貴船神社 第一鳥居
官幣 中社 貴船神社 明治20年10月 建立
楫取社(かじとりしゃ)
社伝によると、玉依姫は浪花より舟にてさかのぼって来られたとき、ここで楫をとりはずし、貴船に向かわれたという。当社はそのとき、水手として
奉仕していた楫師を祀ったものといわれるが、現在は宇賀魂神を祀り、万福の楫がうまくとれるようにとの信仰がある。
是より・・ 船本・・ 迄拾八町
祠 前回の記事 ➡ 祠左040 薬王坂の付近 山中の祠
関連記事 ➡ 神社左0137 貴船神社
下の地図のユーザー地図 の囲みをクリックすると 付近の記事が探せます
蛍岩 蛍の名所
もの思へば 沢の蛍も わが身より
あくがれ出づる魂かとぞ見る
木船川 山もと影の夕ぐれに
玉ちる波は 蛍なりけり
平安時代の女流歌人・和泉式部が貴船神社に参詣し、蛍の歌を詠みました。それから1200年後の現在も、6月中旬ごろからこの付近一帯で、蛍の乱舞が見られます。
関連記事 ➡ 人物019 和泉式部
まち歩き 前回の記事 ➡ まち歩き左0816 烏帽子岩 貴船川
下の地図のユーザー地図 の囲みをクリックすると 付近の記事が探せます
978年頃~1048年頃 平安時代中期の女流歌人。美人で多感な、情熱あふれた歌人として知られる。越前守をつとめた大江雅致のむすめで、はじめ和泉守橘道貞の妻となって小式部内侍を生んだが、冷泉天皇の第3皇子為尊親王と恋愛し、親王の死後はその弟の敦道親王の愛情を受け、夫から去った。敦道親王とも死別したのちは一条天皇の中宮彰子に仕え、また藤原保昌と再婚したが、不和のため離別した。晩年は小式部内侍とも死別し、出家するなど不幸であった。歌は『新古今和歌集』などにのせられており、情熱をそこにひめたものが多い。そのほか『和泉式部集』『和泉式部日記』がある。
「あらざむこの世のほかの思ひ出にいまひとたびのあふこともがな」(病気であの世にゆく前に、この世の思い出にもう一度お会いしたいものです)の歌が『百人一首』の中にある。
ゆかりの地
1 寺院中0067 誓願寺 浄土宗西山深草派 H28.5.9画像追加
水徳神高龗神を祀る旧官幣中社で、社名は古くは木船、貴布祢とも書かれたが、明治4年(1871)以降「貴船」と改められた。平安時代延喜の制には、名神大社という最も高い格式に列し、日照りや長雨が続いたとき、また国家有事の際には必ず勅使が差し向けられ、祈念がこめられた。弘仁9年(818)以来の暦朝の奉幣、祈願では、もっぱら祈雨、止雨の神として崇められ、祈雨には黒馬、祈晴には白馬又は赤馬が献ぜられるのが例であった。平安時代末期には賀茂別雷神社(上賀茂神社)の摂社とされたが、明治以降独立した。
かつて社殿は貴船川に沿って上がったところにある現在の奥宮の地にあったが、天喜3年(1055)、現在地に移転された。
本殿、拝殿、権殿等から成り、本殿は文久3年(1863)及び平成17年(2005)に改修された。また、境内には祈雨の行事を行った雨乞の滝、奥宮本殿の西には船形石と呼ばれる船の形に積んだ石塁がある。和泉式部がお詣りし、不和となっていた夫との願いがかなって復縁した話はよく知られている。
京都市
絵馬発祥の社
先人にならい絵馬を奉納してご祈願下さい。
