本殿と社務所のある小社だ。だが歴史はある
もとは斑女(はんにょ)ノ社とか半女ノ社と云っていた。
これが転訛して斑女になったのだと伝わる
一説には、宇治拾遺物語にある
長門前司の娘を葬った斑女塚が起こりとも云われる
この塚はこの繁昌社より西北に100mほどのところにある
此の娘は縁遠く未婚のまま死んだが遺体は
他所に埋葬されることを嫌って動かず、やむなく邸内に葬った。
その後、奇怪なうわさがあって家はつぶれ、塚だけが残ったという。
ここが、繁昌社の旧座らしい 社名も斑女➡繁昌と改名したらしい
豊臣秀吉は東山の八幡社にそばに移そうとしたが
祟りがあるということで元へ戻した。
江戸時代は真言宗の僧によって管理されていたが、
明治の神仏分離によって神社だけが残った
昔は縁談事で当社の前を通ると、必ず破談になるといわれ、
嫁入り婿入りの行列もこの社の前を避けていた。
これは、未婚のまま死んだ斑女を敬遠したからであろう。
が今日ではこれを逆手に取り商売繁盛、縁結びの神として信仰されている
ここは 繁昌社 とある
繁昌社
繁昌社の祭神は宗像三女神、田心姫命、市杵島姫命、湍津姫命である。三女神は、海上交通の神で、商品流通の守護から「市の神」として信仰されている。江戸時代には、功徳院と号し、真言宗の僧によって管理されていたが、明治の神仏分離により神社だけが残った。当社はもと「班女ノ社」とも、「半女ノ社」とも称し、牛頭天王の后針才女を祀り、それが転訛し班女になったと伝える。また、「宇治拾遺物語」巻三の中に「長門前司の娘が亡くなった後、遺骸を運び出そうとしたが動かず、塚になった」と記す。この塚が、社の北西方向(仏光寺通の抜ける小路の中ほど)に現在も残っている「班女塚」だと伝える。
後世の書物に、「班女と繁昌は同音の為、男女参拝し子孫繁栄を祈願する」と書かれ、縁結びの神として詣でられる他、市杵島姫命は仏教の「弁財天」と解されることから、商売繁盛・諸芸上達の利益があるという。京都市
ここは 繁昌宮 とある
ここは 繁昌神社 とある
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