崇道天皇(早良親王)、伊予親王、藤原吉子、藤原広嗣、橘逸勢、文屋宮田麿の非業の死を遂げた、疫病流行や天変地異はこの怨霊によるものと考えられ、それを鎮めるために御霊が祀られた
霊元天皇の祈願文(重要文化財)があります
江戸時代の国学者 山崎闇斎の垂加社 山崎闇斎の弟子の子孫が今の宮司さんとのことです
下御霊神社
平安初期の貞観5年(863)に神泉苑で行われた御霊会で祀られた崇道天皇(早良親王)、伊予親王、藤原吉子、藤原広嗣、橘逸勢、文屋宮田麻呂の六座に、吉備聖霊と火雷天神を加えた八座、即ち八所御霊を出雲路(上京区)の地に奉祀したのが始まりである。いずれも無実の罪などにより非業の死を遂げた人物で、疫病流行や天変地異はこの怨霊によるものと考えられ、それを鎮めるために御霊が祀られた。
当初、御霊神社(上御霊神社)の南にあったことから下御霊神社と呼ばれるようになったといわれ、以後、社地を転々とし、天正18年(1590)に豊臣秀吉の命により当地に移転した。古来より、京都御所の産土神として崇敬され、享保年間(1716~1736)に霊元天皇が当社に行幸し、宸筆の祈願文を納めている。本殿は、寛文3年(1791)に仮皇居の内侍所を移建したもので、表門は、旧建礼門を移したものといわれている。境内の垂加社には、江戸時代の神道家、山崎闇斎を祀っている。 京都市
正門
天明の大火(1788)後に造営された仮皇居(御所)の建礼門を下賜され移築したものと伝えられています。大きい梁の中央には龍が飾られ、表門の化粧梁には玄武と朱雀に乗った仙人が、また裏側の梁には麒麟と鳳凰が飾られております。
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27年度の行事です
拝殿です
本殿です
京都市指定有形文化財
下御霊神社 本殿 幣殿 拝所 南北廊 拝殿
現社殿は、天明8年(1788)の大火で旧社殿が焼失した後、再建されたものである。本殿は天明8年に仮皇居の聖護院宮において造営された内侍所仮殿を、寛政3年(1791)に移建したもので、仮殿造営当初の規模、形式をよく残している。本殿の前には切妻造の幣殿(寛政5年)が取りつき、その前には更に唐破風造の拝所(寛政5年)がつく、また、幣殿からは南北に入母屋造の廊(文政13年・1830)がのびている。本殿、幣殿、拝所そして南北廊が、屋根をそれぞれ交錯させて一連の内部空間をつくる特異な社殿構成は、市内の御霊社に特有のものであり、なかでも当社の社殿は造営の年代が古く貴重である。また、拝所の前方に独立して建つ拝殿は、寛政10年に造営されたものである。
昭和58年6月1日 指定
京都市
江戸時代の様子がわかります
これは江戸時代の天保年間に書かれた当社祭礼の絵図です。現存している剣鉾もあれば、幕末に焼失してしまった剣鉾なども書かれております。明治になるまでは7月18日(旧暦)が御輿迎(今の神幸祭)。8月18日(旧暦)が御霊祭(今の還幸祭)でありました。世の移り変わり中で盛衰を繰り返し、応仁の乱による中断を経ながらも絶えることなく行われてまいりました。維新の前までは皇居(御所)の外郭御門内を巡行し、仙洞御所、大宮御所御門前に神輿を奉安し、御門内より上皇様の御排覧があって白銀を御奉納あらせられ、当社神主が奉幣の儀をおこなうことが恒例でありました。
神社の歴史です
垂加社と猿田彦社と柿本大神 山崎闇齋先生についての説明書 毎年2月22日に資料公開されている
稲荷大神
山崎闇齋 石碑
献木 日本国防婦人会による紀元2600年 石碑
末社・八幡、内宮、外宮、春日社
右・天満宮 脇に 寛保4年(1744年)の古い灯篭がありました
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南門
大国主社
右から斎部、大将軍社・高知穂社、愛宕社、日吉社
神物宝庫
神物寶庫
この土蔵は神輿や祭具を保管する神庫です。江戸時代の京都では宝永5年(1708)と天明8年(1788)の大火によって内裏をはじめ公卿の邸宅や多くの家屋が焼失し、当社も全焼しました。ただ幸いにも天明の祭には神庫・土蔵だけは扉を閉めて災いを免れ、宝永6年に東山天皇より御寄附の大宮神輿など貴重な祭器が無事でありました。
この神庫は元々宝永の大火後に建てられたと思われますが、その当時の境内絵図ではここには違う建物がありますので、天明の大火後に社殿造営に伴い現在の位置に移築したと考えられます。
絵馬です
前回の神社記事 ➡ 神社西0031 龍王明神