拝殿
寛永2年(1625)徳川頼宜(紀伊藩祖)が石鳥居とともに寄進したと伝わる。中央の一間をひらいて通路とする割拝殿で、正面の唐破風下には太閤桐をあらわした蟇股があり、軒廻りの蟇股にもさまざまな花鳥を彫刻している。伏見城の車寄を移したといわれるが、一説にもと古御香にあったのを移したともいわれている。
向こうに見えるのが
本殿
慶長10年(1605)徳川家康の再建と伝わる。合計九柱の神を祀る。
御香水
御香水
今から1100年前、平安時代の貞観4年(863)9月9日、境内から水が湧き出しよい香りが四方に漂い、この水を飲むと病気がたちまち癒りました。この奇瑞により、清和天皇から「御香宮」の名を賜りました。井戸は明治時代に環境の変化により、涸れてしまいましたが、昭和57年の春に復元、昭和60年には、歴史と由緒があり地場産業である酒造りと結びつきが深く、水量も豊富で保存管理がよいことから、環境省「名水百選」に認定されました。
汲みに来る人が多い。
石庭
元和9年7月(1622)小堀遠州が伏見奉行になり庁舎の移転新築を命ぜられた。そこで遠州は得意の造園の腕を揮ひ、数奇を凝らし風雅を盡した立派な庭園を造った。寛永11年上洛した三代将軍家光ここに迎へた時、そのあまりにも立派なのに感嘆して禄高五千石を加増され、茲に一躍大名に出世した。
明治維新になり奉行所が廃止されその跡に工兵隊が出来た時、庁舎は勿論その庭園も取りつぶされて、僅かに小さい池と築山だけが残っていた。それが終戦後国道24号線に依り取り拂われることになったので、その庭石の拂い下げを受けて、ここに新たに造園したのである。その中に文明9年(1477)の銘のある珍しい見事な手水鉢がある。又、後水尾上皇から「所からの藤」と仰せられた銘木とその由緒を誌した石の碑も共にここに移した。
この石庭は遠州流の手法を現代的に生かした枯山水で中根造園研究所長 中根金作氏の作庭にかかる。
小堀遠州 ➡ 人物006 小堀遠州
前回の記事 ➡ 神社伏0076-4 御香宮神社4 明治維新碑
次回の記事 ➡ 御香宮6
神社 前回の記事 ➡ 神社山0075 蝉丸神社
今日の川柳
達筆で読めない文字が悩ましい /岡本