日蓮宗
北門
庫裏
叡昌山と号し、日蓮宗本山の1つである。永享8年(1436)本阿弥清信が日親上人を開基に請じて
創建したのが当寺の起こりという。はじめ四条高倉にあったが、
天文5年(1536)法華の乱によって山徒に焼かれ、のちここに移った。
江戸時代には後水尾天皇・紀州徳川家の保護を受けて繁栄し、
中山法華経寺(千葉中山にある日蓮宗本山)輪番にあたる上方三山の1つでもあった。
現在の堂宇は江戸時代後期に再建されたものであるが、本阿弥光悦作庭の「巴の庭」は有名である。
このほか当寺は本阿弥家の菩提寺であったことでも名高く、一門の墓もあり、
本阿弥光悦は多くの書画・什器をよせている。
寺宝には、銭舜挙筆と伝える蓮華図、群介図・中文殊左右寒山拾得画像
・長谷川等伯筆の仏大涅槃図など絵画十点と
本阿弥光悦筆の法華経題目など書二点の重要文化財を所蔵している。 京都市
塔頭 教行院 ここを宿坊としていた長谷川等伯は、
当時の住職日通上人と深い関係を結んでいたため、
等伯関係の作品や資料を多数所有している
朝鮮通信使ゆかりの地
1592(文禄元)年から98(慶長3)年まで7年におよんだ文禄・慶長の役
(韓国・朝鮮では壬申倭乱、中国では万歴朝鮮役などとよぶ)は朝鮮半島の人々に甚大な犠牲を与えた。
豊臣秀吉の死によって戦闘は終息したものの、その戦後処理は難航した。
朝鮮側は新しく日本の政権を握った徳川家康の真意を確かめることが先決だと考えていた。
そこで1604(慶長9)年に松雪大師惟政という高い地位にあった僧侶をまず派遣することにした。
松雪大師はこの戦中に僧兵を率いて日本軍と戦った人である。
同年12月末に対馬島主などと共に入洛した松雪大師は本法寺に滞在し、家康との会見を待った。
その間、京都五山の著名な僧侶たちが本法寺に大師を訪ねて詩文の交流をしたり、
仏教や儒教の知識について筆談問答を重ねた。
ある日本の僧侶は松雪大師を「博覧強記・筆跡もまた麗し」と評している。
家康との会見は翌年3月初旬に伏見城で行われた。
この会見で家康は「我は朝鮮に讐怨なし。和を請う」と述べた。
この報告を松雪大師から得た朝鮮朝廷は
「家康からの謝罪の意思を表した国書の到来」などが国交回復の条件とした。
これが届いたので、1607(慶長12)年には朝鮮から戦後初めての
使節団(回答兼刷還使)が来日することにつながった。
多宝塔
旧市内に残る多宝塔としては唯一のもので貴重な遺構
左は経蔵 右は 鐘楼
本堂前にある光悦手植えの松と伝わるが今のは何代目かの松のようだ
塔頭 尊陽院
鬼子母神堂・魔支利天堂
石鳥居 大正9年6月建立
明治32年7月 建立
魔支利天堂
北辰殿 とある
寺の外へ 修業
西門 仁王門
大魔利支尊天 と書かれた大きな 石碑
仁王門 の扁額
明治33年12月 建立
開山堂
本堂 扉が開け放たれています
本堂 扁額 光悦筆
他寺からの 供花 でしょうか