史跡中006-1 長崎殉教の26聖人発祥の地
ここは 四条堀川下がるの 病院の壁
SUS OBRAS HABLAN
26聖人発祥の地
ここから西100m妙満寺町に1594年フランシスコ会のベトロ・バプティスタ神父により聖マリア教会病院学校スペイン使節館が建てられた
1597年2月5日に長崎で殉教した26聖人は同神父をはじめ5名のフランシスコ会士と3名の日本人イエズス会士および17名の日本人信者で殆んどここで活動した人であった
ここに建設された聖アンナおよび聖ヨセフ病院は京都最初の西洋式のもので貧しい人が多数収容された
ここに26聖人を顕彰するとともに救貧救病の社会事業が行われたことを記念して銘板を掲げる
1979年 駐日スペイン大使館 カトリック京都司教区
そこに行ってみると
史跡中006-2 妙満寺跡 26聖人発祥の地
石碑中0020 妙満寺跡 26聖人発祥の地
確か長崎までは歩いて行ったんだ 当然だな
法華宗総本山妙満寺は,永徳3(1383)年室町六条坊門に建立されたが,
応仁の乱や天文法華の乱などで移転した。
天文7(1538)年この地に落ち着いたが,天正11(1583)年,
豊臣秀吉(1536~98)の命で寺町二条へ移った。
文禄2(1593)年秀吉の招きで来日した
フランシスコ会ペトロ・バプチスタ神父(?~1596)は,妙満寺跡地を与えられ,
ここを拠点に布教活動を行った。
慶長元(1596)年,キリシタン追放政策に転じた秀吉は,
京都・大坂の日本人信者らとともに神父を捕え,長崎に送り処刑した。
のちに彼ら26名は聖人に列せられた。
この石標は,妙満寺跡と二十六聖人の遺跡を示すものである。
妙満寺は現在、左京区岩倉にあります
この石碑とは直接関わりはないですが
このころの キリシタン墓碑は何か所かで掘り出されています
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