて新選組に斬られた人々である。遺骸は壬生墓地に埋葬したが、明治維新後、生き残った衛士達によって即成院に改葬したと伝える。
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