古来より雨乞いの社として名高い当社には畏くも歴代天皇様より旱天には黒馬、霖雨には白馬又は赤馬をその都度献げて御祈願される例になっていました。しかし、時には生馬に換えて『板立馬』を奉納したと、平安時代の文献である『類聚符宣抄』は伝えています。この「板立馬」こそは今日の絵馬の原形といわれています。当宮ではこの故事に倣い、かつて和泉式部が復縁し、平實重が蔵人昇任を、大宮人が加茂競馬の必勝を、そして源義経が源氏再興を、それぞれ大神様に祈ったようにも皆様方の心の願いを1枚の絵馬に託して御祈願なさいますようお勧めいたします。
本宮 所願成就 結社 えんむすび 奥宮 心願成就
桂(御神木) 貴船は古くは「気生嶺」「気生根」とも書かれていた。大地のエネルギー「気」が生ずる山、「気」の生ずる根源という意味。
神道では、体内の気が衰えることを「気枯(けが)れ」といい。古来当社に参拝する者皆、御神気に触れ、気力の充実することから運気発祥(開運)の信仰が篤い。この桂は、樹齢400年。樹高30m。根元からいくつもの枝が天に向かって伸び、上の方で八方に広がる。これは御神気が龍の如く大地から勢いよく立ち昇っている姿に似て、当社の御神徳を象徴し、まさに御神木と仰がれる由縁である。上流の結社さらに奥の奥宮の境内にもこれより大きな桂がある。
由緒
御祭神は高龗神。水の供給を司る神。創建年代は明らかでないが、第18代反正天皇の御世に奥宮の水の湧き出すところに社殿を建てたという御鎮座伝説がある古社。対岸鞍馬山の鞍馬寺は、平安初期の延暦15年(796)藤原伊勢人が貴船明神の夢のお告げで建立したと諸書に出ているので、その当時すでに貴船の神は大きな力を具えていたことがうかがえる。永承元年(1046)7月の水害で奥宮が被災、天喜3年(1055)4月この地に本社を移築した。
京都に都が開かれて当社は国の重要な神社となり、事ある毎に勅使(天皇のお遣い)が差し向けられた。特に当社には、日照りの時には黒馬を、長雨の時には白馬を献じて「雨乞い」「雨止み」の祈願がこめられた。「その数数百度に及ぶ」とある。平安時代の勅願社22社の1社で、延喜式名神大社。庶民の崇敬も篤く全国に2000社を数える分社がある。
古くは「貴布禰」と記したが「黄船」「木生嶺」「気生根」などの表記もみられる。明治4年官幣中となり、以後「貴船」の表記で統一された。例祭 6月1日
貴船神社中宮 結社(ゆいのやしろ)
貴船神社中宮 結社(ゆいのやしろ)
相生の杉(御神木)
同じ根から生えた二本の杉。樹齢1000年
相生は「相老」に通じ、夫婦ともに長生きの意味
思ひ川
夫の愛を取り戻そうと思い悩んでいた和泉式部は、貴布禰詣でを思い立ちました。当時は奥宮で本社で参拝者はこの谷川で手を洗い口をすすぎ、みを清めてから参拝しました。
この谷は禊(みそぎ)の川、物忌(ものいみ)の川だったのです。和泉式部もここで身を清めて恋の成就を祈ったのでしょう。
禊の川だった「おものいみ川」が、和泉式部の恋の話と重なり、いつの頃からか「思ひ川」と呼ばれるようになりました。
遅桜なほもたづねて奥宮
思ひ川渡ればまたも花の雨 虚子
貴船名石
つつみケ岩
連理の杉(御神木)
拝殿
貴船と「鉄輪」の伝説
当社は古来より水ノ神として崇敬され祭神として高龗神を祀り、心願成就信仰としての「丑の刻詣」で知られている。
むかし宇治の橋姫が丑の刻(午前2時)詣りをして男に呪いをかけた伝説があり、これをもとにつくられたのが謡曲「鉄輪」で、橋姫が頭にのせた鉄輪を置いた鉄輪掛石が叡山電鉄・木船口駅の傍らにある。丑ノ刻詣りは祭神が国土豊潤のため、丑年丑月丑日丑刻に降臨されたと伝える故事によるもので、人々のあらゆる心願成就に霊験あらたかな事を示すもので、単にのろいにのみとどめるべきものではない。
謡曲史跡保存会
貴船神社 奥宮
当地は、貴船神社が当初創建されたところで、当社の祭神も本宮と同様、水や雨を司る神「高龗神」である。社伝によれば、「反正天皇の時代(5世紀初頭)に、玉依姫命(神武天皇の母)が黄船に乗って浪速(大阪)から淀川、鴨川、貴船川をさかのぼって当地に上陸し、そこに祠を営んで水神を祀ったのが当宮の起こりである」とのことで、地名及び社名の起源をこの「黄船」にもとめる説もある。
境内の本殿横には、この伝説にまつわる「船形石」があり、これを積み囲んだ小石を持ち帰ると航海安全に御利益があるとされた。
また、本殿下には巨大な龍穴があり、文久年間(1861~1863)の本殿修理の際、大工があやまってノ ノミをこの中へ落としたところ、一天にわかにかき曇り、突風が起こり、ノミを空中へ吹き上げたという。この他、宇治の橋姫伝説や和泉式部の恋愛成就など、当社にまつわる逸話か数多い。
なお、当社境内周辺には、昭和60年(1985)6月に京都市指定天然記念物に指定されたカツラをはじめ、高木が多く見られ、自然遺産の宝庫でもある。京都市
神社 前回の記事 ➡ 神社左0136 由岐神社
関連記事 ➡ 人物019 和泉式部
航海安全 ⇒ 石塔八幡001 五輪大石塔 航海記念塔 重要文化財 三宅碑
貴船神社
結社
奥宮
霊宝殿
鞍馬山博物館。1階は自然科学博物苑で、鞍馬山中に棲息するモモンガ・ムササビ等の珍獣奇鳥をはじめ昆虫・岩石・植物等の資料、標本、模型等を展示している。
2階は寺宝展示室。経塚石造宝塔(国宝・藤原時代)は、昭和6年(1931)の春、本堂拡張工事の際、本堂背後の崖上に営まれていた経塚の標識として建立されていたもので、高さ84㎝、松香石製、古さに於いては石造宝塔中、わが国最古になる。
また、銅灯籠(重文・鎌倉時代)は高さ2.31m、ただし円筒形の火袋だけが正嘉2年(1258)の作で、表面に毘沙門天そのたの仏像を陽刻し、周辺に女性をまじえた多くの助成者の名が刻まれている。笠以下は元禄時代の補修による鉄製である。
坂上田村麻呂所用とつたえる黒漆剣(重文・平安時代)や戦国時代の武将の祈願文、書状等が展示されている。別室の与謝野記念室には与謝野寛・晶子夫妻の文箱・机・書籍・歌稿等が展示されている。旅を好んだ夫妻は、先代住職信楽香雲管長が同門であったよしみから、鞍馬もよく訪れた。昭和51年(1976)には東京荻窪にあった晶子の書斎「冬柏亭」が寄贈され、霊宝館前に移築されている。
3階の宝物収蔵庫には、鞍馬寺にとって最重要な仏像3体が安置されている。
毘沙門天および脇侍吉祥天・善膩師童子立像(国宝・平安時代)は一木彫、瞳に墨、唇に朱をさすほかは、彩色しない白木のままとしている。中尊の毘沙門天は等身、右手に鉾をもち、左手を目の上にかざして、鞍馬山から南の京都を望見する姿は、いかにも王城鎮護・北方守護の精神を具象化したものというべく、仏像彫刻中、傑作。
兜跋毘沙門天立像(重文・平安時代) 高さ1.67m、一木彫の彩色像、太り気味の体に山形の宝冠をかぶり、外套のような長い鎧に身をかため、腕は海老籠手をはめ、二鬼を従えた地天の差し出す掌上に立っている。兜跋毘沙門天とは唐の玄宗皇帝の頃、敵軍に包囲された安西城の楼門にあらわれ、敵を追っ払ったといわれ、これに因んで平安京造営に際しては、羅城門の楼上に安置された。鞍馬寺を創建した藤原伊勢人は造東寺長官をつとめていた関係上、羅城門上のまねて、北方の守護神として当寺に安置したもの。
観音菩薩立像(重文・鎌倉時代)高さ1.76m、寄木造り、玉眼入の彩色像で、頭は髻をたかく結い上げ、両手は胸の中央で蓮華を捧げ、知的なまなざしで前方をみつめる長身の姿は、憂いをこめた女性的な感じがする。藤原伊勢人がはじめ念願していた観音像とは、これであった。足ほぞに嘉禄2年(1226)大仏師肥後別当定慶作の墨書銘があるので、旧像の破損後、鎌倉時代になって模刻したものとみられる。
魔王尊を祀る
堂の周辺に露出する石灰岩は、
2億6千年前に海底が隆起してできたものといわれる
鞍馬寺 検索 ➡ まとめ028 鞍馬寺
下の地図のユーザー地図 の囲みをクリックすると 付近の記事が探せます
謡曲「鞍馬天狗」と僧正ケ谷
謡曲「鞍馬天狗」は、源義経幼時の武勇説話を現代物に脚色した曲である。
鞍馬山の東谷の僧が、西谷の花見の招きを受けて修行中の稚児平家の公達や牛若丸を連れて出かけたが、見知らぬ山伏が来たので気を悪くして帰ってしまった。ただ一人残っている牛若丸の素性を知り憐れんだ山伏は諸所の花の名所を案内し「自分は大天狗である。平家討滅の望みの達せられるように兵法の秘伝を授けよう」といい、翌日からのはげ゛しい修練の末、約束の如く兵法を授け再会を約して大天狗は立ち去ったという豪壮な物語である。僧正ケ谷は牛若丸が天狗僧正坊から武芸を習った処で、老杉高く聳え、巨根地を這って昼なお暗く神秘感をただよわせている。 謡曲史跡保存会
右 魔王堂
よしつね堂 兵法稽古場 道
鞍馬寺 検索 ➡ まとめ028 鞍馬寺
鞍馬天狗 ➡ 銭湯・船岡温泉
僧正ケ谷 不動堂から魔王堂に至る鞍馬山中の渓谷のこと。
もと山岳修行者の霊地として、呪術者の活動したところ。
謡曲「鞍馬天狗」によって牛若丸と天狗が出会い、
武芸の修練を行ったところともいわれ、
これに付近には、義経を祀る義経堂や義経息つぎ水、
牛若背比べ石、兵法石、硯石など
牛若丸にまつわる遺蹟伝説が多い。
毎年9月15日に義経祭が行われる。
牛若の木太刀のあとといふ岩もさて信ずれば面白きかな 与謝野寛
不動堂
最澄作という不動像を安置する。
建物は方3間、単層、宝形造り、本瓦葺、正面1間に向拝を付す
昭和9年の改修
建築細部に鎌倉様式を採り入れている。
鞍馬寺 検索 ➡ まとめ028 鞍馬寺
大杉権現社
大魔王降臨の杉と伝わる、もとは3本の幹からなる巨大な杉であった
社内の大杉
大杉権現社
付近に 特異な 樹木 朽ちたまま残っています
樹木の根があらわに
天狗のうちわのような 大きな葉
奇異な樹木の形
鞍馬寺 検索 ➡ まとめ028 鞍馬寺
奥の院 461m 貴船 1026m 本殿 491m 仁王門 1455m
大杉権現 108m
この道標から 大杉権現 までに 木の根道がある
下に匍ふ鞍馬の山の木の根見よ堪へたるものはかくの如きぞ 与謝野寛
鞍馬寺 検索 ➡ まとめ028 鞍馬寺
木の根道 関連 ➡
まち歩き左0765 京都一周トレイル 13 横高山 山頂 767メートル
まち歩き左0468 京都一周トレイル 東山コース 40 木の根道
まち歩き左0464 京都一周トレイル 東山ルート 標識と 木の根道